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Habari za Dar es Salaam No.104   "Uchaguzi Mkuu 2010 Matokeo" ― 2010年総選挙 、結果 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 10月31日のダルエスサラームは快晴で、暑かった。人びとは午前6時からの開場を待ちかねて、投票場に並んだ。長蛇の列に並ぶのは、年配者や体調のよくない人には辛かっただろうと思われる。

📷 キクウェテを前面に出したダルエスサラームのCCMの選挙キャンペーン  複数政党制に復帰して第4回目の総選挙である。連合政府大統領、国会議員、地方自治体の選挙で、タンザニア本土の人びとは3票を投じた。ザンジバルの人びとは、さらにザンジバル大統領、ザンジバル議会選挙もあり、一人5票も投じたのだ。

 連合政府の大統領選挙でも、国会議員の選挙でも与党CCMの圧倒的優勢が予想されていた。2005年には80%の得票率で当選したキクウェテ大統領の二期目である。CCMは5年前と同じように、イケメンであるキクウェテ大統領を前面に出した選挙戦を展開した。対する野党は大統領選挙には7党、国会議員選挙には18党が参加したのだが、実質的に有力挑戦者とみなされたのは、CUF(市民統一戦線)とCHADEMA(民主開発党)の2党である。前回はCUFが第2党、CHADEMAが第3党だったが、今回はスラー国会議員を大統領候補に押し立てたCHADAMAがタンザニア北部の地域中心に大きく伸びを示し、CCMを慌てさせる形勢を生み出した。

 CCMは圧倒的優勢が予想されていたにもかかわらず、当初から大量のポスター、路上広告を投入した。キクウェテ大統領が少年の時の、母親とのツーショット「母の愛」など、おそらく広告代理店が仕掛けたと思われる路上広告が数多くあった。さらに、テレビではボンゴフレーバーなどの人気歌手が、そのヒット曲の替え歌のCCM賛歌を歌い踊り、スワヒリ語新聞には全面カラー(CCMカラーの黄色と緑)の折込が入った。選挙のほんの数日前にも、キクウェテやその選挙区のCCM候補のポスターが新たに、大量に貼られたりした。(ポスターが余ったという解釈もあるが、私は追加注文の出来上がりが遅れたと読む)。新聞報道では、CCMが選挙運動で使ったのは400億シリング(=約22.3億円)とのこと。その真偽は分からないが、かなりの金・物量が投じられたことは間違いない。

📷 農村の土壁の家にもCCMのポスター  政府・与党に批判的と見られたスワヒリ語紙が、「発禁」の警告を受けたのも、CCMの焦り、余裕のなさだったかもしれない。政府の意向に対し「言論の自由」を主張し、抗議がでたのも嬉しい。最初は「CCMなんて泥棒さ」「どうせCCMが勝つから、選挙には行かない」と言っていた人たちも、投票日が近づくにつれ、「もしかしたらスラーが勝つかも。選挙に行こうかな」と言い出した。アメリカの「CHANGE」ではないけれど、タンザニアでも「Mabadiliko=変化」と言い出す人もいた。CHADEMAのスラー候補が、元カトリックの牧師であったこともあり、「キクウェテは前回はクリスチャンの票を大量の集めたが、今回は取れない」と断言する人もいた。ちなみに、キクウェテ自身はムスリムであるが、イスラーム色の強い人びとにはCUFのリプンバ候補が強いと見られていた。

 さて、そういう流れで行われた総選挙であったが、結果は次の通りになった。まず、連合政府の大統領選挙であるが、キクウェテが順当に再選を果たした。以下は選管発表の数字である(20票合計が合っていない)。

   ジャカヤ・キクウェテ(CCM) :5,276,827票(得票率61.2%)    ウィルブロード・スラー(CHADEMA):2,271,941票(得票率26.3%)    イブラヒム・リプンバ(CUF) :695,667票(8.1%)    その他の4党の候補の合計:153,979票(得票率1.8%)    無効投票数:227,889票(2.6%)    有効投票数:8,398,394票    総投票数:8,626,283票(投票率42.8%)    登録有権者数:20,137,303人

 確かに、順当に当選したが、得票率は80.2%から61.2%に大幅に下げた。これは1995年の選挙でムカパが取った61.8%を下回る最低の数字である。得票数そのものも、380万票あまり減らした。これはCHADEMAのスラー候補の健闘が大きい。北部のキリマンジャロ、アルーシャ、マニヤラ、マラ、ムワンザ、シニャンガ、キゴマなどの州及び、ダルエスサラームや南部のムベヤ州でも、キクウェテに勝てないまでも接戦、ないしは無視できない戦いに持ち込んだ。その得票率は、1995年のムレマ候補の取った27.8%には及ばないものの、野党候補としては高い比率である。あおりを食って、前回2位、11.6%を取ったCUFのリプンバ候補は、8.1%に沈み、得票数も60万票あまり減らした。

 スラー候補は、CCMによる投開票の不正の証拠を挙げ、キクウェテ大統領の就任式に列席しなかった。また、国会でのキクウェテ大統領の施政方針演説の際に、CHADAMAの国会議員たちは、抗議の意思を表明するために、一斉に退席。この抗議は、一般的には支持は広がらなかった。スラー候補は、現在既に62歳という年齢がネックではあるが、今回得た全国的な知名度は、次回2015年の総選挙では有力な武器になるだろう。キクウェテはもう出馬できないし、CCMはそれに代わる新しい若い候補者を発掘できない限り、苦戦が予想される。

 239選挙区(前回は232選挙区)で行われた国会議員選挙は、1,036人の候補者で争われた。7選挙区で、投票用紙の不足などで選挙が延期され、11月14日(日)に投票になったが、それを含めた結果である。

政党立候補者当選者2005年2000年1995年CCM(革命党)  239 185 206 202 186CUF(市民統一戦線)  182 24  19  17  24CHADEMA(民主開発党)  179 24  5  4  3TLP(労働党)   42  1  1  4  0UDP(統一民主党)   46  1  1  3  3NCCR(建設改革国民会議)   67   4  0  1  16その他の12政党  281  0  0  0  0合計 1,036  239 232 231 232

  野党が239議席(前回より7議席増)の内、54議席を奪った。これは1995年の46議席を上回り、野党としては歴史上最大議席数である。注目すべきは前回5議席だったCHADEMAが、スラー旋風に乗って、24議席に大幅に伸ばしたことだろう。得票率でも第2党になった。CUFは前回と同じくペンバ島の全18議席を押さえたほか、ウングジャ島でもストーンタウンを含め4議席、さらに本土でもリンディ州で2議席を獲得した。前回議席を失ったNCCRもキゴマ州だけだが、4議席を奪うなど存在を見せた。

 女性特別枠が前回の75議席から100議席に増やされたので、ザンジバル議会代表などを含め、野党の国会議席数は80議席を超える(総議席数は大統領の指名枠10名がいっぱいになることはないのだが、最大363議席と思われる)。野党の存在感は増した。CCMは勝手な国会運営はもうできないと思うのだが、選挙後国会議長の席を、重鎮数名が争い、お互いの中傷合戦があり、国民の眉を顰めさせた。結果として、キクウェテのCCM青年部時代からの仲間の、アンナ・マキンダが、初の女性議長となった。

 それにしても、女性特別枠100名というのは多過ぎはしないか?憲法では選挙区選出の国会議員の3割までと決まっていたように思うが、今は4割となったようだ。女性の社会進出を助けるという大義名分はあるのだが、やや人気取りに傾いているように思う。確かに前回女性特別枠で国会議員に指名され、大臣をやっていた女性議員が、今回選挙区選出に回ろうとして、CCMの予備選で敗退したり、あるいは候補者になってもCHADEMAに競り負けたりした。今回女性の選挙区選出議員は、与野党合わせて10人あまり(12人?)に過ぎない。社会的に女性の社会進出を阻む土壌は強いと思うが、日本と比べてみるとさほどひどくないかもしれないと思う。

 選挙後の国会はドドマで12日から開かれた(7選挙区の議員はまだ決まっていなかったのに)。議長選挙の後、16日にキクウェテ大統領から、首相の指名があった。ロワッサ元首相の復活かなんて噂もあったが、さすがにそれはなく、ピンダ前首相が選ばれた。キクウェテは、「民衆の選択」と持ち上げたが、人気が上がっている感じはなく、後継含みという気配はない。むしろ、民衆の注目は外相人事であった。ムカパ、キクウェテと2代続けて、大統領に前外相が選ばれたことから、外相が後継候補だというのだが、果たして?。

📷 壁に貼られたザンジバルの大統領の投票用紙のサンプル  常に総選挙の焦点となっていた、ザンジバルの選挙結果は次の通りである。     アリ・シェイン(CCM):179,809票(得票率49.3%)     セイフ・ハマド(CUF):176,338票(得票率48.3%)     その他の4党の候補の合計:2,668票(得票率0.7%)     無効投票数:6,109票(1.7%)     有効投票数:358,815票     総投票数:364,924票(投票率89.5%)     登録有権者数:407,658人

 図ったような結果というのだろうか…、人気が沸かないシェインCCM候補が当選し、7代目ザンジバル大統領に就任した。セイフ・ハマドは4回目の涙を呑んだ。なお、ザンジバル選管の発表では、シェインの得票率は50.1%となっているが、それは有効投票数に対する比率である。連合政府の大統領の得票率は、総投票数に対するそれであるので、整合性をもたせるために改めた。思うに、49.3%では過半数の支持を得ていないという印象が強いために、あえて基礎数の操作をしたのかもしれない。

 過去3回の例であれば、ここでCUF支持者が「不正選挙だ」と抗議して、それを警官隊が弾圧するパターンとなっただろう。2候補の得票差よりも、無効票の方が多い。しかし今回は、ザンジバル選管による発表に席に、セイフ・ハマドCUF候補は同席し、敗北を認め、ザンジバル国民の団結を訴えて、シェイン候補を祝福した。「Amani na Utulivu(平和と静穏)が重要だ。勝った、負けたはない。勝ったのはザンジバル国民だ」と取ってつけたような台詞が言いまわされた。

 シェインは、セイフ・ハマドを第一副大統領に指名しないかもしれないという観測もあったが、順当に指名された。第一副大統領の権限がいかほどのものがあるか、実質的には飾りに過ぎないのかはまだ分からない部分はある。しかし、セイフが権力の中枢に入り、CUFの大臣も重要ポストかどうかはともかく、17人中8人を占めた。連立政権で権力構造に入ることで、CUFは次のステップに向かうと思われる。シェインより、セイフ・ハマドの方が老練な政治家である。また、ザンジバルの選管の次の人選にも口出しができる。5年後の選挙の時には、セイフ・ハマドはもう72歳になっているというネックはあるが。「民主主義の成熟」と評したマスコミもあったが、老練な戦略と感じる。

 ただ、今回のザンジバルの有権者登録が、前回の50万7千人より10万人減っている。これは有権者数の登録を、特にペンバ島出身の人びとの登録を、さまざまな条件をつけて制限したためだろうと思われる。また事前に「連立政権」の合意ができていたため、政治好きなザンジバル人も「燃えなかった」のかもしれない。

📷 選挙結果確定後、抱き合うザンジバルの大統領候補者たち  今回の選挙を振り返ってみる。タンザニアが複数政党制に復帰してからも、圧倒的に政権与党(CCM)は強かった。選挙における不正は多少はあっただろうが、そんなことしなくても、少なくとも本土ではCCMは勝っていただろう。そのCCMに対する信頼は何だったのだろうか?日本でも自民党長期政権が続き、社会党が万年野党だった時代のことを思い出す。つまり、「長いものには巻かれろ」という現世的な処世と共に、「野党には政権担当能力はない」という思い込みである。日本でも遅ればせに政権交代が実現し、現在の政権が官僚を使いこなせるか否かが問われているが。

 タンザニア人の中の特に年配者の中におけるCCM信仰は、つまりはニエレレ=TANU信仰なのだと思う。独立闘争のころから、タンザニア(タンガニーカ)を平和裡に独立にもって行った、そして独立後も、平和と統一を保ち、かつ第三世界の中でタンザニアの威信・存在を高めたニエレレに対する信頼。それがニエレレの引退後も、TANUの後身であるCCMへの信頼となって残っていたのだ。「野党なんか無責任で、文句言っているだけで、政権担当能力はない」という信仰。現実に一党制時代そのままに、政府官僚とCCMはほとんど一体である。

 しかし、ニエレレが大統領を引退してから既に25年。亡くなってからもう11年経つ。物心つくころには、政治の表舞台からニエレレが姿を消していた世代が、有権者の半数近くを占めるようになってきた。30歳以下の有権者が、今回の有権者の4割を占めるのではないか。その若い世代が、変わらぬ現状、格差の拡大、生活の困難さに対する不満をどこにぶつけたらいいのか?

 今回、野党の選挙キャンペーンで多かったのは、「雇用の創出」「教育の無料化」「安全な水の供給」などである。財源を無視した公約は野党の専売特許であるのかもしれないが、「選挙の度に水の供給は公約されるけど、いまだ水は来ない」という女たちの呟きが聞こえる。それでもダルエスサラームで、当選した野党の支持者たちは「無料の教育」「井戸を掘ろう」と、大きな声を張り上げて喜んでいた。テレビの選挙番組で見るこういった野党の支持層は若手、それも正規の職には就いていない人たち、あるいは失業層が多いように見受けられる。その若者たちが「People's Power」とスローガンを叫ぶ時、そしてそれに同調する年配者をテレビが映し出すと、変革の時は近いのかなと思う。また、政権(CCM)支持の多いアジア系の商業資本家は、CCMへの寄付に走るのが普通だが、今回話題になったのは、ある有名なアジア系商人が、2回にわたり、実名で、CHADEMAに1億シリングを寄付したことが報道された時だ。CCMに楯突くと商売に差し支えないだろうか、と普通思う。ここでも変化の兆しがあるのだ。

 だから、変化への熱気が充満していたかというと、そうとは思えない部分もいくつかある。まず、野党、特にCHADEMAの議員の当選者は多くは、CCMからの転身である。前国会議員、党幹部の経歴をもつ者、CCMの予備選に出て敗退した者、両親がその地方のCCM幹部だった者…などなど。CCMの党員歴をもたない、純粋な野党育ちの若手の当選者は少ないように思われる。つまり、思想、経済政策、支持基盤などの相違というよりは、地縁血縁、あるいはその時(候補選出時)のCCM支部の状況から野党で出馬したという感が濃い。

📷 ダルエスサラームの野党の当選者と支持者たち  さらに重要だと思われるのは、投票者数の激減である。登録有権者数は、前回より400万人近く増えたはずだ。この登録有権者数というのが曲者で、中央選管の発表の数字が毎回変わるのだが、最新の新聞報道の2,017万人を使ってみると、前回より380万人近く増えている。しかし、投票者数は逆に320万人ほど減り、投票率はなんと42.8%と半数に届かない。これは異常な数字だ。1995年以来、投票率は76.7%、84.4%、72.4%と推移してきた。この数字の信憑性も問題だが、それにしても今回の低投票率は何なのか?

 テレビの選挙生中継を見ていると、ダルエスサラームでは、「投票所に行ったら自分の名前がなくて投票できない」という苦情のオンパレードだった。候補者すら投票できなかったという笑い話まで。これは意図的な選管のサボタージュという高等戦術というより、選管の能力の問題なのではないかという気がする。しかし、そういう技術的な問題だけで、25%も投票率が落ちるものだろうか?

 ダルエスサラームのある男に言わせると、「年配の女性たちにはCCM支持が強い。野党支持の若者たちが脅して、投票に行かせなかったんだ」という説だった。確かにそこは野党が勝利した選挙区だったが、そんなものだけで、全国平均25%落ちるわけがない。ムワンザ、シニャンガ、アルーシャ、コースト、ムトワラ州などでは、野党支持者と警官隊の衝突があり、逮捕者、怪我人が出たことが伝えられているが、それも従来の選挙時からあったことだ。

 従来からの持論になってしまうのだが、タンザニアという国家の枠組みは、外国人による植民地当局によって与えられた(タンガニーカとザンジバルはそれぞれ別の歴史だったが)。その植民地政府は、タンザニアの民衆を搾取するための機構だった。ニエレレとTANUに率いられた独立で、民衆は新しい国家の主人公になり、自分の生活が向上する夢を与えられた。しかし、それはごく一握りのエリート官僚が植民地の役人に取って代わっただけで、地方の民衆の生活にとっては、税金を含め、あまり変化がなかった。それではいけないとニエレレは考えたか、国民の大多数を占める農民を主人公にするために「ウジャマー社会主義」を唱導した。しかし、それは理念とはうらはらに、経済建設に関しては失敗に終わり、中間官僚が肥え太っただけで、地方の民衆の生活はじりじりと困難になっていった。

 1995年、複数政党制度再導入による総選挙で、「変革」に燃えた民衆は多かった。しかし、受け皿はCCM脱党組でしかなく、CCMの強固な全国組織の前にはなす術もなかった。その後、「構造調整」政策、「貧困削減」政策」と、外国からの援助政策に変化は見られるものの、援助頼みの構造は深化し、その中で与党政治家、政府高級官僚が肥え太っていく、一方で都市と地方の格差、貧富の格差の拡大は確実に進んでいく。国家というのは、水道・電気をもたらしたり、学校・診療所を建設してくれる、自分たちのためになるはずのものなのだが、実は植民地政府以来、税金とか規制・処罰とか、嫌なことをもたらす厄介な存在に過ぎないのではないかという、諦念に近い基本認識が蘇って来ているように感じられてならない。国家を自分たちのものにするという元気が、若者たちにあればいいのだが。

 日本の近現代史を振り返ってみると、民権運動、大正デモクラシー、戦後民主主義と、民衆が自分の国の主人公になろうとしようとした高揚期は経験してきた。明治国家を築いた元勲たちは、違う官僚国家を造ろうとして来た。昨年の日本の政治の変化が、新しい高揚期に入るのか、あるいはすぐにしぼんでしまいそうなのかは、日本人の問題なのだが、タンザニアの人たちがこの5年後に向け、どういう国家像を目指すのか、興味あるところである。

(2010年12月1日)

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