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Habari za Dar es Salaam No.102   "Heban" ― 紹介 カプシチンスキ著『黒檀』 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 8月に、宮本正興著『スワヒリ文学の風土』を紹介したばかりで、また本の紹介と言うのは、やや忸怩たるところもあるが、この本は少し変わっていて面白いと思うので、是非紹介したい。「アフリカの年」50周年のせいか、はたまた南アW杯のおかげか、アフリカ関連の書籍が多く出ているようなのは嬉しい。リシャルト・カプシチンスキ著、工藤幸雄・阿部優子・武井摩利訳『黒檀』(河出書房新社、2010)である。この本は、池澤夏樹個人編集の世界文学全集の中の1冊として刊行された。

 著者はポーランド人のジャーナリスト、ノンフィクション作家、詩人である。本書はアフリカに、とびとびに8年滞在した記録をまとめたものである。扱われている国は現在の国でいうと15カ国。期間は1958年、独立直後の熱気あふれるガーナに降り立った時から、ほぼ40年間。1998年に過去のアフリカ・ルポと、再取材したものを雑誌に連載し、それをまとめて1冊の本として刊行された。

📷  国営ポーランド通信アフリカ特派員として、1962年に最初に駐在したのが、タンガニーカ(当時)のダルエスサラームであったことが、私には特に興味深い。独立直後のダルエスサラームでは、引き揚げる植民地政府の官吏と、独立政府の役人の交替の真っ最中である。オイスターベイ地区の旧植民地高級官吏の家に入ったアフリカ人閣僚とその一族の話、インド人の「海辺の夕涼み」などのエピソードが続く。アパルトヘイトは南アのボーア人の発明ではないということを発見する。そのダルエスサラームを歩くと、「白人」である自分(=著者)に気づかされる。白人=植民地主義者という反感に直面することになる。「ぼくら、ポーランド人だって、同じだよ!3つの国家の植民地とされたポーランドだもの、それも130年間もだ!」という著者の「無罪」の訴えは通じない。(「ぼくは、白人だ」)

 40数年前のダルエスサラームの街の様子が浮かんで嬉しい。私は1975年に来たのだが、そのころウジャマー社会主義政策による停滞の兆候は現れていたが、なお植民地時代の「古きよき香り」というのを残していた。植民地時代の遺制を「古きよき…」などというと、自分がどこに身を置いてたのかが知れてしまうかもしれないが。

 私が感じた「古きよき…」というのは次のようなことだ。ウガンダの独立式典を取材に行き、脳性マラリアを発症し、インド人の医師に手当を受ける。そのインド人医師は、モンバサ~カンパラ鉄道建設のために連れて来られたインド人の子孫(三世)で、裕福な家族の生まれである。一族に語り継がれた「人食いライオン伝説」を聞かされる(「氷の山の中で」)。

 ダルエスサラームに戻ってきても余病として結核を発症してしまうが、イギリス人医師は帰国の準備の真っ最中で、診察してくれない。代わりに紹介されたアイルランド人医師に、オーシャンロード病院で診察を受け、本国への帰還を勧められる。やっとポーランド通信のアフリカ特派員として、念願の派遣を勝ち取った著者は「今帰ったら、二度とアフリカの地は踏めない」と医師に直訴して、残る手段を画策する。そして、タンザニア人の医療助手たちとの交流が始まる…(「ドクター・ドイル」)。

 圧巻はザンジバル革命の項だろう。1964年1月にこのインド洋の島で起こった血なまぐさい革命の際に、最初に入国した外国人ジャーナリストの一人であったのだ。アベイド・カルメと交渉して、ザンジバル空港直陸許可を取り付け、セスナ機で3人で乗り込む。ジョン・オケロ「元帥」との会見。そして、その直後に起こった、タンガニーカなどで起こった軍の不服従事件の取材のために、タンガニーカに戻ろうとするが、またも交通手段がない。本国に引き揚げようとするイギリス人のモーターボートを購入して、ザンジバルを密出国しようとして、漂流して、苦闘し、またザンジバルに戻ってしまう。仕方ないので、またセスナ機で脱出を図る。サスペンス映画のような語り。私が面白かったのは、蜂起後、わずか5日で(アラブ人の)男の路地のコーヒー売りが復活していたという証言だ(「ザンジバル」)。

   ウガンダの独裁者アミンを描く。これは他の本に一冊にまとめようとして果たさなかったようだが、「アフリカ最も有名な独裁者」の誕生を描く。犯罪と低い文化との相関関係を示す見本としてのアミンと著者は理解する。それが妥当かどうかは、議論の余地があるが、農村で食えずに都会に流れてきた仕事のない都市住民<バヤイェ>の典型とアミンを捉える。(このバヤイェとい呼称はウガンダ起源のようだが、著者はほかの国々の都市住民も繰り返し、そう呼ぶ。)。「人種差別主義や排外主義のすべては、白人対黒人という大分類に限らず、同じ肌の色をもつ同一の人種間にもあり、実はそのほうが、しばしばより先鋭で、激烈で、仮借がない」。その結果、「アミンは国が丸裸になるまで荒廃させた」(「アミン」)。

 同じような独裁者として、エチオピアのハイレ・セラシエが取り上げられる。私の大学時代を思い起こすと、1972年のサヘルの飢饉もあったが、1975年のエチオピアの大飢饉、それに続くエチオピア革命と内戦が、いわばアフリカの縮図のように世界に喧伝され、現在のアフリカのイメージを形作っているように感じる。「大飢饉の原因は、食料不足ではけっしてなかった。…国内に飢饉ありと認めれば、政府の体面が傷つく…エチオピアが百万の餓死者を出した事実を皇帝は隠し続けた」(「ラリベラ、1975年」)。

 1994年のルワンダの大虐殺に関してのルポ「ルワンダ講義」も分かりやすい。通常「部族対立」と解説されることが多いが、それを「カーストの対立」と説明する。ベルギーが1959年の農民革命、虐殺を結果として後押しした事実に触れる。1973年のクーデター以降のハビャリマナ一族は、国家の私有化、独裁化に突き進む。そして、1990年のルワンダ愛国戦線の侵入によって、あと1~2日でキガリが陥落したであろう時に、ハビャリマナが掛けた援護を求める電話に応じて、フランス(ミッテラン政権)が送ったパラシュート部隊の果たした役割。1994年のジェノサイドにつながる道のりを淡々と説明し、ナチスの時代に考えられた「最終的解決」という思想を、ボスニア・ヘルツェゴビナを経て、ルワンダの一部の指導者が採ったことを浮かび上がらせている。

📷  アフリカの厳しい自然環境を描き出す。モーリタニアの砂漠の中でエンコした話(「サリム」)。エチオピアの乾季の高原を、断崖の上に作られた道をトラックで行く話(「ラリベラ、1975年」)。エリトリアで高原のアスマラから紅海畔のマッサワまで、標高2,500の落差を駆け下る命がけのドライブ(「エリトリアの風景」)。カメルーンの「天空まで届く」大原生林(「物憂い川」)。北ソマリアの砂漠の中を、ラクダと遊牧民と共に井戸を求めてさまよう話(「井戸」)。セネガルのサヘルの村で、わずかな水を頼りに農作業をする農民。「アフリカで<生きる>とは、生き残ることと死に絶えることの間で脆く危ういバランスを見つけ出そうとする、耐えざる努力と試みを指す」(「アブダラーワロ村の一日」)。

 しかし、アフリカで生きることでもっと厳しい環境は、大自然ではなく、人間によってもたされるのかもしれない。現在最も厳しいのではないかと思われるコンゴ(旧ザイール)の話はないが、ルワンダ、ウガンダ、スーダンのみならず、ナイジェリア、リベリアなど、厳しい、長い内戦を経験した諸国で生きることは大変だろう。私のように、アフリカで生活して26年の人間でも、温和な(軟弱な)タンザニアから、コンゴとかナイジェリアのように「根性のいる」国に、例え旅行でも行こうと思わない。

 アメリカ合州国によって作られた寄生的植民地のような国リベリアで起こった、血なまぐさい内戦。拷問するビデオテープが売られるような、それはおぞましい地獄だったろうと思う(「冷たき地獄」)。しかし、アフリカ最大の人口を持つ多民族国家ナイジェリアで生きることは生半可ではなさそうだ。1966年の「クーデター解析」と「ぼくの横町、1967年」を読むと、ポーランド通信社のアフリカ支局を、タンザニアのダルエスサラームから、ナイジェリアのラゴスに動かすというジャーナリスト魂に気づかされる。呪術師の力で、横町の住居での物盗りはなくなる。

 著者が描き出したアフリカは「幸福なアフリカ」であるものは少ない。飢餓、内戦、独裁、貧困…日本で流されるアフリカのイメージと重なるし、それはジャーナリズムの宿命なのかもしれない。幸せで明るいアフリカは記事にならない…。しかし、他の多くのジャーナリストの本と違い、読後感が「アフリカに対する絶望」にならないのはなぜか?

 例えば、本書の中で、ホッと一息、束の間の休息の話といえば、「マダム・デュフ、バマコに帰る」と「オニチャの大穴」だろう。存在感のあるセネガル~マリ間の鉄道のマダム・デュフは、白人の存在する空間を物理的に狭めていくのだろうか?でも、オニチャの大穴は、格別。ほんまかいな?と疑わせる話である。著者は長年の憧れの街オニチャに出かける。アフリカ最大、ひょっとしたら世界最大の青空市場のある街オニチャ、作家が数十人暮らし、<オニチャ市場文学>の花開く街。そのオニチャの数キロ手前で、大渋滞にはまる。1時間経っても動かない渋滞に業を煮やした著者は、歩いてその渋滞の原因を偵察に行く。そして発見したのは、大穴とその周りに生まれた町であった…。著者は果たしてオニチャに行き着いたのか?どこまでが本当で、どこからがフィクションなのか?

 本書の最終章の「木陰にてアフリカを顧みる」に、晩年(本書執筆時)の著者のしみじみとした想いが記されている。アフリカのある農村のマンゴーの大木の木陰での一日の時の移ろいに、人びとの暮らしを凝縮してみせる。そして、人びとの精神世界、歴史の捉え方まで描き出す。「人間は自分の影より永くは生きられない」。著者は外交官や宣教師、商人、あるいは開発学者、援助関係者の視点とは全く違うところから、アフリカの農村、人びとを眺めている。この章は極めて秀逸な文章だろうと思う。

 しかし、著者はアフリカの農村を単純化して描けると言っているのではない。「あの大陸は、描き出そうにも、あまりに大きい。あれこそは、真の大洋、別個の惑星、多種多様で、かつ優れて豊かな調和世界だ…アフリカーーとわれわれは呼び慣わす。だが、それは甚だしい単純化であり、便宜上の呼び名に過ぎない。現実に即するなら、地理学上の呼称はそれとしても、アフリカは存在しないのである」。

 通読して気になったのは「部族」「族」という表現。これはその当時には普通だった表現なのだろうか?例えば英語でTribeと書かれたら、「族」と訳すのが一般的だったのだろうが、ポーランド語ではどういう単語だったのだろうか?著者は「部族」という表現をしたのだろうか?現在では、どう訳すのが妥当なのだろうか?、と気になる。「ヨーロッパ人から見れば、アフリカの社会は部族社会さ」、と著者が思っていたとは思えないのだが。

 もう一つ、文章によっては、いつの年のことを書いたのか、あるいはいつ書かれたのかが不明なものが多い。例えば、「ルワンダ講義」「夜の黒き結晶」などなど。時代の変遷はあるので、年代が欲しい。あるいは、著者は意図的に年代を伏せ、過去の複数年の取材を合わせて、そこに「アフリカに普遍的なもの」を提示しようとしたのだろうか?そうすると年代は原著に欠落していたのだろうか?

   この本を世界文学全集に採った池澤夏樹は次のように言う。「ルポルタージュは文学である、というためにはそれを書いてみせなければならない。その第一人者としてカプシチンスキは欧米で高く評価され、崇拝されてきた。困難な旅を通じて二十世紀後半のアフリカを記述した、すべてのノンフィクションの物差しとなる作品」と評している。ジャーナリストの著作が、ノーベル文学賞の選考対象になるというのも新鮮な驚きであった。ノンフィクションが文学賞の対象になるのなら、この著作にも、フィクションがちりばめられているのかとふと夢想する。

 例えば、1962年のダルエスサラームの街の描写、あるいはセレンゲティを抜ける時のそれは、ドキュメンタリーというよりは、文学的表現の側面が強いように感じる。それは誇張なのか、あるいは40年前の回想を美化しているのか…。池澤はルポルタージュをジャーナリズムと普遍的な文学の中間に位置づけて、かつノンフィクションはよりジャーナリズムに近いとしているが。

 私自身が、過去35年間のタンザニア滞在の記録をまとめてみたいと思っているが、どういうスタンスで、どういう文章表現で書いたらいいのか、迷いながら書いている状況なのだが、一つの示唆を得た気がする。学者的事実ではない、真実の描き方があるのかどうか?

 なお、この訳者の一人である阿部優子さんは、大学でポーランド語を専攻し、ポーランドに留学された。ポーランドにいたアフリカ人留学生がたまたまタンザニア人であったために、タンザニアに目が向き、タンザニア西部(マハレに近い)に住むベンデ人の言葉を研究された。もちろんスワヒリ語は達者で、大学でも教えているし、通訳もできる。ポーランド語とスワヒリ語の通訳のできる稀有の日本人である。そういう訳者を得て、この本が出たことを有難く思う。

(2010年10月1日)

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