白川
読書ノート No.39 武内進一『現代アフリカの紛争と国家』
根本 利通(ねもととしみち)
武内進一『現代アフリカの紛争と国家-ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』(明石書店、2009年2月刊、6,500円)
第Ⅰ部(第1~2章)は定義的な説明である。本書では1990年代に増加したアフリカでの紛争を、ポストコロニアル家産制国家(PCPS)の解体という要因で説明する。PCPSというのは独立後の1960~80年代に成立していたアフリカ諸国家の特質を表わす。それは①家産制的な性格、②暴力的・抑圧的、③主権国家体系のなかで国際的に資源を獲得する、④市民社会領域を侵食するとされる。それが1980年代の、長期の経済的危機、経済的自由化(構造調整政策の導入)、政治的自由化(多党制の導入)の結果、脆弱化し解体に向かった。そこで紛争の増加、長期化が起こったとする。
第Ⅱ部では、ルワンダの植民地化以前および植民地期の歴史を概観する。 第3章では、まず植民地化以前のエスニシティの形成を追う。従来有力であったトゥチ、フトゥ、トゥワの人種起源、征服国家説への批判を紹介する。トゥチ牧畜民によるフトゥ農耕民に対する支配・被支配関係という機能主義モデルも否定される。そして17世紀以来のルワンダ王国の拡大過程のなかで、特に軍の発達のなかでトゥチ、フトゥという集団概念が発生していった可能性を指摘する。19世紀後半のルワブギリ王の征服・拡大の過程でルワンダ語話者の居住地域はだいたい王国に統合されたが、王宮と征服された周辺部との間で、階層的ヒエラルキーが形成されていったとも考えられるようだ。
第4章では、最初ドイツ、引き継いでベルギーによる植民地化を見る。ドイツによる軍事的占領は、ルワブギリ王の権力を温存する間接統治の形式を採った。しかし、ルワブギリ王の死後の後継争い、第一次世界大戦によるベルギー軍の占領、国際連盟委任統治領への移行の過程で、王権は弱化し、各地のチーフが相対的に自律した封建制に移行したという。戦後処理の過程でのイギリスとの交渉で、現在のルワンダの領域がほぼ固まった。
ベルギーは社会改革といえるような植民地政策を採った。形式的には間接統治であるが、従来の複雑な権利が入り組んでいた支配システムを簡素化し、王-チーフ-サブチーフという体制を整えた。州を設立し、その州の行政はベルギー人を置き、チーフたちを監督、罷免、異動させた。王ですら罷免の対象となり、官僚化された。各チーフ、サブチーフにはほとんどトゥチが登用され、フトゥは排除された。この過程ではカトリック教会による「ハム仮説」の論理化が行なわれた。教会による教育・学校もトゥチのエリート教育が行なわれ差別化された。1930年代半ばにはトゥチ、フトゥを区別した身分証明書が導入された。著者は「ヨーロッパ人の観念にあった「ハム仮説」は、植民地政策を通じてルワンダに移植され、現実を変えることでルワンダ人に内化されていった」とする(P.129)。
第6章では、1959~61年の「社会革命」を分析する。1990年代の内戦と虐殺の序曲と捉えられる。ベルギーは自治から独立への準備をほとんど行わなかった。しかし、国際社会、特に国連信託統治委員会からの圧力を受け、微温的な政治改革を小出しにする。そのなかでフトゥ・エリートの出現などを感じ取ったトゥチ・エリート層の既得権を固定化したい王党派の早期独立要求になっていく。それに対し不信感を持ったベルギー植民地当局は、多数派であるフトゥの民主主義的権利を擁護すると称して露骨に肩入れするようになる。当時の総督であったハロイ、騒乱開始後の軍事体制下での最高権力者であったロジスト大佐たちの個人的発想が左右したのだろうか。
1959年11月1日に始まった万聖節騒乱では、トゥチとフトゥとの衝突が起こるが、ベルギー当局は露骨にフトゥに肩入れする。その結果、地方にいたチーフ、サブチーフたちの一党は数百人殺されたり、また7千人ほどの国外難民が生まれた。1960年に勢力関係は逆転し、王は亡命した。1961年に行われた国民投票で王制は廃止され、選挙でフトゥのPARMEHUTUが圧勝し、カイバンダ政権が誕生する。この選挙運動の間に、今度はトゥチ一般人への攻撃がフトゥ行政官によって主導され、多くが殺されまた亡命を余儀なくされた。亡命したトゥチ大土地所有層の残した土地は国家にいったん接収され、行政官によって分配され小農が多く誕生した。ルワンダの農村には共同体的要素が希薄であるという背景となっている。
第Ⅲ部では独立以降、ジェノサイドまでの流れを概観する。 第7章では、1962年7月~1973年7月のカイバンダ政権期を概観する。多数派による民主的な体裁をとってスタートしたカイバンダ政権だが、トゥチはもちろん、フトゥの他党を壊滅に追い込み、事実上の一党制を確立する。そして与党PARMEHUTUの中でも反対派を排除し、出身地のギタラマ出身の側近グループで権力中枢を固めていく。亡命王党派の武装勢力(イニェンジと呼ばれた)の侵入が1961~66年の間に7回あり、そのたびに危機を迎え、何とかベルギー軍将校の支援で撃退するとともに、トゥチ一般農民の虐殺が繰り返された。ブルンディ、コンゴ、ウガンダといった近隣諸国との緊張関係を抱え、ベルギーに全面的に依存した暴力的な個人的支配という面でPCPSの性格を備えているとする。
第8章では、1973年7月~1994年4月のハビャリマナ政権期を概観する。ハビャリマナによるカイバンダ打倒のクーデタ後は軍政となるが、将校の出身地がカイバンダ政権の南部から、北西部のギセニイ、ルヘンゲリ州主体に移る。1978年に民政化とともに一党制に移行する。農業主体の開発、カトリック教会との密接な関係、エスニックのクォータ制などでトゥチを制限したことは事実だが虐殺は起こさず、国際社会のなかでは良好なイメージを保つことに成功する。しかし、その内実では「アカズ」と呼ばれた妻の兄弟を中心とした側近グループに権力・利権が集中し、PCPS的性格は存続した。
しかし、その内容がRPFにとって有利と見なされたため、MRND主流派特にアカズといわれた人たちは特権喪失の恐怖におびえることになる。RPFをトゥチと同一視し、反トゥチのキャンペーンを張るメディアを創設する。1991年に導入された多党制に伴い野党が多く誕生したが、その中でもそれに同調する急進派が出てくる。1993年10月に起こったブルンディでのクーデタで、選挙で選ばれたフトゥの大統領が、トゥチ主力の軍に暗殺されたのも大いに影響しただろう。エスニックなキャンペーン、政治的な暴力事件が頻発し、緊張が高まって1994年4月を迎えた。
第10章ではジェノサイドを扱った先行研究を概観する。積年の「部族対立」説は否定される。経済危機、土地不足が原因だけでは説明できない。人種主義(ハム仮説)とフトゥ中間層の功利主義という議論は刺激的である。ハビャリマナ政権の全体主義的独裁制による動員という観点には無理がある。それよりもフトゥ集団内部の圧力、特に地方の行政権力者の圧力で一般大衆が参加したという観点には注目できるとしている。
第11章ではジェノサイドの進行過程を述べ、著者の調査による分析を述べている。1994年4月6日夜の大統領搭乗機撃墜事件から、国防省官房長バゴソラの主導権でキガリではすぐに首相を含む野党リベラル派要人の殺害が始まった。そしてまたたくまに地方に広がって、組織的なトゥチ一般人の狩り出し、大量殺戮が行なわれた。6日の晩にバソゴラと会談した国連代表やUNAMIR総司令官も何ら打つ手がなかったように見える。8日には急進派の与野党が協定し、暫定文民政権を作り、虐殺の指令を全国に飛ばした。地方では与党の幹部だった地方行政官の指揮のもとに、軍・警察の武器を使って教会、学校、スタジアムなどで大量殺戮を遂行した。ミクロレベルではやはり村の行政官もしくは有力者が指揮して、インテラハムウェなどの民兵がトゥチの家を焼き払い殺して回った(イビテロ)。著者による2か所での聞き取り調査でも、一般の農民がイビテロに参加していった様子がうかがえる。
結論としては、まず著者が設定したPCPSという枠組みでのルワンダのカイバンダ、ハビャリマナ政権、そしてその解体過程でジェノサイドが発生したという解釈の妥当性を主張する。つまり、解体過程で急進的なフトゥ・パワーのネットワークによる新たな国家権力をめぐる闘争が激化したため、中央から地方へ存在するパトロン・クライアント・ネットワークが作動した結果であるとする。そしてそのエスニシティの政治化や農村の有力者の存在は、植民地期の影響が明らかだとする。
さらにPCPSという枠組みは、サブサハラの多くの国々でも有効であるとする。「民族紛争」のメカニズムを紛争の「大衆化」という視角を提供する。紛争と国家の統治との密接な関連を示し、「グッド・ガバナンス」の問題を提起する。最後に欧米諸国の決定的な影響力を指摘し、2000年代に入りアフリカの紛争が減少した背景として、欧米諸国の平和構築政策の精緻化を看取できるとしている。
ルワンダは2007年6月に短い旅をした。たった2泊3日でキガリとキヴ湖を見ただけだから、旅とも言えないような短い滞在だった。ただその時の印象「この国はちょっとおかしい」というのがずっと尾を引いていた。何がおかしいかというのを論理的に説明するのは難しいのだが、例えば、ルワンダの人たちが行列を作るとか、郊外の空いている道路でスピード違反をしないとか、タンザニアに慣れた私には違和感があった。これはケニアはもちろん、ウガンダとかモザンビークとか、その後行ったブルンジにしても、もちろんタンザニアとは違うのだが、同じ東アフリカの国として共通する部分も多い。それに対して、ルワンダは「違う」という雰囲気を濃厚に感じた。
ルワンダ人のおとなしさ、猥雑さのなさに、何か抑えたものを感じたのは予断が入っていたのかもしれない。テレビに頻繁に登場する「あの人」と「あの時」の映像が、ジェノサイドの記憶を常に呼び起こし、反省を迫っているような…。何か無理しているようだから、また何かが弾けるかもしれないという根拠のない怯えも感じた。本書に著者が調査地で撮った農村の人びとの写真が十数葉載っている。インタビューの内容からいって仕方ないのだろうが、屈託が見えるような気がする。
服部正也氏は1994年10月、ルワンダのジェノサイドの、特にアメリカのメディアの報道ぶりに関して強い疑問を呈している。服部氏はカイバンダ政権の1965~71年の間、IMFから派遣されてルワンダ中央銀行総裁を務めた人物で、その著書は名著として名高い。カイバンダ政権時代の素朴なルワンダという国家と若い閣僚たちのエピソードはほほえましい。しかし、この時代にすでにジェノサイドの芽は育っていたのだ。清廉・理想家として描かれるカイバンダ大統領や、派閥作りを指摘されているハビャリマナ中央銀行副総裁にも。
服部氏は、外国人(特にヨーロッパ人)の持つ差別的な態度に憤慨しつつ、ルワンダ農民と商人の自立による長期的経済発展の道筋を立てようとする。そして「途上国の発展を阻む最大の障害は人の問題であるが、その発展の最大の要素もまた人なのである」と予言(遺言?)を残してルワンダを去る。1994年のRPFのバックにいるウガンダとその背景にいるアメリカの指摘は当然だろうと思うし、2013年の今なお有効だろう。しかし、多数派支配が民主主義の基盤であるかのような素朴な信仰にはやや疑問がある。
舩田クラーセンさやか氏はルワンダの独立前の「社会革命」と1964年のザンジバル革命の共通性を指摘しているが、多数派による少数派支配の打倒という側面だけに注目すると誤ってしまう怖れがある。エスニックな多数・少数の問題に囚われると、「民主主義とはなにか?」が見えなくなってくると思う。もちろん、国際社会の政治力学や経済の論理最優先だけでもないだろう。
読み終えてやはり暗い気持ちになってしまう。ルワンダのジェノサイドというのは明るい希望の見える話題ではないのだ。そして1990年代から頻発しているアフリカの武力紛争の究極の典型として、ルワンダのジェノサイドが分析されないといけないというのはわかる。でも元気が出てこないテーマであるというのも事実だ。「紛争と共生」と題して、アフリカ人の固有の知恵を解決に生かそうという試みがある。意図はよしとするが、その議論が「崩壊国家」とか「破綻国家」とかになっては違和感がある。多くのジャーナリストは「アフリカ人自身に紛争解決能力はない」と思っているかのような報告を載せる。
どうしても自分が知っている、そして慣れ親しんだタンザニアと比較してしまう。タンザニアが特別なのか、ルワンダが特殊なのか。本書の結論で、PCPSの枠組みでアフリカ諸国を分類している部分がある。紛争の有無、政治的自由化、政治変動、人間開発指標、国民所得などの統計をつかっての分類である。そこでタンザニアはどう扱われているのか。
タンザニアは紛争がなく政治的自由度が比較的高く、かつ冷戦末期(1989年)から自由化が進展したと分類されている。さらに、それ以前からの政治勢力が依然政権を掌握しており、経済成長は安定しているが依然水準としては低いグループに属する。同じグループ分けされているセネガル、マダガスカル、マリ、レソト、ボツワナの諸国との共通性はあまり感じられないがいかがなものだろう。しかし、2015年の次の総選挙に向けてセネガルあるいはマダガスカルのような事態に陥らないとも断言できないのだろうか。
☆参照文献:服部正也『ルワンダ中央銀行総裁日記・増補版』(中公新書、1972年、増補版2009年) ・舩田クラーセンさやか「解放の時代」におけるナショナリズムと国民国家の課題」(小倉充夫編『現代アフリカ社会と国際関係』(有信堂、2012年)
(2013年7月15日)