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Habari za Dar es Salaam No.108   "Tembea Kariakoo" ― カリアコー散歩 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 昨年9月、栗田和明さんの調査について行って、久しぶりにカリアコーを歩いて、新鮮な刺激を受けた。中国人の店も出てきているし、今年1月には産業副大臣の「カリアコーに中国人が増えている。彼らの労働許可、在留許可をチェックする」という声明で、カリアコーの現状に興味がまた高まった。

📷  2月の土曜日の午前中。平日とは違って人が少ないというが、それでも車も人も多い。すれ違う車に気をつけながら、混雑した通りを歩く。暑い盛りゆえ、2時間も歩くと<汗はびっしょり。その前日、カリアコーで調査していた日本人が、「中国人と間違えられると、入管の役人が私服で回っているから、面倒ですよ」と警告するものだから、少しだけ緊張して歩く。

 カリアコー(Kariakoo) 。ダルエスサラームの下町の代表。語源は、第一次世界大戦の際、英独の戦場となったドイツ領東アフリカ(現タンザニア本土)に攻め込んだイギリス軍に従軍したアフリカ人輜重部隊の駐屯地になったため、Carrier Corpsから来たとするのが、最有力説である。

 カリアコーの歴史については、この「ダルエスサラーム通信」第51回第92回で触れたから、簡単に記す。1860年代にザンジバルのスルタンによって建設が始まったダルエスサラームで、現在のカリアコー地区は、当初スルタンの奴隷によるプランテーションが広がっていたらしい。1890年代、ドイツの植民地時代に入っても、都市計画の中に、カリアコーはまだ登場しない。アフリカ人地区として、都市計画に入って来るのは第一次大戦直前の1913年である。ゾーン1(官公庁、ヨーロッパ人地区)、ゾーン2(商業地区、アジア人地区)、ゾーン3(アフリカ人居住区)という人種別居住区が計画される。

 ドイツは大戦で敗北し、植民地のオーナーはイギリスに取って代わられたが、都市計画の基本は受け継がれた。1930年には、ゾーン2とゾーン3の間に、「人種の混交を避けるために」オープンスペースが作られた。人種隔離の思想だ。

 カリアコー地区の中心は、中央卸売り市場である。この生鮮品を主としたマーケットが建設されたのは、1923年のことである。その後、カリアコーにアジア系の商人がゾーン2から流入してきて、東部は商業地区、西部はアフリカ人の居住区という形になっていく。

📷 カリアコーにあるCCM副本部  第二次大戦後は、カリアコー地区は独立運動の中心地になっていく。当時のTANUの本部(現在はCCMの副本部)もカリアコーにあり、Young AfricanとかSunderland(現Simba)といった人気のスポーツクラブや、タアラブやジャズを演奏したミュージックホールもカリアコーにあった。そういった大衆の集まる場所が、独立運動の発信地のようになっていったことは、鶴田格さんが著している。

 カリアコーに新しい中央市場が建設されたのは1974年のことである。私は1975年9月に初めてダルエスサラームに入ったが、まだ真新しい中央市場を見ることができた。記憶はおぼろげなのだが、マーケットの中は閑散として活気がなく、周辺の方に人も物も集まっていたように思う。ウジャマー社会主義華やかなりしころのことである。

 1984年から、ダルエスサラームに定住するようになって、物資不足の時代は、よくカリアコーに物探しに行った。しかし、90年代に入り、自分で車を運転するようになると、カリアコー地区に行くのが怖くなる。買い物している妻を車の中で待っていて、簡単なトリックに引っかかって、カバンを盗まれてから、用心してカリアコーにはめったに行かなくなった。1998年に旅行社を始めてからは、慣れていない旅行者には、「カリアコーは怖いから行かない方がいいですよ」と警告する側に回っていた。

📷 カリアコー・中央マーケット  カリアコー地区の東側の外には、都市計画でオープンスペースとされたムナジモジャ公園がある。その公園の西側を走る大通りが、ルムンバ大通りで、カリアコー地区はその西側に広がる。北東側はモロゴロ大通り、南側はニエレレ大通り(以前のンクルマ大通り)が仕切りになっている。西側は道路の仕切りがなく、ムシンバジ大通りの西側にも商店、住居地区は広がっているが、道路は、川沿いの低湿地(ジャングワニ)に消えてしまう。面積でいうと、約1.3平方キロの中に、店舗・住居が密集している。

 今回は、東側からムナジモジャ公園の脇を通るムクナジニ通りから、カリアコー地区に入った。この通りをまっすぐ行くと、中央マーケットにぶつかる。リヴィングストン通りを渡り、次のシククー通りで左折する。中央市場はその次のスワヒリ通りとニャムウェジ通りに挟まれているから、まだ手前である。

 今回の目的は、「中国人のやっている店で、運動靴を買う」であった。オフィスのスタッフに中国人の多い区域を訊くと、南北はリヴィングストン通りとシククー通り、東西はペンバ通りとムチキチ通りに挟まれた区域だという。その区域を行ったり来たりする。インド人のやっている靴屋で、ブランド名も全くない靴を27,000シリングで見つける。しかし、中国人が店番をしている店もあまり見つからないし、靴屋自体が見つからない。車のタイヤを置いてある店は多いのだが。

 ナルゴンベ通りに入り、衣料品と一緒に靴もショウウィンドウに並べてある店を2軒見つけて入る。この「店に入る」というのが、昔はなかったことだと思う。つまり、カリアコーの店は、道路ギリギリまで店があり、店番が中にいる場合、道路に椅子を置いている場合もあるが、客は道路から店の中に入らずに注文して、品を見せてもらい、買ったりするのが普通だった。だから間口が狭く、奥行きが深い店が多かった。今回は、中に入り、エアコンの効いている店で、靴を見たことが多かった。アディダスなどのブランド品のまがい物を、57,000シリングで売っていた。2軒とも、店番のあんちゃん、姉ちゃんがやる気を全く見せず、違ったサイズも探してくれないから、他の店に向かう。

📷 カリアコーの食堂  狙った区域をぐるっと周り、往来してみたが、中国人の靴屋はみつからない。中央市場に向かう。周辺には野菜・果物の露店が広がっていて、活気がある。カメラを向けると、強い声が飛ぶ。中央市場の中に入る。10数年ぶりだろうか。あまり変わった感じはしない。両脇の肉、魚の市場は別として、日用品(バケツ、かご、トランク、ナイフなど)、農業関係の店が並んでいる。食料品、衣料品を扱っている店もあるが、少ない。薄暗いせいもあるが、あまり活気がないように感じた。

 中央市場を逆方向のニャムウェジ通り側に出て、コンゴ通りに向かう。ダラダラが並んで、駐車している。暑さに参って、ちょっと一休み。ジュースを並べている食堂に入る。アボカド入りパッションのジュースが600シリング。11時という中途半端な時間のせいか、お客はさほど多くはない。ウェイトレスが、自分たちでチャイとパンを食べている。マンダジは150シリング、チャパティは300シリング。昼食時には、ワリナニャマ(肉汁とご飯)は2,000シリング、ウガリナニャマは1,400シリングと書いてある。安いけど、ものすごく安くはない。

 食堂をの隣でも、男物の靴と衣料品を売っていた。入ると、お客だか店員だか分からない男が中央にど~んと座り、他にいる若い男たち4人に、大声でまくしたてている。「アラブ人の大金持ちBが社会貢献した話は聞いたことがない。アフリカ人の大金持ちMはいろんな所に寄付している話をよく聞く。Bの葬式には人は集まらないぜ」。うるさいなぁと思いつつ、BもMもよく知られているので、耳に入ってくる。靴のデザインを選んで、サイズを訊こうとすると、なんとその男が店のオーナー(あるいは少なくとも店長)だった。延々とBとMの品定めを続けながら、まがい物のアディダスのサイズを何回も試させてくれ、40,000シリングというのを値切っても、頑として負けず、買わされてしまった。まぁ、やつが稼いで、社会貢献してくれるのを期待しておこう。

 私は買い物が面倒くさいと思う性質なので、4軒も見たからもう十分という気持ちになって買ったが、その後コンゴ通りを南下したら、靴屋がいくらでも並んでいた。衣料品店(男物、女物)、カーテン屋、日常雑貨屋など、同じ種類の商品を扱う店が集まっているし、買出しには便利だろうなと思う。街中や近所の店では見かけない、巨大なスフリア(鍋)も山と積まれていた。

📷 China Townという看板が出ているビル  その後、ニャムウェジ通りを南下し、いったんウフルー大通りに出たが、車が多く、おもしろくないので、スワヒリ通りで中に再び入り、アグレイ通りを抜けて、ルムンバ大通りに戻った。最後の方は、暑さで、店を熱心に覗く気力がなかった。

 ルムンバ大通りを北上し、カリアコー地区を外側から眺めてみると、高い(7~8階建て)建物が増えている、あるいは建設中であることに気がつく。総ガラス張りのビルなどもある。スワヒリ風のベランダをもった平屋の長屋が大幅に減っている。カリアコーの風景も変わりつつあるのだ。CCM副本部の近くのビルには、「China Town」という看板がかかっていた。ビル全体の呼称なのかは、確認しなかったが。

 今回は、カリアコー中央部をさっと2時間回っただけで、南部(ゲレザニ地区)、北部、西部(ムシンバジ大通りの西側)と、まだまだ回らないといけない地区が多い。ヤンガとかシンバのクラブハウスも見てみたい。スワヒリ風家屋がどの程度残っているのかも気になる。チャイナタウンの萌芽も未確認だ。涼しくなるのを待って、またテンベアしようと思う。

☆参考文献☆ 栗田和明『アジアで出会ったアフリカ人』(昭和堂、2011) 鶴田格「ダルエスサラームのアフリカ系住民社会における遊びと政治」(東京外国語大学『アジアアフリカ言語文化研究』55号、1998) James R. Brennam, Andrew Burton & Yusuf Lawi Eds."Dar es Salaam, Histories from an Emerging African Metropolis"(Mkuki na Nyota Publishers,2007) Tanzania Notes & Records No.71 "Dar es Salaam, City, Port and Region"(The Tanzania Society,1970)

(2011年4月1日)

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