• 白川

Habari za Dar es Salaam No.117   "Miaka 50 ya Uhuru" ― 独立50周年 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 2012年、明けましておめでとうございます。  本年が、世界とタンザニアと日本の人びとにとって、平和で幸せな年になるように祈念します。  昨年は日本もタンザニアも大きな自然災害に見舞われましたが、今年は平穏であって欲しいと願っています。

📷 独立50周年記念式典©Citizen  タンザニアは、2011年12月9日、独立50周年を祝った。

 各地で式典が開かれたが、大統領や外国からの賓客(外国の元首は、ナミビア、マラウィ、モザンビーク、モーリシャス、コモロの5カ国。東アフリカ4カ国は欠席)が参加したメインの式典は、ダルエスサラームの旧国立競技場(ウフル・スタジアム)で開かれた。大統領の閲兵に始まり、警察や軍(戦車や飛行機)の行進、多彩なマスゲームが繰り広げられた。マスゲームでは、タンザニアの独立からの50周年の歴史、教育、保健の発展、村落(ウジャマー)のエピソ-ドが演じられた。

 キクウェテ大統領の演説では、「独立の時、イギリス人は舗装道路を3区間(モシ~アルーシャ、タンガ~コログウェ、ダルエスサラーム~モロゴロ)しか残さなかった。しかし、外部ではなく、私たち自身の力で、ほとんどの道路は舗装された」と胸を張った。開発屋らしい発言である。自力の部分と外国の援助による部分には触れられていない。

 当日の『The Citizen』に掲載された開発・発展の数字を引用してみよう。それぞれの数字はタンザニア政府の各省庁のウェブサイトの数字からのようで、わたし自身は検証していない。

📷 独立50周年記念式典©Citizen  まず、国全体の数字について。国の人口は1961年の940万人から、2010年末推定の4,200万人以上まで増えている。約4.5倍だろうか、これを基礎数字としよう。国内総生産(GDP)は、約4,500倍だから、国民所得は約1,000倍に増えている計算になるが、タンザニア通貨(Tsh) の価値の下落を考えると、数字通りに読めないのはもちろんである。対US$の為替レートの下落だけで換算するのは正しくないのかもしれないが、それが約222分の1($1=Tsh7.2→1,600)とすれば、国民所得の成長は約4.5倍に過ぎないことになる。

 道路に関しては舗装道路が1,300kmから6,500kmになった。教育に関しては、小学校が3,238校から16,001校に増え、児童数は48万人あまりから、836万人に増えたとされる。学校数の伸びが約5倍なのに、児童数が17倍強に増えているということは、1校の収容児童数は3倍以上に増えているということだ。ちなみに教員数の増加は、約18倍弱だから、教員一人当たりの児童数はほぼ同じである。中学校の数は100倍強、生徒数は約150倍になっている。大学はというと、独立直前に開校したダルエスサラーム大学の第一期生14人しかいなかったのが、現在34大学に14万人弱が在籍して学んでいるという。

 保健衛生に関しては、独立時に医者が9人しかいなかったのが、現在5,026人。病院は98から240に、診療所は1,236から5,394へ増えたという数字が挙げられている。乳幼児死亡率は、10万人に対して1,000人から454人に減り(まだかなり高い!)、平均寿命は41歳から55歳に伸びた(まだかなり低い!エイズのせいか?)という。地方のきれいな水へのアクセスは6%から58%、都市部のそれは25%から86%へ増加という数字が挙げられているが、生活実感とほど遠い。

 しかし、繰り返し語られたキーワードは「Amani na Umoja(平和と統一)」だったと思う。Umojaはどちらかというと政治家の用語だが、Amaniというのはやはり民衆のいつわらざる気持ちだろうと思う。「Makabila(部族)が120あまりもあったのに」という発言がいくつかあった。

📷 2011年12月9日キリマンジャロ山頂に点された松明©Mwananchi  そして、これに関しては独立運動を率いた指導者層、特にニエレレの思想、意思というものが大きく反映しているだろう。「国を作る」という使命に対する責任感・理想・倫理観というものが大きな意義をもったというのは、近隣諸国のこの半世紀の歩みと比較してもわかると思う。

 ニエレレの率いたTANU(タンガニーカ・アフリカ人民族同盟)は、独立前後には対立政党をもちながら、圧倒的な優勢で、独立を無血で勝ち取った。独立後は事実上の一党制、1965年からは法制上の一党制を1992年まで続けた。ニエレレの主導する一党制民主主義がどの程度機能したか、しなかったかは検証に値するだろう。

 ニエレレの理念は次のようなものだった。   1)厳格な平等追求ー人種、民族、地域、宗教、性別、貧富の差を克服する。   2)スワヒリ語を国語とし、初等教育を全国に普及させる。   3)国民の大多数である農民を主人公とし、国の産業発展の基礎に据える。

   この理念の公式化が、1967年のアルーシャ宣言と、ウジャマー政策だった。この社会主義による経済建設は失敗に終わり、タンザニアは、世銀の統計では世界の貧困国の最底辺をうろうろすることになる。下にはエチオピアとかソマリアとかその当時内戦中の国ぐにしかないという状態になった。「タンザニアは英国の植民地として搾取され、独立後はニエレレの理想に搾取された」とあるアメリカ人に揶揄される状態になった。

📷 独立決定を喜ぶ©Mwananchi  さて、独立50周年を前に、タンザニアの各地では記念行事が行われた。またマスコミなどでも、過去を振り返る特集が盛んに行われた。例年10月14日のニエレレ・デー(命日)には、ニエレレを偲ぶ記事が出るが、2011年は特に多かったと思う。混迷した現在のタンザニアの国情を、特に与党政権をニエレレの思想・事跡を引用しながら叱咤するものが多かった。しかし、必ずしもニエレレ懐古、賛美の記事ばかりではなかったのが新鮮に感じられた。

 どちらかというと政府に距離を置いた論調である『The Citizen』と『Mwananchi』の姉妹紙が、9月28日から「独立50周年記念」シリーズを続けた。独立記念日まで全部で50回以上も続いた。その中で、過去独立前夜のTANUのエピソードや、反TANU、反ニエレレの立場だった政治家の懐古などがあった。従来だったらこういう記事は怖くて掲載できなかっただろうと思うような記事もあり、興味深かった。

 独立50周年記念特集は、ドイツの植民地化、カール・ペータースによる内陸部の首長(例えばサガラとの)との詐欺的な条約から始まる、ついでマジマジの反乱。そして、TAA(タンガニーカ・アフリカ人協会)の創設に流れる。TAAに集ったのは、中等教育を受けた都市の初級公務員・知識人、ムワンザ地方を中心とする綿花生産協同組合、港湾、鉄道労働組合などの人びとであった。

 そのTAAがTANUに発展し、ニエレレ委員長をはじめとしてより多くの人びとを結集した中では、タンガニーカ人意識の芽生えを感じさせる。ニエレレ首相の下に組閣された最初の内閣には、12人の大臣がいるが、英国系2人、アジア系1人を除く9人のアフリカ人の出身地はきれいに分かれている。この伝統は現在も守られていて、2010年11月に発足した第二期キクウェテ内閣では、29人の大臣のうち、ザンジバル出身者を除く25人の出身は19州に及んでいる。歴代4人の大統領は、交互にクリスチャン、ムスリムから出ている。

 この地域、宗教のバランスを意識した舵取りは、スワヒリ語と初等教育の広範な普及と密接な関係がある。国民の99%以上がスワヒリ語で会話できること、中等教育、中産階級の育成を後回しにして、初等教育・成人識字教育に精力を注いだことは、1970年代の末には、アフリカ諸国最高の識字率となって結実した。これはタンザニアの財産だろう。ただし、現在はランクが落ちている。これはIMFによる構造調整政策の導入の結果、初等教育にも受益者負担の部分が生まれ、就学率が落ちたことに起因している。

📷 1961年独立最初の内閣©Citizen  もっとも独立後の50年の歩みは平坦であったわけではない。1964年のザンジバル革命と、タンザニア連合共和国の成立。同じ年の軍の不服従事件。それを抑えた実力者のカンボナの自主的な亡命(1967年)、それに関連しているといわれる陰謀事件と関係者の投獄(1969年)、ウジャマー村強制移住政策に対する反抗(1973~5年)、ウガンダの独裁者イディ・アミンとのカゲラ戦争(1978~9年)、タンザニア航空機ハイジャック事件(1982年)、連合を巡るザンジバル大統領の辞任(1984年)、複数政党制復帰以後の総選挙時のザンジバルでの流血(1995、2000年)など、平穏を脅かされたことはないわけではない。

 しかし、近隣のモザンビーク、コンゴ(民主)、ブルンジ、ルワンダ、ウガンダ、コモロが揃って内戦、クーデタを経験し、ケニア、マラウィ、ザンビアなどの比較的安定していた諸国と比べても、さらに安定していた。タンザニアは、近隣諸国からの難民を一方的にかつほとんど無条件で受け入れてきた国である。タンザニア国民は、タンザニアという国家が、国民の経済、保健衛生、教育などに対して不十分な成果しか挙げず、かつ政府の役人、警察などの横暴、賄賂に悩まされても、それを一種の「必要悪」として許容してきたのは、機能している統一国家のありがたみを実感していたからであろう。

 12月初め、ケニアのナイロビで開かれた国際フォーラム「紛争と共生」に参加する機会があった。1990年代から頻発しだしたアフリカ大陸内の紛争を解決するのに、外部の、特に欧米の価値基準ではなく、アフリカが持っている潜在力で解決できないか、という野心的な試みである。今回は東アフリカ版ということで、ケニア、ウガンダ、タンザニアにエチオピアと南スーダンの代表(研究者)が参加した。ルワンダ、ブルンジの代表は参加していない。

 南スーダンは長い内戦を経験して、今年独立したばかりの国である。その国の紛争解決の経験・知恵は大いに議論・研究されるべきだろう。ただ、今年独立50周年を迎え、まがりなりにも平和と統一を維持してきたタンザニアからすると、少し距離がある。タンザニアが誇るべき最大の財産はAmaniだろうと思う。そのタンザニア50年の歴史を振り返ることが、「アフリカの持つ潜在力」の参考になるだろう。そして、タンザニアの誇るAmaniに不安や翳が感じられる昨今、それを維持していく意思がタンザニアの潜在力なのだと思う。

 「我われは長い道のりを歩んできた。まだ貧困との戦いは終わらないが、自信をもって前進できるだろう」という。為政者の意思、責任感が重要なことをニエレレは身をもって示した。しかし、国家を支えるのは民衆である。民衆はどこまで待てるのだろうか?独立50周年に際して、外国人といいながら、27年間タンザニアに住んできた人間として、さまざまに考えさせられた。そのことを、次の機会に述べたいと思っている。

(2012年1月1日)

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