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Habari za Dar es Salaam No.114   "Swahili Coast, Mombasa Oldtown" ― スワヒリ海岸・モンバサのオールドタウン ―

根本 利通(ねもととしみち)

 この話は「ダルエスサラーム通信」第113回の続編になる。マリンディから陸路、3ヶ所の遺跡を見学しながら、モンバサに着いたところまで記した。

📷 モンバサのオールドタウン地図©National Museum of Kenya  翌朝は、まっすぐフォート・ジーザスを目指した。泊まったホテルから一本道である。途中で、トレジャリー・スクウェアという政府関係の役所の集まった広場を通る。のんびり歩いていると制服を着た男が近寄ってくる。「ここら辺は政府の役所だから、写真を撮ったら6ヶ月の投獄だ」と脅した後、「オールドタウンは治安が悪く、カメラをひったくる事件が多いから、ガイドを雇え」と言う。適当に相手していると、道路を横断したところに、オールドタウンの散策地図があり、そこに若い男が立っていて、私たちにガイドを始めようとする。さすがに腹が立って、語気強くお断りした。

 フォート・ジーザスは、モンバサに来る度に寄っているから、今回で4回目になると思う。その都度、きれいに整備されているように感じるのは、気のせいだろうか?今回は初めての訪問になる娘の興味に従う。

 フォート・ジーザスは、1591年にモンバサを占領したポルトガルが、1593~6年に建造した。その後、約100年間、ポルトガルの東アフリカの根拠地として、インドのゴアとモザンビークを結ぶ中継地点として存在した。1696年から33ヶ月ものオマーン・アラブの包囲の末、陥落する。33ヶ月の包囲を受けていた方の思いはどうだったろうか?食料も弾薬も尽き果て、ゴアからやってくるはずの救援の船が水平線に姿を見せるのをじっと待っていたのだろうか?ある部屋に描かれている稚拙にも思える船などの絵は、ポルトガルの守備兵の無聊の作品だろう。

 フォート・ジーザスを出て、地図を片手に歩き出す。マリンディで入手した「Discovering the Kenyan Coast」の中に入っているオールドタウンの地図が非常によくできていて、主要な建物、バルコニー、扉などはおろか、カフェ、レストランなどの場所も書き込まれている。また観光用に、1時間、1時間半、2時間半の散策コースが策定されていて、それぞれ緑、青、赤で地図に記入されており、さらに街中の角の建物には、それぞれのマークが記されているから、迷いにくい。(この地図の作成者は日本人のようだ。だから、見やすかったのかも)

📷 海から見たフォート・ジーザスとモンバサクラブ  ガイドなしでMbarak Hinawy Roadを歩き出す。旧Africa Hotelなどの古い建物、Mandhryモスクなどを見ながら、政府広場に着く。旧郵便局や、バガモヨから移住しモンバサの商業の大立者となったイスマイリーの商人の倉庫跡などを眺める。マイクロバス3台に分乗した白人たちの観光客がやって来て、すぐ立ち去る。広場は海に面していて、旧港(オールドポート)があるのだが、観光客は入ろうとしない。2000年以上に及ぶインド洋西海域の交易に重要な役割を果たし、今も現役の重要な場所なのに…。そういう感想をもらしたら、「そんなもの興味がなければ見ないわよ。大したものはないし」と妻に一蹴される。

 たしかにその日、波止場に係留されていた船は、一隻のみ。貨物が動いていないから、ポーターもいない。港の役人も新聞を読んでいたり、居眠りしている、気だるい忘れ去られたような場所だった。

 旧港の近くに、レヴンハウスという建物がある。元は1820年代、奴隷貿易の取締りのための英国海軍の将校の根拠地だったらしい。その後、キリスト教の宣教師(クラフ、レブマン)や探検家(バートン、スピーク)が泊まったり、イギリスやドイツの領事館が置かれたり、変遷をうけるが、1997年ケニア博物館に買い上げられた。その後、補修作業が進み、現在は美しく塗られ、屋外レストランになっている。3階では宿泊も可能らしい。

 このレヴンハウスから海辺に下りる階段があり、そこに小舟が何艘か係留されている。今回は海側からフォート・ジーザスを見てみたいと思っていたので、下りていって、そこにいるアラブ系の青年に尋ねてみると「できるよ」という返事。海辺の井戸から真水を浴びていた青年に、ナホーダ(ダウ船の船長)との交渉を頼む。3,000シリングという回答で、高いなと思って断る。けれど、海からフォートジーザスを見たい気持ちは捨て切れない。それを読んだ若者は「俺の船なら」と言い出し、2,000シリングで折り合う。

📷 モンバサのオールドポート  さて、若者(イッサ)が持ってきた船は、彼が示した彼らの船(ダウ船)ではなく、その上陸用の手漕ぎボートであった。妻と娘は難色を示すが、私は意気揚々と乗り込む。漕ぎ手は3人で、左右2人ずつ漕いで、一人は休んで交替する。往きは、潮流が逆で、なかなか進まない。漕ぎ手のどちらかが疲れてサボると、方向が変わってしまう。イッサは船頭気取りで、私たちに説明しようとするから、手がおろそかになり、他の漕ぎ手から文句が出て、口論になる。

 小さなボートで、バランスを気をつけないと転覆しそうな不安定さで、写真を撮っている妻は一苦労。それでも頑張る漕ぎ手のおかげで、レヴンハウスから出航し、ボホラ派のモスク、旧港を過ぎ、モンバサ・クラブで遊ぶ白人、インド人の姿が見えてきて、フォート・ジーザスまでたどりつく。ここを包囲していたオマーン・アラブはどこから攻め入ったのだろうか。復路は潮流に乗ってすんなり帰ってきた。

 普段は漁師で、タンザニアのペンバ島の沖まで出漁する彼らの主要な獲物はマグロとサメらしい。マグロはすぐ高く売れるけど、サメは買い手をみつけるのがホネらしい。私たちにルートを探してくれというけど、「中国人ならフカヒレだけど、日本人には無理だ」と断る。サメの皮を剥いで、干物にしようとしている光景が広がっている。お愛想で、来年企んでいるモンバサ→ペンバ→ザンジバルのダウ船の旅を、彼らにできないかと訊いてみる。彼らはもちろん「できる」と答える。彼らのダウ船を見せてもらうと、なかなか立派なものだが、漁船なので基本はエンジンを使い、帆走はあくまでも二次的補助手段のようだ。その分、安全とはいえるけど、「ダウ船の旅」を標榜するには、看板に偽りありといわれそうだ。それに、普段外国人の船客を乗せたことがない彼らには、出入国の手続きや、ソマリア人の海賊対策など、困難な問題が多いだろう。

📷 モンバサのオールドタウンの街並み  陽気な船乗りたちと別れ、最初に舟を尋ねたアラブ系の青年ムッサと一緒に、オールドタウンの散策を続ける。私たちだけだったら、地図に書いてある散策コースをたどり、名前のある道路からは逸れないのだが、、ムッサはひょいと角を曲がり、小路に入り、親戚や友人とおしゃべりをし、その合間に古い建物や、ドア、バルコニーを見せてくれる。だんだん、方向感覚を失っていく。

 市場に向かって歩く。人通りがどんどん増えて、ブイブイ(黒衣)を被った女たちや、カンズ(寛衣)を着た男たちの横を、トゥクトゥク(三輪タクシー)は走り抜けていく。妻と娘は香辛料の店に入って、しばらく時間を取られる。ザンジバルでもめったに見ない(多くはスペインあたりからの輸入品)ケニア産のサフランを見つけるが、高いので買うのは断念。その店にいた男が、何となく私たちに付いてきて、自分の店に来いとどんどん細かい曲がりくねった道に入っていく。彼は、私にカンズとキコイ(腰巻)とキレンバ(ターバン)というムスリムの服装を売りつけたかったのだ。私はその日、コフィア(帽子)だけ被っているという中途半端ないんちきムスリムの格好をしていたからだろう。高いと思ったが、以前から欲しいと思っていたので、旅先の軽い気分に乗せられ、カンズとキコイを購入する。この格好でお酒を飲むわけにはいかないし、ラマダンに久しぶりに断食するかなという気持ちがちらっとだけする。

 最後に街中の食堂で、スワヒリ料理ビリヤニを食べる。Barkaレストラン。いくつもの料理が並べられ、お客は自分の好きな料理を言って、皿によそってもらう。ピラウもビリヤニも野菜料理も数種類ずつある。私はエビのビリヤニと野菜を頼む。放っておくと、大盛りによそってくれる。ジュースも何種類かあり、勝手に選んで入れてくる。普通は全部取り終わったら、会計で支払うのだが、ここはどんどん勝手に食べだす。どうやったら会計できるのかなと思ったら、そのうちメモをもったおじさんがやってきて、食べているものをチェックし、金額を置いていく。慣れている顔見知りにはいいだろうけど。

📷 モンバサのオールドタウンの街並み。Mandhryモスク  翌朝もムッサとフォートジーザスで待ち合わせ、オールドタウンの散策を再開する。ムッサには、興味があるのは、バルコニー、扉、古い建物、モスクなどで、ショッピングには興味ないと伝える。フォート・ジーザスの向かいにあるマズルイ家の墓地から、Ndia Kuu(大通り)に入る。

 ムッサも承知して、バルコニーのある古い建物、扉を紹介してくれる。100年前とか、200年以上前という風に。確かにかなり風雨に晒された古い建物に、まだまだ多くの人が住んでいる。モンバサ・ハウスだったかは、売りに出されていた。古い建物も改築されるのだが、保存条例によって、元のデザイン通りに再建しないといけない。さんごはもう使えないから建材は変わるが。

 ムッサに言わせると、多くのソマリ人が古い建物を買い取っているという。海賊の身代金で稼いだ金で、ソマリ人のボスたちは投資をしているのだろうかと、ふと思う。そう言われると、マッキノン市場から、ニュータウンに向かう商店街に、明らかにソマリ人の多い一角があった。商店主も荷物を運んでいる若者にも、ソマリ人風の顔立ちが多かった。

📷 モンバサのオールドタウンの街並み  ムッサは11人兄弟姉妹の6番目だそうだ。父親は洋服屋。イタリアにいたこともあり、オールドタウンの中で紳士服(スーツ)を主に作っていたが、インド人の競争相手の嫌がらせを受け、免許を奪われたりした。今は、モンバサ島の外(大陸側)のビーチリゾートの近くで、主に婦人服を縫っているという。ムッサは、後を継ごうとケニヤッタ大学のモンバサ・キャンパスで、洋服の縫製を習ったという。果たして、学部課程かどうかは訊かなかった。

 父親の仕事も手伝うが、船乗りを手伝ったり、観光ガイドもやるという。単なる地元の若者というよりは、細かい年代などを知っている。やはり一度観光ガイドの訓練を受けたことがあるのかも知れない。船乗りとしては、イェメンまで行ったことがあるという。昨日見たサメの干したものなどを持って行く。帰りにソマリアの海賊に捕まったが、デーツ(なつめやし)とか、金目にならないものしか積んでいないので、海賊はデーツを少し奪って「しようがないなぁ。しゃべるなよ」と解放してくれたという。どこまでが本当の話なのか、あるいは友人から聞いた話なのか?

 オールドタウンの中を歩いていて、母方の大叔母というのに捉まったことがある。「しばらく顔を出さないねぇ…。まだ独り者やってんの?もういい歳なんだから、早く身を固めないといけないよ」というお説教をくらい、「分かった、わかった。そんなら嫁さん紹介してくれよ」と別れたと見えた。でも、後で聞くと、26歳で、結婚しており、7歳5歳3歳の子どもがいるという。どこまでが本当なのか、変幻自在である。いい加減ではなく真面目そうな青年なのだが、一見の外国人に本当のことをしゃべる必要はなく、相手を楽しませればいい、とでもいうように。

📷 モンバサのオールドタウンの街並み。賑やかな市場  オールドタウンを歩いていて強く思ったのは、ザンジバルのストーンタウンとの共通点、そして違いである。つまり、ザンジバル革命がなかったらどうだったのだろうかという想像である。

 歴史に「もし」は不要だが、モンバサのオールドタウンは、インド人の商店主は多いし、アラブ系、スワヒリ系の顔立ちの人びと、姿は圧倒的である。もちろん、アフリカ系の人びとも多いのだが、その多くが肉体的労働者のようで、町人としてはあまり目立たないのだ。

 ザンジバルでは革命で、タウンの中にいたアラブ系の人たちは多くが殺されたり、亡命したりしていなくなった。インド系の人たちは商売の混乱を嫌って、移住した。その空白に革命の勝利者の本土のアフリカ系の人たちが入り込んできた。「アフリカ大陸はアフリカ人のもの」というスローガンで、それが正当化された。

 しかし、インド洋西海域の歴史を振り返ると、キルワ、ザンジバル、モンバサ、ラムといった島々、そしてモガディシオ、マリンディ、パンガニ、バガモヨといった海岸の港町にとっては、必ずしもそうではなかったのではないか。海を越えて渡ってくる人びとと、内陸から遠距離のキャラバンで出てくくる人たちとの出会い、交易の場であったはずだ。特に島嶼部が、海外から短期、長期でやってきて滞留する人たちの安全な隠れ場でもあったはずだ。19世紀になるとそこに様ざまな顔の人が住み、様ざまな文化、宗教が見られた。モンバサ・オールドタウンや革命前のザンジバル・ストーンタウンはコスモポリタン的な世界だったはずだ。

 「コスモポリタンな世界」を懐旧的に美化しているのではない。そこにはアフリカ大陸の内部から暴力的に、あるいは借金の質として連れてこられた奴隷とその末裔もいたし、現在のモンバサでもその姿がまったく消え去っているわけではないのかもしれない。つまり、それがコスモポリタン的な社会の一側面だったのだろう。そして、それは現在急激な勢いで進行中のグローバリゼーションの一側面をも暗示しているのではないか。わずか2日間のオールドタウン散策で何が言えるものでもないが、革命前のザンジバルのストーンタウンの香りを感じたと思う。歴史は移ろいゆくものなのだ。

 まだ、ケニアの北部スワヒリ海岸(ラム群島)が残っているというのを意識しながら、今回のサファリを終えた。(ソマリア南部国境と近いけど、来年は行けるのだろうか?)

☆参照文献: A.I.Salim"Swahili Speaking Peoples of Kenya's Coast"(East African Publishing House,1973)  J.Kirkman"Fort Jesus,Mombasa"(National Museum of Kenya,1981) H.Kiriama,M-P.Ballarin,J.Katana & P.Abungu"Discovering the Kenyan Coast"(National Museum of Kenya,2008) A.Abdulswamad,O.Kassim,S.Moriset"Vielle ville de Mombasa"(CRAterre,2009)

ケニア情報は、下記にもあります。 ケニア

(2011年10月1日)

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