白川
タンザニアからの手紙 No.35カンガをめぐる物語ー2 「カンガの言葉」
金山 麻美(かなやまあさみ)
カンガのデザインはカラフルで楽しいものが多いので、どうもわたしたち外国人はデザインで購入を決めてしまいがち、なのだが、地元の人たちにとって、決め手は「言葉」なのだそうだ。
カンガ問屋がたくさん並ぶダルエスサラームのカンガストリートで前に購入したけど同じものがもっと欲しいというときはこの「言葉」を店の人に知らせるほうがデザインを説明するよりも早い。店の人は置いてあるカンガの「言葉」をほとんど覚えてしまっている。小売のために買出しに来るおばさんたちの中には、ノートにたくさんの「言葉」を書いておいてそれを店の人に告げて購入していく人もいる。そうでない人も必ずカンガの「言葉」を確かめてから買ってゆく。自分で使うならば、いくらデザインが気に入っても「言葉」が気に入らなければ、購入しないというタンザニア女性がほとんどらしい。
女性が体に巻く布は世界各地にあれど、カンガのように「言葉」「メッセージ」がプリントされているものは、ないということだ。前回でも触れたけれど、なぜどのように布に言葉をプリントするというアイデアが生まれたかはわかっていないらしい。最初はアラビア語表記でプリントされていた。
David Parkin というひとのカンガに関する著作※によると、アラビア語表記の時はイスラムに関係する神聖な内容が多かっただろうということだ。しかし、1900年代初期にローマ字表記になるとそのタガが外れて、もっと直接的なメッセージ性をもつものが増えた。女性同士のライバルや男性に対するメッセージで 「エロチック」な意味を持つものがたくさん出てきたという。
たとえば、女から男に向けたものとしては
Chelewa chelewa utamkuta mototo, si wako.
遅れに遅れたら自分の子どもじゃない子どもに会うことになるでしょう。
女から女に向けたものとしては Pilipili zisizozilia zitakwashaje 食べていない唐辛子がなぜあなたを辛くするの (自分の関係ないことに関わるなというような意味) Fitina lako ni baraka kwangu あなたのケンカはわたしの祝福 Mpenzi wangu ni zahabu, kumpenda si ajabu わたしの愛は純金よ、彼をこんなに愛することができるのは不思議じゃないわ
てな具合である、現在でもここまで直接的ではなくても、意味深な「言葉」は けっこう見かける。 ※ここまでのカンガの「言葉」は、Textile as commodity, dress as text .: Swahili kanga and women’s statements .By David Parkinから拝借した(Ruth Barnes「Textiles in Indian Ocean Societies」 Routledge 2005内)※
おもしろいのは、そのカンガを誰が買ったか。本人か、恋人か、友人か。そしてそれを巻くときの状況‐いつ、どんな機会で、誰と一緒のときにというふうな‐によってもそのメッセージの伝わり方は違ってくるし、いくつもの解釈が成り立ってくるだろう。そこもカンガの「言葉」のおもしろさだ。
現在のカンガに見られる「言葉」の内容は様々だ。「神」に関するものも多い。たとえば Ewe Mola wangu upokee dua yangu 神よ、わたしの祈りを受けとめてください Mazuri ukiyatenda, mungu atakusaidia よい行いをすれば神がたすけてくださる
カンガが海岸地方で生まれたということを考えれば、イスラムの神かなともおもうけど、タンザニアにはクリスチャンも同じくらいいるし、タンザニアの国歌もMungu Ibariki Afrika 「神よアフリカに祝福あれ」なので、特定の神をさしていないと思われる。 こういったカンガは時と場所をあまり選ばずに使うことができそうだ。
結婚式の時には Leo ni siku ya furaha 今日は喜びの日 Kuolewa ni nuru mungu ameamuru 結婚は神が示した光だ
などの「言葉」が書かれたカンガをおそろいで女たちが巻いたりする。
Tenda wema nenda zako よく振舞いなさい、そして自分の場所に行きなさい
家族や両親、母親に関するものとしては Japokuwa unajitegemea wazazi bado ni tegemeo 自立していると言うけれど、親の支えがあってこそ Baraka zitasimama ukimsahau mama 母を忘れたら祝福はない Mzazi ni nguzo ya familia 親は一家の大黒柱
ことわざや人生の指針のようなものとしては Mvumlivu hula mbivu 急がばまわれ。(ことわざ。直訳は、我慢強い人が熟れた果物を食べる) Maisha ni kupata na kukosa 人生楽ありゃ苦あり Mapenzi kuaminiana 愛とは信頼しあうこと Dunia siyo mbaya, binadamu nidiyo wabaya 地球は悪くない、人間が悪いのだ
メッセージとして使われると思われるもの
最後のカテゴリーはいろいろな想像ができそうで、読んでるだけで面白くなってくるのではないだろうか?とくに最後の二つなど、この「言葉」のついたカンガを巻くのは勇気がいりそう。
リズミカルなおしゃべりを楽しむスワヒリ語の世界。とくに女たちやお年寄りのスワヒリ語の会話を聞いていると抑揚や言葉の伸ばし加減などが歌っているように感じることがある。でも、ほんとうに言いたいこと、伝えたいことは遠まわしにして、直接ぶつけない、というところがあるようだ。
たとえば、わたしが結構親しいタンザニア人に何かを提案したときに彼が 「siyo mbaya」(=悪くない) と、答えるので、このアイデアはいけるんだな、と最初は思っていた。 でも、話を深めるにつれて、それは、彼にとってあまり望ましくないことだということがなんとなくわかってきた。つまり、「siyo mbaya」は、悪くない=よくない、こと、だと解釈するのが妥当だということなのだ。 そういうところ、遠まわしに伝えようとするところは日本人にも似ている感じがする。だから、カンガの「言葉」も「そこから読み取ってね」という一種の奥ゆかしさ(それにしては直接的な「メッセージ」もあるけれど)の表れともいえるのではないだろうか。
わたしも、夫婦喧嘩をしたときに使えそうなカンガを選んでおこうっと。
参考文献 Ruth Barnes「Textiles in Indian Ocean Societies」 Routledge 2005 (2009年4月15日)