タンザニアからの手紙 No.44 マハレの思い出
金山 麻美(かなやまあさみ)
夫と2歳の息子とともに西田利貞さんとご一緒させていただいた1992年のマハレの思い出を少し。
ダルエスサラームから飛行機の国内便で約3時間、タンガニーカ湖沿いの町キゴマに着く。マハレ山塊国立公園へは、自分たちで食料を持参して入らねばならないので、まずキゴマの市場で食料品の買出しをする必要がある。
野菜市場で、キャベツやジャガイモ、にんじん、トマト、果物などを購入。
夜間のほうがタンガニーカ湖は静かだということで、夕方にキゴマを出発することになった。12時間の船の旅である。 荷物と人が10人も乗れば、満杯になってしまいそうなエンジンつきのボートだ。 そうはいっても、けっこう波しぶきがあがる。息子を抱いて寝袋に入ったけど、波をたくさんあびてしまった。息子を濡らさないようにするのが精一杯で、なかなか眠れなかった。けれど、西田さんは船のヘリに横たわり、ぐっすりと眠っておられるようだった。これが、フィールドワーカーなるものなのか、ちょっとやそっとでは動じないのだなと、感動したのであった。
船旅の終わる明け方に霧の中から現れたマハレの山々は緑深い桃源郷のようであった。
マハレに先に入っていた研究者の方が2歳の息子を見てこう言った。 「お子さん、体重10kgくらいでしょう?チンパンジーが狩りをするアカコロブスがちょうどそのくらいの体重なんだよね。だから、チンパンジーがそばにいるときには、注意したほうがいいよ」 おおっ。そんな。だけど、せっかくここまで来たからには、息子もチンパンジーに会わせたい。記憶には残らないだろうけど、見せてやりたい。そのう親心で夫と交代して息子を負ぶいながらチンパンジーの声のほうへと軽やかに進むトラッカーや西田さんたち研究者のあとを山道をよじ登るようにして付いていったのだった。
山の小道に彼らはいた。6、7メートル先くらいに。3頭ほど。けっこう体の大きなオスもいた。息をきらしながらも、チンパンジーに遭遇できたうれしさに、ちょと警戒しながらも、息子に「ほら、あっちにチンパンジーがいるよ」と指差しても、息子は全然関心を示さないのだ。そのうちに道端の落ち葉をつついて遊び始めてしまった。一方のチンパンジーたちも息子には見向きもせず、お互いに毛づくろいなどをしている。
努力の甲斐がなく、拍子抜けでもあった。まあ、息子は当時痩せていたしねえ。
それからは、息子には地元の人々との交流とご飯の支度の手伝いを命じ、山へは連れて行かなかった。
マハレではマンゴーハウスというゲスト小屋に泊まっていた。小屋はバブーンなどが入らないように窓の代わりに金網が張られていて、部屋とベッドはあるが、炊事、洗濯、水の用意などは自力でがんばるというシステムだ。当時はその近辺にトラッカー(チンパンジー追跡を手伝う地元トングウェの人たち)の家族も住んでいたので、にぎやかだった。炊事なども手伝ってもらえた。 チビたちもたくさんいて、息子は遊び相手には全然困らなかった。小さい子どもたちはすぐに仲良くなれるからすごい。
それ以来、わたしはマハレには行っていない。国立公園のルールが変わって今は、トラッカーの家族は公園外に住むことになっているそうだ。また、入園の年齢制限があるので、2歳児は入れないはず。
でも、マハレの森は今もあり、チンパンジーはじめ、生き物たちの桃源郷となっているのだろう。またあの様々な命の力がたくさん溶け込んでいるような空気を胸いっぱいに吸いたい。
たくさんマハレの土を踏んで、空気を吸った西田さんは逝ってしまった。これからも桃源郷が桃源郷であり続けられるようにしていくのは、わたしたちの仕事だろう。
☆このお話はわたしのブログ「タンザニア徒然草」にアップしたものを再構成したものです☆
(2011年6月15日)