白川
読書ノート No.80 ナイジェル・クリフ『ヴァスコ・ダ・ガマの「聖戦」』
根本 利通(ねもととしみち)
ナイジェル・クリフ著、山村宜子訳『ヴァスコ・ダ・ガマの「聖戦」-宗教対立の潮目を変えた大航海』 (白水社、2013年8月刊)。 原著はNigel Cliff "HOLY WAR"(2011)。
クリストバル・コロンと並び大航海時代の本格的幕開けを告げるヴァスコ・ダ・ガマの第1回目の航海を、イスラームとキリスト教の宗教対立の観点から見直そうとした著作である。多くの歴史書・史料を参照しているが、ノンフィクション文学である。
第1章ではムハンマドが神の啓示を受けてからイスラームの大拡張、ジブラルタル海峡を越えてポワチエで食い止められ、その後のイベリア半島のイスラーム国家の栄華とそれに対するレコンキスタの始まりを描いている。第2章では十字軍時代を主にキリスト教世界(ローマ教皇と諸国王・貴族)から描いている。いかに神の名において略奪・虐殺が繰り返されてきたことか。
第3章でポルトガル王国の成立、ジョアン王とその3人の王子によるセウタ攻略戦(1415年)が描かれる。これが大航海時代の先駆というより幕開けと言っていいだろうが、ポルトガル側の操船技術がまだ稚拙で、風向きによってはジブラルタル側に流されたというのがおもしろい。第4章ではエンリケ航海王子による大西洋を通したアフリカ大陸南下作戦を描く。カラヴェル船の導入、プレスター・ジョン伝説の話。壮大な計画は莫大な出費とその見返りにわずかな金しかもたらさなかったが、それを埋める人間貨物=奴隷を連れ帰ることが始まる(1441年)。ローマ教皇はそれにお墨付きを与えた。大航海時代は呪われた大西洋奴隷貿易の幕開けでもあったのだ。
第6章では、ヴァスコ・ダ・ガマの先駆者たちを紹介する。1482年にコンゴ川、1486年にナミビアに到達したディオゴ・カン。1487年5月、東方(エジプト、インド、エチオピア)に派遣されたスパイであるコヴィリャとバイヴァ。1487年8月にリスボンを出航し、喜望峰を回ったところで引き返したバルトロメウ・ディアス。そして最大のライバル、クリストバル・コロンは1492年8月、スペインの船でカディスから西へ向けて出航した。そして1493年3月、リスボン港にたどりついたが、インドへ到達したという証拠(金、香辛料など)を持ち帰れなかったく。その結果、1494年トルデシャリスで、ローマ教皇の仲介のもと、ほとんど未知の国々をポルトガルとスペインで二分するという暴挙が条約として結ばれるのである。
第2部第7章に入ってやっとヴァスコ・ダ・ガマが登場する。下級貴族の出身だったらしいということで、生地や生年月日もはっきりしないという。最有力説は1469年生まれ(1460年説もあり)、南部の小さな港町シ―ネス生まれということだ。マヌエル王に抜擢され、1497年7月8日、4隻の船と170人(148人説もあり)の人員を率いてリスボンを出航した。最有力説に従えば、まだ28歳という若い司令官だったことになる。
第2部は「探検」と題され、第7章~第13章までの7章で、インドへの第1回航海の話である。本書の核心というか、もっとも華々しい部分になるので、ネタばらしになるので詳しくは触れない。大西洋を南下し、喜望峰を周航し、インド洋のスワヒリ海岸のいくつかの町に寄港し、最後南インドのカリカット(現コーリコッド)の沖にたどり着く。1498年5月20日のことであったとされる。ヨーロッパ人として初めてのインド航海に成功する。カリカットでの商行為はうまくいかず、その支配者(ザモリン)との友好関係も樹立できずに、8月末に帰国の途に就いた。最後は2隻になり、僚船のベリオ号は1449年7月10日、リスボンの西カスカイス港に帰着した。732日間、38,400kmの航行であった。ヴァスコ・ダ・ガマの旗艦サン・ガブリエル号の帰投は数週間遅れ、ガマ自身はさらに遅れた(8月29日説、9月8日説などがある)。戻ってきたのは55人ほどだったという。
ガマはこの航海の成功で、世襲貴族に叙せられ、有力な家柄の女性に求婚し、立身出世の階段を歩み出す。しかし、インド航路の発見の噂は、東方との貿易をほぼ独占していたヴェネツィア共和国をいたく刺激する。ポルトガルといういなかの小王国を相手にしていなかったヴェネツィアが、その真実、情報を求めて、有能な大使やスパイを送り込んだ。オスマン・トルコの圧力をもろに受けているヴェネツィアは、ポルトガルをその十字軍に巻き込もうとするがうまくいかない。すると今度はエジプトのスルタンと対ポルトガル共同戦線を模索しようとした。
第3部は「十字軍」と題されているように、探検よりもイスラームとの戦争・征服・略奪に重点が置かれたガマの後半生が描かれている。第14~16章は1502年2月~1503年10月のガマの第2回航海を描いているが、最初から武力を背景とした強圧的な商取引を要求している。往路、キルワ・キシワニに立ち寄り、アミール・イブラヒームをポルトガル国王の保護下におき、貢納を誓わせた。8月にはインドのゴアの近くに到達し、その後南下してマラバール海岸に向かった。マラバール海岸での最有力港市は前回訪問し冷たくあしらわれたカリカットだったが、それと対立するカナノール(カヌール)とコーチン(コチ)と協力して、カリカットに復讐する戦術に出る。マラバール海岸の海上を封鎖し、手始めにカリカットの有力商人を乗せた巡礼船ミリ号を襲い、積荷・財産を奪い、ほとんどの乗客を殺し、船を焼き払った。友好港市にも臣従を要求し、香辛料を1700t満載してリスボンに戻り、さらに名声を上げた。同じ年に最後の航海に出航したライバルのコロンがジャマイカで苦闘していたのとは対照的であったという。
ヴァスコ・ダ・ガマの2回の航海の成功で、リスボンは世界の商業の中心地となったが、ポルトガルのマヌエル王のインド洋からムスリムを消し去り、聖地エルサレムの王となる野望の聖戦は終わらなかった。ガマがマラバール海岸に残した5隻の常駐艦隊以外に、強力な後継艦隊を次々に派遣した。特にアルメイダ(1505~09年)とアルブケルケ(1506~15年)の遠征である。アルメイダはスワヒリ海岸ではキルワを制圧し砦を築き、モンバサも攻略した。マラバール海岸ではカリカットに圧力をかけつつ、マムルーク朝の艦隊をディウの海戦で破った。後任のアルブケルケはゴアに本拠地を構え、さらに東進しマラッカを攻略し、ついに香料の産地であるマルク(モルッカ)諸島に達した。さらに取って返してイスラームの交易ルートを押さえるため、ホルムズを占領した。インド洋のほぼ全域を覆う拠点を持った海洋帝国が出現した。
しかし、広大な海洋帝国の統治のためには小国ポルトガルには人材が足りなかったのかもしれない。ガマが第2回航海で残した親族からすでに腐敗は始まっていた。しょせん略奪を基本とする海賊稼業だから、統治体制を築き上げるのは難しかったのだろう。1524年4月、ヴァスコ・ダ・ガマはインド副王つまり王の代理という称号をもらって第3回目の航海に出た。2人の息子を同行した。インドに到着すると、チャウル、ゴア、カナノール、コーチンを回り、綱紀粛正を図り、不正が見つかると処罰した。気楽な生活を送っていたポルトガル人、前任の総督などから不穏な動きが出かかったが、幸か不幸かその年のクリスマスイヴにガマは死亡した。
ポルトガルの海洋帝国はゴアを本拠とし、モザンビーク・モンバサ~ホルムズ~マラバール~マラカ・マルク~マカオ~長崎とつながり、リスボンを経由せずに商品と銀が回り出した。ポルトガル本国で将来のない男たちが来航し、一財産作って殿様のような暮らしを目指した。絶頂期のゴアの人口は20万人で、パリと同数で、ロンドン、リスボンより多かったという。権力者たちは享楽的で、現地住民・奴隷には残虐・横暴な行為が多かった。かのフランシスコ・ザビエルはゴアを本拠に布教活動をし、遺体もこの地に眠っている。そのザビエルは植民地の道徳改善のために提案したのが、なんと宗教裁判所の設立なのだ。この裁判所の異端尋問によって、ヒンドゥー教やユダヤ教からの改宗者、東方教会系の聖トマス派キリスト教徒から多くの犠牲者が出たという。十字軍は続いたのだった。しかし、16世紀の終わりに近づくにつれ、東洋行きを志願するポルトガル人は集まらなくなっていったという。「ヴァスコ・ダ・ガマの最初の航海から30年の間に、おそらく8万人の男が植民地へ出発した。そのうち、おそらく8千人ほどが戻ってきた。100万人の男女子どもしかいない国で、これは耐えがたい損失だった」(P.357)。
ヴァスコ・ダ・ガマの侵入の前には、インド洋はイスラームの海といわれたが、実はイスラームだけではなく、ユダヤ教徒、ヒンドゥー教徒、パーシー教徒、東方キリスト教徒、仏教徒、中国人などの多様な宗教、民族の競合と共存の世界であった。各港市では関税は掛けられることが多かったとはいえ、中国やインドの巨大な陸上帝国の管理が及ぶとは限らず、かなり自由な交易が保証され、来航者と現地の人びととの通婚を含めた交流は盛んで、多様な文化の共存する居留地と自由な世界があったのだと思う。そこに破壊的に参入したのが、貧しくて魅力的な商品を持たず、無知で粗野なポルトガル人だったということだろう。そして、その武力的な優位は千年以上に及ぶインド洋の交易網を乱し、その後の植民地支配の拠点を作りだしてしまった。ポルトガルの跡を追う、英国、オランダ、フランスの影が見えてくる。
16世紀の半ばから後半にかけて、ポルトガルはヨーロッパへの香辛料貿易を過半はおさえたが独占とまではいかなかった。グジャラート商人やムスリム商人の交易網は健在であり、ガマが拒否したマラバール海岸での団体価格交渉もアジアの港市(マラカなど)では依然一般的であった。ムスリム商人から見ればキリスト教徒はただ対立すべき者と見なされてはいなかったはずだ。それはイスラームが本来商人の宗教であったからだろうし、この「宗教対立」は十字軍以来、キリスト教徒から仕掛けられたものだったのではないか。そこを気をつけいないと現代のブッシュの「十字軍」発言にごまかされてしまうことになりかねない。
本書の原題は「聖戦」である。日本語の副題として「宗教対立の潮目を変えた大航海」となっているが、これはどこから来たのだろう?少なくとも本書を読む限り、ヴァスコ・ダ・ガマの大航海の背景に宗教対立があったことは確かだが、それによって「宗教対立の潮目が変わった」とは思えない。プロローグにあるように「地球規模の貿易バランスを覆そうという試み」であったとしても。エピローグで著者は「聖戦は終わることがない。‥最後の十字軍-すべての聖戦を終わらせる聖戦-はつねに非現実的な夢だったのだ」(P.375)という。そして悲しいことに2015年1月7日にパリで起こった襲撃事件を予告してしまった。「一方では西洋人は内なる敵としてムスリムの隣人を恐れるようになり、昔の露骨な言葉を持ち出し、相手側を中世の狂信者、堕落した悪魔などと風刺漫画化する」(P.373)。
著者は多くの史料を読み込み、本文に書き込めないことを原注でさらに詳しく記している。その壮大な努力に敬意を表する。しかし、そのなかには誤りと見られることもある。例えば、第14章でキルワ・キシワニについての注で「現在では、島に行くには浅瀬を歩いて渡るしか方法はない」となっている(P.438)が、現在でもマシュアと呼ばれる小さなダウ船が島民の往来の足となっている。これはたまたま私が現地の状況を知っているから気がついたのだが、ほかにもあるかもしれない。日本にポルトガル人が漂着したのも1542年になっている。
☆挿絵は本書から、地図は本書を参考に作成
☆参照文献: ・横井祐介『図解 大航海時代大全』(カンゼン、2014年) ・フィリップ・カーティン著、田村愛理・中堂幸政・山影進訳『異文化間交易の世界史』(NTT出版、2002年)
(2015年2月11日)