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Habari za Dar es Salaam No.106   "Tanzanian Traders in Asia" ― 紹介 『アジアで出会ったアフリカ人』 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 今年(2011年)は、タンザニア独立50周年である。正確には、タンザニア本土と現在呼ばれるタンガニーカの独立が1961年12月9日だから、そこから数えて50周年である

📷  この機会にと意識されたか、タンザニア関係の書籍が今年は多く出版されるようだ。私が聞いているだけでも、5冊ほどは出る。学術書が多く、一般の読者の目に触れるかどうかは、やや疑問のところもあるが、タンザニアの情報が日本の読者に伝わるのは嬉しいので、出版される前から心待ちにしている。その5冊の本のシリーズ(ではないが)の、劈頭を飾る1冊を紹介したい。栗田和明著『アジアで出会ったアフリカ人』(昭和堂、2011年)である。

 著者は1984年から、ある年を除いて毎年欠かさずにタンザニアを訪れている。日本人研究者としては、最もタンザニア訪問頻度が高い人の一人だろう。『タンザニアを知るための60章』(明石書店、2006年)の主編著者である。『マラウィを知るための45章』(明石書店、2004年)の著者でもあり、タンザニア~マラウィをまたぐフィールド・ワーカーである。

 この本の対象はアフリカ大陸から飛び出したアフリカ人を取り扱っている。アフリカ人といっても取材対象は、ほとんどがタンザニア人である。この本の副題は「タンザニア人交易人の移動とコミュニティ」となっている。まだ「タンザニア人」ではなく「アフリカ人」と書かないと、売れないのかという需要の問題はさておき…。

 著者の主フィールドは、タンザニアの南西部ムベヤ州を中心として住むニャキュウサ人の地域なのだが、その人たちは本来の居住地にとどまらず、移動や出稼ぎを繰り返す。その出稼ぎの範囲は、かつては隣国ザンビアの銅鉱山だったり、遠くは南アの金鉱山だったりしたが、最近はアフリカ大陸を飛び出している。

📷 中国のタンザニア人©栗田和明  まず、本書の構成を見てみよう。  Ⅰ部 アジアで出会ったタンザニア人    1章 タンザニアから来た交易人たち    2章 タンザニアという国    3章 タンザニア=アジア交易が成り立つ条件    4章 タイで出会ったタンザニア人定住者    5章 香港で出会ったタンザニア人定住者    6章 広州で出会ったタンザニア人定住者    7章 アジア=アフリカ交易の位置

 Ⅱ部 アフリカ諸国で出会ったタンザニア人    8章 タンザニアのマーケットを訪ねて    9章 ザンビアのマーケットを訪ねて    10章 マラウィのマーケットを訪ねて    11章 ニャキュウサ青年の国境での交易    12章 タンザニア内の交易    13章 人の移動に注目して

 この構成を見て気がつくのは、タンザニア南西部のムベヤ州(だけではない)を中心とした人びとが、タンザニアの各地域、マラウィ、ザンビアといった隣国、それからペルシア湾岸諸国、さらに東アジアと進出していくのを順に追っているのではなく、いきなり東アジアから始まり、逆にその本拠地に戻っていくように、筆を進めていることである。

 1章。筆者がバンコクや広州の街角で、懐かしいスワヒリ語の音を聞き、話しかけてみると、買い付けに来ているタンザニア人であった。商社などではなく、皆個人の交易人なのだ(つまり、インフォーマル)。交易人7人の例(内女性は2人)を挙げる。タンザニア内の出身も、ムワンザ、イリンガ、タボラ、シニャンガ、ムベヤなどばらばら。年齢も20代から60歳までさまざま。ほとんどの交易人の購入対象は、衣料品である。その購入金額は、20万円の少額から、年商1億円までまちまちである。また、ダルエスサラームまでの運搬方法も、コンテナ貸切から、コンテナのシェア、航空貨物、自分で飛行機にエクセスで持ち込んで運ぶなど、その交易人の予算に応じて多様であることが示される。

 3章では、なぜタンザニア人の交易人が、東アジアに出かけていくのか、その経済的背景、条件を探る。最大の要因は、もちろんアジアとアフリカとの価格格差である。アジアで購入したものが、例えば3倍の価格でアフリカで売れれば、十分に利益が出る。必要経費として、交易人の航空運賃、貨物輸送費、関税、買い付け国での滞在費を試算する。そこから、国際交易を始めるための原資を推定する。2000年代の初めには、40万円程度で可能だっただろうとする。その後、競争の激化、貨物運賃の増加などで、条件は厳しくなってきた。3倍で売れる商品も少なくなってきているのかもしれない。より安い仕入先を求め、バンコクから広州、さらには中国の内陸部を目指す傾向を概観する。

 4~6章では、短期的な交易人ではなく、バンコク、香港、広州の街に、中長期的に住み着いたタンザニア人に触れる。来歴は、国連機関、英語教師、留学生、最初から交易人などさまざまである。タンザニア人のタイ訪問者が、香港、広州と比べて少ないせいか、バンコク在住者は少ないし、タンザニア人相手の商売を営む人も少ない。しかし、葬式講のような存在を著者は目撃している。香港にはタンザニア人相手の無認可レストランと、買い付け・運送代行業者が存在する。

📷 2010年開発が始まり、新旧混然としたカリアコー  しかし、6章の広州での定住者調査は詳細を極める。著者は、広州周辺のタンザニア人在住者の数を100名と推定している。その中には、留学生という範疇が登場し、留学在学中に交易に乗り出したり、中国人の妻と結婚して、腰を据えた人たちもいることを描く。広州にはタンザニア人相手のレストラン2軒があり、美容室、運送業者、衣料品店が店を構え、事務所をもたない代行業者も一定数存在する。この定住しているタンザニア人たちが、著者の推定年間1万人にのぼるタンザニア人短期交易人をメインの相手として商売しているわけである。ここにタンザニア人のコミュニティの萌芽を見る。

 7章では、これらの交易人たちの扱う貿易量(金額)を想像する。インフォーマルな交易だから、国家、あるいは国際統計には表れてこない数字である。著者の調査による推定では、インフォーマルの交易での貿易量は、その正規の貿易統計の数字を凌駕する可能性があるという。こうしたタンザニア人の交易人の活動は、対東アジア(タイ、中国など)に関しては、歴史はさほど古くない。1990年代が古い方で、2000年代から急増しているようだ。

 第Ⅱ部では、アフリカ大陸に戻る。というか、物資の流れを追って、交易人たちが東アジアで買い付けた商品が、ダルエスサラーム港(一部は空港)を経由して、タンザニア、ザンビア、マラウィのマーケットで売られている様子を調べる。8章は、ダルエスサラームのカリアコー・マーケットである。ここの話は、後ほど私見をつけて触れる。

 9章はルサカのコメサ・マーケットである。タンザニアはCOMESAに加盟していないのに、このコメサ・マーケットでは地元ザンビア人を凌駕するほど比重は高いらしい。スワヒリ語も大手を振って通用している。買出し先はダルエスサラームからが主体だが、一部は自ら東アジアに買出しに出かけている。ダルエスサラームのカリアコーに比べて、まだ競争が激しくなく、利益が確保できるというのが、大方の見方のようだ。葬式講は存在し、またタンザニア人のリーダーも定められている。

📷 カリアコー調査中の栗田さん    10章はマラウィの首都リロングウェのブワイラ通りを中心とした、タンザニア人商人の活動を観察する。ルサカよりも在住タンザニア人の数は少ないようだが、大使も参加するような総会をおこなうリロングウェ・タンザニア人会が組織されている。そのリーダーはキボコといわれる大商人である。1章で年商1億という例に挙がった商人で、自らバンコク、広州に買い付けに出かけ、ルサカで4店、リロングウェで2店を経営している。全て同族経営である。そのうちの1店の帳簿の詳細な点検が載っている。

 11章は、著者が「国際的商売」と名づけているもの。タンザニアとマラウィの間に流れるソングウェ川の両側に住むニャキュウサ人(タンザニア)とンコンデ人(マラウィ)は、言語的、文化的、社会的にもほとんど差異がなく、同一民族と呼べるような存在である。しかし植民地によって分断され、それが独立国になると、間は国境となった。しかし、ソングウェ川は著しく蛇行しており、また頻繁に氾濫するため、国境の位置が変わることがまま起きる。そして自分の畑が川の向こう岸になった場合、農民は丸木舟で「国境」を渡り、耕作したり、収穫したりする。そのような状況の中で、青年たちがビール、砂糖、コメなどの商品の、彼我の価格格差を利用した「国際的商売」をおこなうわけである。

 12章は、タンザニア国内のダルエスサラームとムベヤとの間、あるいはスンバワンガのようなさらに地方との価格格差を利用した商売の例を挙げる。工業製品をダルエスサラームから地方へ、そして農産物をダルエスサラームへという感じで、そこには交通手段という要因が大きな要素を占める。しかし、距離の近い、遠い、あるいは間に国境がある、ないというのは、インフォーマルな個人の交易にとっては、相対的な差でしかなく、国境自体は大きな障害ではないとする。交易だけでなく、進学、就業などで人間の移動、移住は頻繁になり、「農耕がおもな生業だからといって、同じ農地に一生関わっているわけではない」とする。

 13章は、結論部分である。このタンザニア人の東南部アフリカや東アジア移動への動きや、中国人のアフリカ大陸進出の動きは、地球規模の「人の移動」の一端に過ぎないとする。「個別事象に同調してそこから全体を構成する一種の想像力」を鍛錬していきたいとする。また、移動し異文化の人びとと接触すれな、コンフリクト(衝突、対立)が発生することもある(「コンフリクト」という単語は、何かほかの言葉に置き換えられないかと思うが)。 コンフリクトではなく、新たな文化、多様性として開花させるために、「個別の相手への共感力」も鍛錬したいとしている。

 著者は、前著『タンザニアを知るための60章』の中でも、ニャキュウサの人びとの出稼ぎ、移動の様子を記している。その中で「つねに移動していたー定着しない農民」という表現を使っている。つまり「部族共同体」というものが太古から存在し、故郷の村からは一生出たことがない農民というイメージとは違い、アフリカの農民はかなり流動的で、「部族」の枠組みも曖昧なものだったのだろうということを浮かび上がらせた。その人たちが、アジアに移動を繰り返し、一部は移住していく、そこで起こる異文化体験を、文化の多様化・豊富化として受け入れようとする積極性を感じさせる。

📷 2010年カリアコーにある中国バイクショップ、スーパーマーケット  さて、紹介部分が長くなってしまった。紹介だけで読んだ気分になって、本書が購入されないと、栗田さんに迷惑をかけることになるのだが、私のコメント、感想を付したい。

 私が具体的に分かるのは、ダルエスサラームのカリアコーだけである。香港にも、バンコクにも、ルサカにも、もう20年以上は行っていない。リロングウェなんて、1976年まだ新首都建設の途上の埃っぽい、だだっ広い敷地にあった小さな町の思い出しかないので、活気ある街は想像できない。

 実はカリアコーだって、昨年9月の栗田さんの調査に半日くっついて歩いたのが、久しぶりだったと思う(3年ぶりかな)。カリアコーも20年くらい前から、活気のある喧騒と混乱の街、泥棒の多い怖い街という感じで、旅行者にも行くことを勧めなかった。

 中国人の店が増えている。チャイナタウンが出現するかも…というタンザニア人の噂も聞いていた。きっかけは教え子からの要請である。今度上海の中国人と組んで、カメルーンで地元の人向けのスーパーマーケットを開きたいから、カリアコーで中国人経営のスーパーマーケット(「超市」と表示されている)の品揃えを教えてくれと頼まれたのだ。2010年9月、おりからカリアコーで調査中の栗田さんに案内をお願いして、半日ほど回ってみた。久しぶりで、少し緊張したが、飄々と歩く栗田さんについて回っている分には、一向に怖いことはなかった。これは栗田さんの調査スタイルに乗っかったからだろう。今度は、自分の力で回りたいと思っている。

 カリアコーに中国人が増え、特別な技能をもつのではない、単純な半熟練労働をやっているのを、「タンザニア人の職場を奪う」と非難するマスコミもある。新年の産業副大臣の声明も、中国人の資格審査を厳しくするといい、その例としてカリアコーが挙げられていた。実際に中国人の移住、商売によって、軋轢が生まれていることは間違いない。日本人がタンザニアで労働許可、在留許可を取ることの面倒くささを考えると、多くの中国人の許可がよく取れているなと思う。

 一方、中国に住み着き、商売をしているタンザニア人を含むアフリカ人も、かなりの部分は正規の許可を取っていないのではないかと想像される。インフォーマルのままであるだろう。いわば個人の才覚によって伸びている、こういうインフォーマルな交易が、将来、会社組織に衣替えして、フォーマルな部分になっていくのか?現在現金払いでおこなわれているインフォーマル交易が、銀行間送金になり、相互の政府が把握するフォーマルな貿易になっていくのだろうか?そうなった場合、現在あるアジアとアフリカの間の価格格差は、中国の経済成長が進む限り、縮小していくだろうから、インフォーマルセクターは生き残れないのだろうか?

 現段階では、フォーマルな部分に収斂されていくとは思えないし、インフォーマルセクターはまだまだ成長の余地を残しているだろう。日本は物価が高いので、まだアフリカ人の定住の率は低いようだが、ナイジェリア人、コンゴ人など、アフリカ大陸の中でもアグレッシブな人たちは、もうコミュニティを作っているのではないか?タンザニア人も日本国内にネットワークがあり、一部の集住地域が知られている。そういった異文化の人たちを、軋轢を起こすからと、受け入れを拒絶していくような柔軟性のない日本文化ではないと期待したい。長い期間かけて中国や西欧の文化を受け入れて、自分たちのものとしてきた日本の社会文化の許容力を信じたいと思う。

(2011年2月1日)

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