タンザニアの片隅で 第2回 満天の星空とパワフルなこどもたち
鈴木沙央里(すずき さおり)
サワサワサワ… 雨の音かとはっとおきる。するとそれはバナナの葉っぱが風にゆれる 音だった。
まるで屋根のように家のまわりを取り巻くバナナの葉っぱ。 十分に睡眠をとって、ひさびさに田舎のゆったりとしたリズムに身をまかす。
6月中旬、私はスタッフの1人アレックスの出身地であるルカニ村を訪れた。 キリマンジャロ山のふもと、標高1500メートルの村。奥にくるにつれ、車が通っただけでこどもたちがはしゃぎだす。車の中の「外国人」に気づき追いかけてくる。
山の中の村!これまでどちらかというと平地の、それも乾燥地帯の村を訪ねる ことが多かった私にとって、緑の木々が生い茂った村というのは初めてだった。 当たり前だけれど、タンザニアの村といってもいろいろあるんだ、と改めて 実感した。
村にくると、うれしいこと。それはたくさんの「ちびっこたち」に会えることだ。 ほんとうに、背の順に並んでもらったらきれいに段々ができるくらい、ほとんどすべての年齢のこどもたちに会える。タンザニアの田舎を訪れるようになって、なかなか小さなこどもに出会えない「高齢化社会の日本」というものをまじまじと実感した。
それからもうひとつ。村でのとっておきのひとつ、満点の星空。私は地面の上にムケカ(植物であんだ敷物)をひいて寝転がって星をみるのが大好きだ。
夜、ルカニ村の家々には小さな明かりがついた。 でもそこから数十歩離れた通りにでるとあたり一面にひろがる「まっくら」。まさに「闇」。
日本での日常生活では、私はまさにこの、「闇」というのにもなかなかでくわさなかった。どんなに遅くても街灯がついているし、電車やバスの中でさえ明るい。 初めて1年間のケニア、タンザニア滞在から日本にもどったとき、真っ先に感じたことは「なんで夜なのにこんなに明るいんだ?」ということだった。「夜は暗いものなのだ」ということ、その闇ともいえる暗さを、私はこっちにきて初めて知ったのだった。
ルカニ村でのある夜。こどもたちがみんなで輪になり歌いだした。歌いながら円上にみんなで歩く遊びを始めた。ひとつ終わると、「あれは?」「これは?」といって新しい遊びを始める。おもしろいなーと思うのは、日本でいう「ハンカチおとし」や「かごめかごめ」にあたるようなそっくりの遊びがあることだ。
向かい合って2列になり肩をくんで歌いながら、相手側をはやしたてる。そして最後は両側から1人づつでてきて、腕を引き合い、自分側に引き寄せようとする。「タンザニア流?ルカニ流のはないちもんめ」だ! 背の高さが隣の子の3分の1くらいの子も一人前に列に入る。
そういえば、とタンザニアでは年齢がばらばらなこどもたちが一緒になって遊んでいる姿をよく見かけることを思い出す。 こどもだけではない。青年とよべるくらいの者と、ちびっことよべるくらい男の子が一緒にボードゲームをしていたのをみたことがある。そしてそれをいろいろな世代の人たちが囲んでみていた。
日本だと、大人が赤ちゃん言葉ならぬお子様言葉?で遊んであげている、といったイメージだがそうではない。きちんとした勝負をしているのだ。一人前同士、といったかんじである。
村のこどもたちは「こども」だけど、つくづく「おとなだ」と思う。ちいさな子が、自分よりもっとちいさなこの面倒をみる。よっぽど私なんかよりこどもの扱いを知っているので頭がさがる。そしてよく働く。
日本のテレビで「はじめてのおつかい」なんて具合にもてはやされるような、いやもっと小さな子たちが、当たり前のように、おつかいに出されているのも村ではよくみかける光景だ。
はたらき、そしていっぱい遊ぶ、おもいっきり遊ぶこどもたち。
その日はアレックスの家の前で、こどもたちの歌声はまさにエンドレスだった。ひとつ終わると、またひとつ、それが終わると今度はまた別の遊び。私たちの手をひいて一緒にぐるぐるまわろうよ、とさそうこどもたち。 やっと終わったかな…と思いきや、また別の歌が始まる。それは「さっきやっただろう!」と思いつつも一緒にまわる。
もう疲れた。ちょっと休ませて、と輪から抜けると、自分たちも休憩、休憩!といって私たちのまわりに集まってくる。…すると何か歌いだす。 休みじゃなかったのかい!思わず言ってしまう。のどがかれないのか、本当に 不思議だ。
満天の星空とパワフルなこどもたち。 これだから村に来ずにはいられない!
(2007年7月15日)