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読書ノート No.94   Thomas Molony『Nyerere - The Early Years』

根本 利通(ねもととしみち)

 Thomas Molony『Nyerere - The Early Years』(James Currey、2014年刊) 

 昨日(10月14日)はジュリアス・ニエレレ初代大統領の16年目の命日で休日だった。その若き日、政治に入るまでの前半生をたどった本である。

 本書の目次は以下のようになっている。 序文 第1章 ブティアマ-放棄された土地 第2章 ムソマとタボラ-カンバラゲ、雨の精霊 第3章 マケレレ-ジュリアスとなる 第4章 タボラへの帰還-アフリカ人協会 第5章 スコットランド-偉大な概念 第6章 エジンバラとウフル-政治、哲学、経済 第7章 エジンバラとウジャマー-歴史と人類学 第8章 ロンドンとプグ-教育と政治 第9章 前半生-伝説と再評価

 第1章では、ニエレレが生まれた現在のマラ州のブティアマ村の地理的、精神的な風景を描く。ニエレレは、ブティアマ村のムウィトンゴ(ザナキ語で放棄された土地の意)に、小民族であるザナキ人のアブハキブウェゲ氏族の長であったニエレレ・ブリトとその第五夫人であったムガヤ・ニャゴンベの間に生まれた。父の屋敷地に隣接してある神聖なる森ムフンダやバブーンの形をした精霊の使いなどが語られる。ニエレレの葬儀の際に小さな地震があり、その直後に大雨が降ったと言われている。

 19世紀の末に外来のヨーロッパ人と接触した当時の、ザナキ人の共同体はどうであったか。これはヨーロッパ人の旅行記、行政記録や人類学者の調査によって記述されているが、著者は慎重に検討する。年齢階梯、平等的で首長制ではなく長老たちによる共同統治であったことなど。そしてオーストリア生まれのコリーによる首長の「任命」や慣習法の「発見」、英領時代の間接統治時代の首長制の整備など。そのなかでニエレレの父ブリトは1860年に生まれ、首長の補佐役から首長に取り立てられ、1942年に亡くなるがニエレレの兄ワンザギ・ニエレレ(1910年生まれ)が後継首長となった。

 第2章では、ニエレレの生誕からムソマでの小学校、タボラでの中学校時代という幼少年時代を発掘する。カンバラゲ・ニエレレは1922年4月13日にムウィトンゴで生まれたとされている。異説もあり、ニエレレ自身が1960年ころまでは正確に自身の誕生日を認識していなかったという。カンバラゲは雨の精霊の名で、生まれたときには大雨だったのでそう名づけられたと聞いていたが、本書では最初はMugendi(歩く人)と名づけられたが泣きやまないので、占い師に見てもらい、カンバラゲと名づけて泣きやんだという話を紹介している。カンバラゲは女性用の名だったそうだ。ほかの同年齢の少年と同じように、畑を耕し、家畜を追う生活をしていたニエレレは貧しい小農の子どもだと称するが、首長の息子がさほど貧しかったわけではないとする。

 ニエレレがムソマの小学校に上がったエピソードもいくつかの説があるようだが、父はかなり消極的な態度で、兄の支持が大きかったようだ。学費・生活費のことを考えるとやはり首長の子どもということだろう。その首長は、祖先崇拝とか精霊信仰を権力の源泉にしているわけだが、その息子がキリスト教に改宗することはその権威を揺るがすことにつながりかねない。同級生のやはり首長の子どもに誘われて、カトリックのホワイト・ファーザーズでキリスト教に触れるのだが、ニエレレ自身は「私は完全に部族の少年だった。…立ち止まる山羊を家路に導き従順にさせる魔法のようなもの」と表現している。ただ、著者はキリスト教への目覚めを、スポーツよりも読書が好きな少年の知識・学問への欲求という要因に置いている。

 ニエレレは進級試験で首席の成績を収め、1937年奨学金をもらってタボラ(ボーイズ)中学校に進んだ。タボラ中学校は当時タンガニーカではトップのエリート校だった。主に首長や政府役人、一部の金持ちの子どもたちを受け入れていて、「タンガニーカのイートン校」と呼ばれる英国のパブリックスクールの教育を模倣していた。アダム・サッピとか、アブダラ・フンディキラといった独立運動の指導者を輩出している。この時代にニエレレがエリート・特権意識を持っていたかどうかは定かではない。しかし、スポーツには見向きもせずに、読書とボーイスカウト活動、そして弁論部の活動に参加していた。ニエレレの独立不羈、自力への信念はこの時代に培われたのだという。1942年の卒業の半年前に父が亡くなり、兄のワンザギが後継の首長になるが、このニエレレの良き理解者・支援者であった兄弟関係と、同時代のセネガルのサンゴール兄弟(レネとセダ―ル)との類似を指摘している。

父ニエレレ・ブリト(1940-41年ころ)  第3章では、タボラ中学校を卒業後、ブティアマに帰郷する。父はすでに亡く、その反対もないので、1942年(本書では1943年となっている)12月洗礼を受け、ジュリアスと名乗るようになった。20歳を超していたニエレレは自分で洗礼名を選んだらしい。その翌年、奨学金を得てウガンダのマケレレ大学に進学する。マケレレ大学は1922年創立の東アフリカきっての名門校である。ウガンダのみならず、ケニア、タンガニーカの名門高校の卒業生が集まっていたが、ニエレレの入学の翌年には北ローデシア、ニヤサランドの学生も入学してきて、東南部アフリカの広い地域のアフリカ人エリートの交流の場となった。

 この時代のニエレレは、相変わらずスポーツや社交には参加せず、本の虫と議論好きで有名だったらしい。1943年7月に「Tanganyika Standard」に投稿している。おりからの世界大戦は経済的要因から起こったとし、ヨーロッパに根ざした資本主義と比較し、アフリカ人は性来社会主義的であるとする。読者は多くがヨーロッパ人である新聞に「教育のあるアフリカ人」として投稿した目的は何か。将来のUjamaa思想の萌芽が見られ、独立タンガニーカを見据えているとする。ほかの学生がエリートとしてガリ勉していて、政治的な危険を冒さないのに対し、ニエレレは一般のタンガニーカ人とを結ぶ橋を架けようとしていた。

 さらに女性の自立に関して「Uhuru wa Wanawake」というエッセイを発表している(1944年)。父が22人の妻を持ち、ニエレレの母を含めて苦労している姿をつぶさに見てきたからだろうといわれる。またムワパチュ、ティバンデバゲといったタンガニーカ出身の学生と、タンガニーカ・アフリカ人福祉協会を立ち上げ(1944年)その役員となった。この組織は学生の福利厚生を目指したもので政治的なものではなかったが、翌年、1940年代初頭に設立されお茶会グループとなっていたアフリカ人協会マケレレ支部に衣替えしたらしい。しかし、支部もニエレレたちが去った1947年にはまた活動を停止した。 

 第4章では、マケレレ大学を卒業し、タボラで教鞭を執ったニエレレの政治活動への参加、結婚問題、勉学を続けたい思いを描いている。1945年に教育学のディプロマを取得したニエレレは帰郷する。タボラには母校であり名門校である公立のタボラ中学校と、ミッションの経営のセント・メリー高校があり、公立の方の条件は良かったが、先輩の誘いを受けて、ミッションスクールを選ぶ。1946年1月から教員となり、生物と歴史を教える傍ら、郊外で教育のない若者や中年の人に英語を無料で教えていたという。またアフリカ人協会のダルエスサラーム総会に参加したり、そのタボラ支部の会計となり、砂糖や小麦粉、石鹸などを売るショップを運営していた。またマケレレ大学で発行されていた雑誌に「教育の重要性。教育を受けた若者の共同体に対する貢献の必要性」を訴える論文を投稿していた。

 結婚問題も発生した。まだニエレレがタボラ中学校在学中に、父が亡くなる前に婚約者と決め、婚資を払った少女(おそらくニエレレより15~16歳年下)のマゴリがタボラのニエレレの家に同居し、小学校に通い出す。ザナキ人の幼女婚の習慣による。この婚約はその後解消されたが、ほどなくニエレレの終生の妻となるマリア・ワニングと出会う。ママ・マリアは現在も存命で(84歳)、ときどきマスコミで報道されて存在感を示している。1930年末、ブティアマから見ると北、ケニアとの国境に近いタリメ県のバラキ村に生まれた。父はシンビティ人で最初に(1933年)カトリックに入信した5人の一人だったという。マリアもミッションの小学校、師範学校を経て、1947年に小学校教員を始めた。ニエレレとマリアを紹介したのは同僚の教員夫妻だったようだが、「教育を受けた人間でカトリック信者」という当時では少ない、特に女性では稀な条件を具えていたのがマリアだった。

 ニエレレは結婚問題ではなく、進路に大いに悩んだ青春をタボラでの教員時代に過ごしたらしい。勉強を続けたい気が強く、ロンドン大学の資格試験も通過した。おりから第二次大戦後のアトリー労働党政権は、インドの独立を認め、アフリカ大陸でも独立の趨勢は避けがたいとして、CDWS(植民地開発福祉計画」が「将来指導者として社会・経済・政治的に役に立つアフリカ人学生を引き込む」ための奨学金を拡大している時期で、機会は多かったようだ。しかし、AAは1948年にTAA(タンガニーカ・アフリカ人協会)に改組し、独立への動きを強めていた時期でもあり、留学で戦列を離れることに躊躇もあったのだろうか。しかし、弁護士となるために法学を勧める周囲を押し切り、科学教師となるコースを選んで、1949年春スコットランドへの留学の途に立った。マリアとは出発前の1948年12月に婚約した。

母ムガヤ・ニャゴンベ(1966年)  第5章は勇躍して渡航したスコットランドのエジンバラ大学留学時代である。1949年4月9日、ダルエスサラームをBOACに飛行機に乗って出発したニエレレは、4月12日にサウザンプトンに到着した。植民地省の役人の出迎えを受けて、列車でロンドンへ、そして1週間滞在して、20日にエジンバラに移動した。ニエレレが英国で教育を受けた最初のタンガニーカ人だという神話は否定される。また、エジンバラ駅で待ち受けていたのは、植民地省役人だけではなく、留学生教会牧師、共産党員、ヒットラー賛美者による道徳復興運動員だったという組み合わせがおもしろい。将来のアフリカ大陸の指導者予備軍をオルグしようとしていたのだろう。その当時における住居問題の人種隔離問題にも触れられる。90%以上の大家がアフリカ人(黒人)を断るという統計も示されている。しかし、これは現在でも形を変え、英国でも日本でも存在しているし、今年になって曽野綾子がアパルトヘイト称揚の記事を書いたことも記憶に新しい。

 大学での専攻の選択で、当時は「アフリカ人は(ラテン語などを必修とする)人文科学のレベルには足りない」と見なされ、最初心ならずも自然科学を専攻させられそうになる。頑張って人文科学の専攻を勝ち取るのだが、当時の東・中央アフリカからの留学生の多くは、法学、医学、看護学、工学を専攻しており、人文科学を選んだのはごく少数だったという。ニエレレは「帰国後に祖国に貢献するために」という意識がはっきりあったとされる。ここらへんは昨今の日本の文科省の指針「実学優先、人文科学の削減」、学問嫌いだろうと思われるの首相の存在を考えてしまう。

 ニエレレは3年間で政治経済学、社会人類学、英文学(シェイクスピアのスワヒリ語訳をしたことで知られる)、経済史学、英国史、憲法学、道徳哲学を選択し、道徳哲学では平和主義、キリスト教社会主義、反アパルトヘイトを学んだという。当時の親しい牧師は「ニエレレはスコットランド時代に、政治家としての成長に直接の強力な影響を受けた。彼は政府の性格とか、個人の権利とかに対する基本的な考え方、人生観というものをゆっくりと築いていった」と言っている。

 その後、1949年のタンザニア北西部を襲った飢饉に対し、被扶養家族に対する送金を増やしたいニエレレの家族手当アップの戦いを検証している。比較的理解を示す英国本国の植民地省の役人と否定的なタンガニーカ政府の対比がおもしろい。ニエレレはインフレ率、家族に対する責任を挙げて、要求を満たされなければ学業を中断して帰国するという脅迫を複数回書き送っているが、成功しない。著者はその後のニエレレの政略に辞職の脅迫が度々使われることに触れている。ニエレレの主張は理解できるが、タンガニーカ政府の「国民の負担で教育を受けているのに」という反論の方が説得力があるように思える。これは1970年代前半に、ダルエスサラーム大学の学生の手当増額要求に対し、「裸足の国民の税金で支えられている大学生は国家に貢献する義務がある」と強制帰郷させた事件と重なり合う。ちなみにニエレレは休みにウェールズでじゃがいも掘りのアルバイトをしたことがあるようだ。

 故国の家族に比べ、ニエレレのスコットランドでの暮らしはさほど悪くなかったはずだと想像する。厳しい人種差別には遭わず、友人のスコットランド人の家に第二の息子のように親しく出入りし、新聞のクロスワードを解くようなことをしていた。この時代にBBC放送や「Scotsman」のような新聞をよく読んでいただろうと想像される。この時代に英国の2回の総選挙で、労働党と保守党の政権交代を目撃するのだが、その経験が「ウェストミンスター型の二大政党制は民主的ではない」とのちの「一党制民主主義国家」構想につながったのではないかという。ほかにも英国における福祉国家建設の動き、南アのアパルトヘイト体制への移行、スコットランド民族主義の高揚、ガーナ独立運動の盛り上がりなどを経験したことが、ニエレレに影響を与えたとする。

 第6章では、エジンバラ時代のニエレレの政治とのかかわりを扱っている。隣人のスコットランド人には、ニエレレは活発な政治活動家とは見られなかったようだが、タンガニーカで政治活動を理由に左遷されいたムワパチュなどとの交信から、故国の政治情勢はかなり把握しており、例えばレイク州の協同組合運動で台頭してきたポール・ボマニなどの情報を持っていた。ニエレレは英国在住のタンガニーカ人留学生の組織化を狙ったのか、名簿を作り交信を始めたという。1952年末段階で、アフリカ人10人、アジア人55人、ヨーロッパ人33人がいたという。主にアフリカ人との交流だが、アジア人のアル・ヌール・カッサムともこの時ロンドンで会っている。また1951年7月に行なわれたフェスティバルで訪れたトワイニング・タンガニーカ総督から侮辱を受けたエピソードが記されている。

兄ワンザギ・ニエレレ(1946年)  当時の英国をめぐるアフリカ問題として、中央アフリカ(ローデシア・ニヤサランド)連邦創立があったが、ニエレレはもう一人のタンガニーカ人留学生と連名で、大学の学生雑誌に投稿している。少数白人支配の固定化を目指す連邦の東アフリカへの波及を危惧して、はっきりと批判している。当時、ロンドンで裕福な開業医だったへースティングス・バンダ(のちのマラウィ初代大統領)とも、この問題の集会で会ったという。独立後は南アのアパルトヘイド政策への対応をめぐって、厳しい政敵となった相手である。

 著者はニエレレの思想形成を、この大学時代の交流関係や参考文献・読書に追おうとする。フェビアン協会植民地局の機関紙への投稿や、アダム・スミス『国富論』や、ジョン・スチュアート・ミルの『経済学原理』などから、ニエレレのウジャマー思想の起源を探ろうとする。「土地」「人びと」「協力」などのキーワードを見つける。3年生で受けたマックムレ―の道徳教育の授業が大きいとする。遡ればホッブス、ジョン・ロックなどから連なる政治哲学、カント、ルソーなどから19世紀末~20世紀前半のグリーンやフェビアン協会のラスキなどが検討されるが、私は疎くてよく理解できない部分もあるが、キリスト教信仰に基盤を置いたヨーロッパの自由主義の伝統を引いているということだろうか。

 ニエレレはエジンバラで学ぶ前にマケレレ時代にもすでに思想には触れていたはずだ。そしてアフリカの「伝統的」社会のもつ平等性を語り、「ヨーロッパ起源の社会主義がタンザニアの状況に合わないのは、非アフリカ人の思想家が、「植民地支配」の歴史-特にアフリカ人の視点に関心を払わなかったためである」と言うようになる。タンザニアの伝統的社会も地域によっては均質的ではなく、階層社会も存在していた。ニエレレのいう自由(Uhuru)は「タンザニアの国民が自らの将来を決める自由」であり、「飢餓、病気、貧困からの自由」「個人の自由」であって、「新しい国家にとって社会主義が唯一の合理的な選択」となり、Ujamaaは「家族性」を謳われる。著者は次の文を引用している。「西洋の哲学者の信条と、彼が理解した伝統的アフリカの社会主義・民主主義の概念を結びつけようとした。ニエレレは若き英国風知識人から、深いアフリカの思想家に進化したのである」(Pratt)。

 第7章では、同じくエジンバラ時代の学究生活での、歴史学・人類学からの影響の側面を探っている。英国史では古代ローマ帝国の現在の英国の植民地化を学んだようだが、より大きな影響を受けたのはピディントンの社会人類学の授業だという。原始的共同体の「集団性」と伝統的アフリカ社会の相互扶助的社会機能を考察し、「アフリカ伝統社会では基本的物資は共有され、全員に分けられる」とする。また1930年代の揚子江流域の農村調査による『中国小農の暮らし』を参考文献として読み、拡大家族の共有財産、協同労働、十軒組などがUjamaa思想に影響を与えたという。ともあれ、ニエレレがアフリカとヨーロッパ以外の世界に目を向けるきっかけとなり、1960年代後半の中国革命の動向に興味を持ったのかもしれないという。

 エジンバラ時代のニエレレを知る人たちの評価は、英国人(ヨーロッパ人)と非白人(西インド人、アフリカ人)とで少しずれるようだが、共通しているのは「謙虚」で「配慮深い」という感じだろうか。キリスト教(カトリック)への傾倒も深まったようで、後世の「Ujamaaとは人を助けること」という考えも、この時代のキリスト教的奉仕精神から来ているという。現実には、英国に来て、カトリックとプロテスタントの対立とか、きわめて世俗的な英国人を見ているだが、ニエレレは司祭叙任を望み、タボラ時代の上司であり助言者であったウォルシュ神父に反対されたという。この志望を、英国留学延長を狙ったものといううがった見方もあるが、果たして?ニエレレは帰国することになり、「社会主義は世俗的なもの」という流れに向かうことになった。

エジンバラ大学卒業(1952年7月4日)  第8章では、ニエレレの帰国と、プグでの教員生活、結婚と政治に入って行くまでを描いている。1952年7月4日、ニエレレはエジンバラ大学を卒業し、文学士号を得た。その後3カ月英国に滞在し、教育施設見学を行なった。主としてロンドンの植民地センターのホステルに滞在し、数少ないタンガニーカ人と出会い、多数のナイジェリア人を中心とする西アフリカ人、西インド人と交流をもった。このホステルで多くのアフリカ人は政治に目覚め、ラディカルになっていったという。ナイジェリア人の学生にニエレレが「投票に行ったのか?」と尋ね、「馬鹿かおまえは。本国で投票できない俺たちが、なんでここで投票しなくちゃいけないんだ!」と返されたエピソードはおもしろい。帰国のための汽船が南ア経由の路線のため、ニエレレの乗船を拒否したという話もある。結局飛行機でナイロビ経由で、1952年10月9日、3年半ぶりにニエレレはタンガニーカに帰国して、ウォルシュ神父や婚約者マリアと再会した。この時ニエレレは「教員は5年間だけ、その後は政治に専念」と決意していたという話も載っているが果たして?

 ニエレレはマリアを伴い、ブティアマ村に短期間帰省する。当時の最高の教育を受けたエリートであるが、村人には変わらず質素で謙虚な態度であったという。ほかの尊大になった外国帰りとは違ったという神話化もしれない。当時、ザナキの雨乞い師であった大首長と兄のワンザギの対立が収束したばかりであったようだ。ニエレレは狭い民族の政治には関与せず、ムソマの青年たちに政党設立の必要性を説いた。当時のレーク州では教育をうけた者たちが民衆に呼び掛け、植民地当局と対立する趨勢になっていた。ニエレレは「教育ある男は普通より多く婚資を払え」というマリアの母の要求を受け、10頭ではなく12頭のウシを神父に借金して婚資として払い、新婦の新居を完成させ、1953年1月に結婚した。

 1953年2月、新婚夫婦はダルエスサラームの郊外のプグにあった、セントフランシス高校の敷地内の家に入居した。ここはニエレレ夫婦が2年間過ごした家として今も保存されている。ニエレレはここで歴史の教員として務めたが、タンガニーカ独立の波はニエレレをさらい、1955年3月に教員を辞職し、政治運動に専念することになる。この間の、ダルエスサラーム在住のムスリム系を主力とした独立運動家、ドッサ・アジズ、アブドゥルワヒドとアリ・サイキ兄弟などとの交流とTANUの創立は簡単に触れられているのみである。エピローグに、ニエレレとエジンバラの深い個人的・公的な交流が描かれている。「わがスコットランド」だったのだろうか。

 第9章は総括・結論である。本書はニエレレ神話を再評価しようという試みである。つまり「質素な少年時代を送り、神童で、教育を受けたアフリカ人として故国の独立を導き、その後も理想に基づいて国家を創造し、死後も「国家の父」として墓場から影響を与え続け、アフリカで最も尊敬される政治家の一人とされている。謙虚で尊大ではなく温厚で、かつ公正感の強い人」というイメージに対してである。従来、批判が難しかったところを、幼少から人格形成の青年期にかけての同輩、同世代の証言を丹念に拾おうとしている。思想的にはエジンバラ時代の、ヨーロッパの啓蒙的なリベラルな思想や、フェビアン社会主義の影響は認められるが、いわれるほど大きくはないとしている。英国在住時の同時代のアフリカ人同胞との交流も大きかったはずだし、また「英国神話」というべきものの内実を知ったことも影響しているだろうという。

 さて、ニエレレに関して大きい教育の役割についてである。1920年代生まれの世代の中ではごくごく少数の特権階級で、政府に協力的な首長の息子だからこそ教育を得られたとする。質素な育ちとか、アフリカの伝統的生活というよくあるストーリーに関しても疑問を呈している。わたしは首長の息子であっても、当時の暮らしは物質的は英国の中産階級のそれとは比べ物ななないほど質素だったはずだと思う。そしてニエレレの権威主義志向を語る。ニエレレが留学から戻った時、普通のタンガニーカ人にとっては、その経験は権威あるものに映っただろうし、それに挑戦することは無理だった。「合意による民主主義」というものがニエレレの権威に対して脅威になることは、ニエレレのいう「長老たちが樹の下で合意を得られるまで話し合う」というアフリカ伝統的民主主義とどう折り合いを付けたのか。ニエレレ以外のあまり知られざる独立運動家の事績を掘り起こし、記録することがタンザニア人の務めだろうと結ぶ。

プグヒル高校に残るニエレレの新婚の住居(2015年)  ニエレレは自伝を残さなかったし、一生を通じたまとまった伝記もまだ記述されていないと思う。タンザニアの「国父(Baba wa Taifa)」であるし、TANUの創設から半世紀近く、公的な生活を送ってきたため、その伝記はタンザニア政府とその政権与党であるTANU-CCMに管理されてきたから、うかつには出せないのかもしれない。個人崇拝を嫌ったニエレレらしいというのは身びいきになり、やはり「神話化」されているからだろう。CCMの絶対多数派体制が揺らぎつつある現在、近いうちに何か出るかなという期待はある。本書もタンザニアの国外の人の手によるとはいえ、その試みの一つであろう。

 さて、本書は2015年7月ダルエスサラームの書店で入手した。ハードカバーでTsh70,000(約4,500円)というかなり高価なもので迷ったが、目をつぶって購入した。書かれていないが、おそらく博士論文を基にした本だろうし、タンザニアに住む人たちの暮らしには関係ない若い文献歴史学者の書物だったら高すぎるなと思ったのだ。その後ウェブサイトで検索した限りでは、そんなに若い人ではなく、かつ博士論文は別の開発経済系で書いている人のようだった。

 本書の白眉はエジンバラ留学時代のエピソードだろう。著者が現在エジンバラ大学の講師であるようだし、エジンバラなどにある古文書を丹念に調べていて、のちのウジャマー思想の形成の起源を探り当てようとしている。それが妥当なものかどうかはまだ結論が出ない。しかし、自分を含めて省みて思うのは、やはりタンザニア人の歴史学者に掘り起こしを期待したいと思うのである。植民者が残した記録を古文書のなかから発掘するのではなく、人びとの記憶の中から浮かび上がらせてほしいと思う。歴史とは勝利者・支配者の記録だけではないのだから。

 ニエレレたちの造りだしたタンザニアというこれからどう変わって行くのか、その方向性は、10月25日の国民の意思を見たいと思う。ニエレレがいたら選ばなかった人物だろうという選択基準はもう無効のようだ。ニエレレと45年、その後のニエレレ神話の代弁者としては61年過ごした老政治家が、CCMを脱党する状況である。

☆写真は本書から

☆参照文献:   ・William Edgett Smith "NYERERE of TANZANIA-The First Decade 1961-71"    (African Publishing Group,2011, First Published in 1972)  ・David G. Maillu "JULIUS NYERERE-Father of Ujamaa"(Longhorn Publishers,2005)  ・川端正久『アフリカ人の覚醒-タンガニーカ民族主義の形成』(法律文化社、2002年)  ・Julius K. Nyerere "Freedom and Unity"(Oxfoed University Press,1966)  ・Julius K. Nyerere "Freedom and Socialism"(Oxford University Press, 1968)  ・John Iliffe "A Modern History of Tanganyika" (Cambridge University Press, 1979)

(2015年10月15日)

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