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Habari za Dar es Salaam No.118   "Safari ya Burundi" ― ブルンジ紀行 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 ルワンダとブルンジが東アフリカ共同体に加盟してから4年経った。従来、「東アフリカ」というと、ケニア、タンザニア、ウガンダの3カ国のイメージだったが、最近はルワンダ、ブルンジを加えて5カ国という認識が定着してきた。ルワンダは1994年の大虐殺以降の復興が軌道に乗った感じで、それはカガメ政権の強権的な手法に一時的な静穏がもたらされている感がなきにしもあらずだが、平和は貴重だ。

 ルワンダには、タンザニアで知り合った友人Tさんがいた2007年に2泊3日という短期間で訪問したことがある。(「ダルエスサラーム通信」第63回参照)。ブルンジは依然として、内戦の跡をひきずっていて、治安状況が不安定だったから、様子見だった。ルワンダの訪問の際にお世話になったTさんが、現在ブルンジで働いているので、誘いは2年前から受けていたが、彼のブルンジの任期が最後になるというので、重たい腰をあげた。タンザニアが陸で国境を接しているのは7カ国ある。私にとってその残った最後の国がブルンジだった。

📷  今回の訪問も、2011年の11月中旬、週末を利用した3泊4日だけであるから、「紀行」と称するには遠く及ばない。また治安面の不安が全く解消されたわけではないので、首都ブジュンブラとその比較的近い南東部に限られている。2011年9月にもブジュンブラ郊外のコンゴ国境近くで、銃撃事件があった。

 首都のブジュンブラはタンガニーカ湖畔の港町である。コンゴ(民主)、タンザニア、ザンビアとを結ぶ国際航路が、平和時には運航され、20世紀初頭のドイツ植民地時代に運び込まれた伝説の100年選手Liemba号が、難民帰還船にチャーターされない限り、2週間に1往復くらいのペースで運航している。

 ブジュンブラは標高800mくらいだろうか。Tさんに言わせると常春の気候で非常に過ごしやすいらしい。マラリアもあるけど、あまり気にならないようだ。同じタンガニーカ湖畔にあるマハレでは、マラリアは脅威なのにどこが違うのだろう?

 行ったころはタンザニアも小雨季で、特にブルンジに近いキゴマとかムワンザのような西部地方では、大雨の報道が続いていたから、降り立ったブジュンブラに雨が降り、湖を除いて三方を囲む山々が一面緑だったのもうなずける。ただ、ブルンジの雨季は8月末から始まり、翌年の4月まで延々と続くという。それは長い。

 19世紀の探検家(バートンとかスタンレー)の記録を読むと、「アフリカの雨季の恐ろしさ、困難」を書いた文章にぶつかる。タンザニア、特にダルエスサラームの大雨季、小雨季の知識からいうと、雨季とは思えない月にも雨季の記述がでてくる。当時は、アフリカの探検の大変さを強調して旅行記をベストセラーにしていたのだろうから、そういう誇張かと思っていた。しかし、現実に隣国の雨季の様子を見てみると、自分の知識の狭さに気づかされる。

 ともあれ、ブルンジ滞在中の4日間、ほどんど雨、それもけっこう強い雨に降られ、街中を歩き回るということをせず、Tさんの車で街を走り、店やバー、レストランを回るという行動だったので、表面的な観察になってしまった。中国人のスーパーがここにも進出しており、様々な雑貨を売っていた。二国間の協定で、中国からの輸入品の関税が低く抑えられていて、ブルンジ人の手の届く価格範囲になっているという。本当なら、ここにも中国の強引な経済進出があるわけだ。

📷 ブジュンブラの街並み  滞在2日目には、タンガニーカ湖畔に沿って南下する。タンザニアのキゴマに向かう幹線道路だ。右手にはタンガニーカ湖が続き、その向こうには雨季で雲が多いが、晴れるとコンゴの山なみが姿を現す。その距離はせいぜい30kmくらいだろうか、まさに指呼の間である。漁師たちは船出したらすぐに対岸に行けそうだし、コンゴから難民、あるいは反政府軍がすぐにも渡って来そうだ。(2011年11月にも負傷した反乱軍兵士を追って、コンゴ政府軍兵士が武装してキゴマ港に来たばかり)

 でも、道中は平和である。時々検問をやっている警察がいたり、銃をもって3~4人で歩いている軍人たちの姿は見かけるが、私たちは止められることはなかった。道の両側には、キャッサバ、バナナ、マンゴー、マハラグウェなどの豆類、オレンジなどのおなじみの畑が広がる。コメ、トウモロコシもないことはないが、多くはない。ルモンゲという南下して70kmくらいの所に小さな漁村・港があるが、その手前あたりから増えてくるのはナツメヤシのプランテーションである。かなり鬱蒼とつるをまとった古そうな樹木が立っている。ベルギーの植民地時代からの遺産か。キゴマ周辺でも多く、マウェッセという赤い、匂いの強い食料油になる。東南アジアからの合成の食料油に負けて、換金作物、輸出商品としては苦戦しているのだろう。 

 ルモンゲの町のホテルで、帰りに昼食を摂ったが、眠ったような漁村に見えた。しかし、例のタンガニーカ湖周遊のリエンバ号は沖合いに停泊し、それに商品(多くは農産物)を積み込むというから、物資の集散地には違いない。日本の援助で、港(といっても波止場すらないが)の設備の改善が図られる計画があると聞いた。

 さらに50kmほど南下すると、もうすぐでタンザニア国境が見えるというニャンザ・レークという港町に着く。港町というより、ここも静かな漁村だ。ここからは湖畔沿いではなくて、いったん丘陵の中に入り、タンザニア国境を通過して、迂回してゴンベの山なみを見ながら、キゴマに到達する道があるという。実際に、ブジュンブラ~キゴマ往復のミニバスが日帰りで走っているらしい。

 この辺りで引き返すことにして、ちょっと一服。湖畔にあるビーチリゾート風の建物に入る。湖畔にビニールの屋根のついたテーブルがある。ちょっとしゃれた感じといいたいが、ビニールは破れているので、「雨降ったら、どうするんだ?」とボーイさんに戯言をいいながら、ビールを注文。そうしたら、一杯飲み出す前に、雨が降り出し、あわてて母屋に撤収。そこでボーイさんとスワヒリ語でおしゃべり。

📷 タンガニーカ湖畔の漁村ニャンザ・レーク  ルワンダではウガンダ帰りが幅を利かせているからか、フランス語に取って代わって英語がかなり強くなっていた(2007年)。スワヒリ語は通じないことはないという程度だった。ブルンジではフランス語が依然有力で、英語がほとんど通じないので、勢い私たちはスワヒリ語で旅することになる。土地の言葉(ルンジ語)しかしゃべらない人もいたが、スワヒリ語はかなり通じるように感じた。特に湖畔沿いの地域は、タンザニアとの物流が盛んなためだろうか、問題なく通じた。スワヒリ語がキャラバンルートの広がりに伴い、商業用語として普及してきた一端を垣間見る思い。コンゴ方言がどの程度入っているのか、私には判断するべくもないが、ザンジバルやキルワ、あるいはモンバサ、ラムといった海岸部の本家本元の標準スワヒリ語でなくても、ここでも実用に役立つスワヒリ語が生きているし、変わりつつあるのだと思う。

 この時は知らなかったのだが、帰ってから地図を見たら、このニャンザ・レークのタンザニア方向の岬に、「バートンとスピークの記念碑」があるらしい。1858年、ヨーロッパ人としては初めてウジジ(現在のキゴマの南側にある古い町)に達したあと、バートンがナイル川が流れ出す地点を発見しようとして、カヌーでタンガニーカ湖北半を調査した時の上陸地点だろう。この時、バートンは西岸のコンゴ側のウヴィラまで行っている。

 また、ブジュンブラに戻る少し手前の小さな川の河口付近に、「リヴィングストンとスタンレーの記念碑」もあるらしい。ここにも寄らなかったので確かではないが、1871年の有名なウジジの会見で、リヴィングストンに合流したスタンレーが、二人で2艘のカヌーを雇って、それぞれに英米の国旗を立てて、ナイルの源流を捜索した記念碑なのだろう。観光資源に乏しいとはいえ、19世紀の探検家の足跡ばかりでは、知恵がないと思う。でも現実に、ウジジにもジンジャにも同じような記念碑があって、それを目指した観光客がやってきている。

 さて、ブルンジにある「ナイル川の源」である。「ブルンジには観光名所はほとんどないので、日本から来たお客さんを連れてもう3回も行きましたよ」というTさんにお願いして、連れて行ってもらう。

 「ナイル川の源」というと、ウガンダのヴィクトリア湖畔の町ジンジャにあるそれが有名である。(「ダルエスサラーム通信」第46回参照)。「ナイルの源」探しは19世紀の「探検の時代」の遺物のようで、あまり興味がなかったのだが、ヴィクトリア湖をナイル川の源と発表したスピークと、それを否定したバートンとの論争と、スピークの疑惑の死。それに絡むリヴィングストンやスタンレーなどの人物像は、英雄譚としてではなく、当時のイギリスを中心とした欧米世界のアフリカ大陸に対する関わり方、目線のありようを示している。そして、それ系譜が『ダーウィンの悪夢』にまで連なっているように思えるのである。

 さて、ブルンジにある「ナイル川の源」である。滞在3日目の日曜日、ブジュンブラの町から東側へ急斜面を一気に登り、丘陵地帯に入る。急な山道を白いジャージ姿で登っている一団がある。ブジュンブラの町を見下ろす地点で写真を撮っていると話しかけてくる。「スポーツ」としてトレッキングをやっていて、今日は数十人が思い思いのペースで登っているという。彼ら以外にも、スポーツとしてジョギングをやっている人たちにも多く出会った。ダルエスサラームでスポーツをしているのは、サッカー選手(およびその志望者)くらいしか見ない。長距離ランナーはアルーシャ周辺の高原地帯だし、暑いダルエスサラームで走っているのは、外国人(特に白人)のジョガーとセキュリティ会社に新採用になった訓練生くらいである。お金にならないスポーツを愛好する人たちが多いのは、涼しい気候のためか、生活に余裕があるのか?(2008年の世銀の統計によれば、一人当たり所得(GNI)では、ブルンジは$140で世界165カ国中、なんと最下位!)

 丘陵地帯を登りきり、標高1,500m~2,200mの間を、カーブ、上り下りを繰り返しながら、130kmほど走る。山の斜面も目いっぱい拓かれて、段々畑になっている。ルワンダでも同じ風景を見たのを思い出す。崖のほんの猫の額のような狭い土地にも、トウモロコシなどが植わっている。この道沿いには、コーヒーの樹も見かけたが、多かったのは茶畑。高度はさほど高くなくても、降水量が十分なのだろうか。

📷 ブルンジの斜面を目いっぱい耕した畑  緑は豊かだか、行く先々で人が溢れている。日曜日でカトリック教会に行く人たち、帰る人たちを多く見かける。女性は鮮やかなオレンジ色のスカーフを被っていたり、正装のドレスを着ている人たちが行き交う。優雅なものだ。しかし、道中、軍が空き地にテントを張っている場所があった。帰り道に再度通ると、どうも結婚披露宴だったのか、晴れ着をつけた男女が集まっていた。背の高い目つきの鋭い人たちが多いように感じられた。

 とにかく人が多いというのが実感である。車で走っていて、どこか人気のない場所で止まって立ちションというのがなかなかできない。ルワンダでもそうだったが、人口稠密で、殺されてもリバウンドしてしまうのだろうかと、不遜な考えが頭をかすめる。子どもたちは労働力になっている。

 幹線道路からそれて、「ナイルの源」へ向かう脇道に入る。脇道といっても、周りの集落が少なくなるだけで、立派な舗装道路、新道である。観光用道路なのだろう。終点にはかなり広い駐車場があったが、停まっている車はなかった。(私たちが帰るころに1台やってきた)

 すぐに観光案内人が出てくる。まず丘の上に登る。小雨が降ってて滑りやすい。丘の上にはピラミッド形の記念碑があり、ドイツ語で書かれている(旧ドイツ領東アフリカの一部だったのだ)。コンゴ川とナイル川の分水嶺になっているという。はっきりとはわからない。

 駐車場まで降りて、さらに下った所に、「ナイルの源」があった。林間を下って、せせらぎの音が聞こえ出して、期待して着いて、見て、呆然とした。コンクリで固められた所に、細い水道管があって、そこから水が流れ出している。これが源流だという。Tさんが最初訪れた時は、自然のせせらぎで、その時は乾季だったから、本当にちょろちょろとしか流れていなかったという。雨季だから、水の勢いがいいのはいいとして、これでは感動するより、がっくりしてしまう。記念撮影をしようという気にならない。誰がデザインをしたんだろうか?もう少し何とかならなかったんだろうかと思う。しっかり入場料を一人10,000BFも取るのに。(US$1=BF1,330)

 同じように「ナイルの源」と称するものがルワンダにもあるらしい。1898年に、ドイツ人リヒャルト・カントが「発見」し、それをドイツ人の神父さんが1961年により長い支流を見つけ、1969年に早大探検隊がさらに長い支流の源を発見し、2006年にはニュージーランド隊がさらに「発見」したが、それが早大隊の場所とどれだけ違うのか、疑問にもたれている。数km程度の違いはどうでもいいように思えるが、ルワンダにあるか、ブルンジにあるかでは、観光資源としての価値で揉めるだろう。

 ヴィクトリア湖に流れ込むカゲラ川の、ルワンダとブルンジのそれぞれの源まで白地図を作ってみるが、素人にはほとんど区別できないほど近接した距離感である。まぁ、私はどうでもいいけど、19世紀、「月の山に発するナイルの源流」発見の名誉を競った探検家たちはどう思うだろうか。

📷 ナイル川の源  ブジュンブラの町に戻ると、湖畔ではAZAMのアイスクリーム売りの自転車が数台停まっていた。タンザニアから冷凍車で運ばれるという。ちなみに値段は、ダルエスサラームでの販売価格の約1.5倍強だった。AZAMはほかに小麦粉なども持ち込んでいるという。

 ブルンジは、その歴史、民族構成、近年の政治問題などを含めて、ルワンダと双生児のようである。それなのに、1994年のルワンダの大虐殺以降、ルワンダに脚光が浴びせられて、ブルンジに関する情報はあまり入らない。「平和構築」という最近の学問も、ルワンダ、コンゴを対象に行われているが、ブルンジに関しての言及は、寡聞にしてあまり聞かない。ブルンジは今後平和を維持していけるのだろうか?あるいはまた熾烈な民族対立の武力闘争の中に放り込まれるのだろうか?

 政治学、特に平和構築という最近の学問は、結果分析による後出しじゃんけんのようなものじゃないかという偏見が私にはある。具体的にいうと、ルワンダの大虐殺を分析することが、果たして今後のブルンジの平和に役立つのだろうか?カガメの強権的な手法を是とするのか、批判するのか?批判するとしたら、どういう改革がありうるのだろうか?

 昨年の総選挙をボイコットした勢力が、コンゴ側にもタンザニア側にも残存している。9月にコンゴ国境に近い町で銃撃事件を起こしたのは、その勢力だ。タンザニア側に38,000人ほどのブルンジ難民が残っていて、UNHCRなどの帰還事業は完了していない。やはり今年ブルンジの国営バスが、タンザニア国境に近い町で襲撃され、燃やされたという。バスの乗客たちは無事で、金品も略奪されなかったというから、反政府勢力が「まだ俺たちもいるんだぞ」という示威行為だったのだろう。難民キャンプの人たちが「安全が保障されないから」という理由で帰還を拒んでいるのは、実はそのキャンプの中にいる反政府武装勢力の安全が保障されないからだろう。今までブルンジ難民のうち、162,000人がタンザニア国籍を取得し、帰国しないことを選んだという。人口が稠密で、国土の面積が狭い母国よりも広いタンザニアに将来を賭けたということなのだろうが、タンザニアの平和を選んだのかもしれないと思う。

☆参照文献☆ ・藤野幸雄『探検家リチャード・バートン』(1986年、新潮選書) ・Richard Francis Burton"The Lake Regions of Central Equatorial Africa"(Journal of the Royal Geographical Society,1859;First electronic edition,2007) ・小川渉『2006年の”新発見”は本当か?~ナイル水源再考』(2009年1月、JanJan News)

追加情報もあります。

隣国事情「ブルンジ」

(2012年2月1日)

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