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Habari za Dar es Salaam No.122   "Explorers" ― 探検家たち ―

根本 利通(ねもととしみち)

 アフリカの歴史の勉強を始めたころ、ほとんど興味がなかったのは、19世紀のヨーロッパ人探検家たちの話である。いわゆるリヴィングストン、スタンリー、バートンたちの伝記である。彼らは探検家であれ、キリスト教の宣教師であれ、その後のヨーロッパ列強による植民地支配の露払いの役割を果たしたのだからという理由からである。

📷  現在でも、その基本認識は変わっていないが、ヨーロッパ列強、特に英仏独が、いかにアフリカ大陸の内陸部に浸透し、収奪の準備をしていったか、そしてそれが現在の新植民地主義、あるいは中国などによる地下資源や食糧生産確保のための進出とどう違うのか、少し比較してみようという気持ちになった。

 東アフリカに関していえば、「ナイルの源流」探しと「行方不明になったリヴィングストン」探しが挙げられる。そして、それらの探検家たちが通った道は、いわゆるキャラバン・ルート=象牙と奴隷の運ばれた道だ。

 最も高名であるリヴィングストンはどちらかというと南部アフリカ(現在のボツワナ、マラウィ、ザンビアなど)の探検で名を成した人である。彼にとって最後の3回目の探検は、帰らざる旅になったもので、遅ればせながら「ナイルの源流」探しに参加したのだ。ザンジバルからキャラバン・ルートをたどらず、現在のタンザニア南部のミキンダニの港から、ルヴマ川を伝ってマラウィ経由でタンガニーカ湖の西岸を目指した。現在の地図から見れば、大きく迂回したルートで、彼らしい意固地さが表れているのかもしれない。

 従って、バートン、スピーク組がたどったルート(1857~59年)を、バートンの記録を基に追ってみたい。その後のスピーク、グラント組のルート(1860~63年)、行方不明になったリヴィングストンを探しにスタンリーが採ったルート(1871~72年)も、ほぼ同じルートをたどっている。

 バートンとスピークは、1856年の12月にボンベイからザンジバルに着いた。1月には本土側に渡ったのだが、モンバサ、パンガニなどを回り、準備に時間を費やしているうちに大雨季が始まり、結局出発は6月まで遅れた。6月14日ザンジバルを出航し、対岸のバガモヨの南カオレに上陸する。

📷  バートンは博物学者であり、またロンドン人類学会の創立者でもあるから、その興味は多様で、観察眼は鋭い。植生や動物、また住民の住居、衣装、習慣や伝聞などを事細かに書き記す。海岸沿いの緑濃い植生の中に点在する集落、混血を含むスワヒリ人やザラモ人農耕民のものだが、そこには稲、タバコ、トウモロコシ、ゴマ、落花生、キャッサバ、サツマイモ、豆類が植えられている。またパイナップル、ココナッツ、マンゴー、パパイヤ、ジャックフルーツ、プランテンバナナ、ライムなども言及されている。ヤギ、羊、鶏ももちろん歩いていて、現在の海岸部の農村の風景と変わらない。

 カオレからはルヴ川沿いに南西に入り、ズンゴメロ(Zungomero)を目指した。現在のようにまっすぐ西へ向かう道をとらずに、迂回している。バートンが残した緯度経度の数字は、実際の数字とずれがあると思われるが、ウルグル山地の南側、現在のセルー動物保護区の北西端であるキサキの辺りだと思われる。ザラモ人の西隣の地域の弱小民族(Khutu)が奴隷狩りの被害を受けている様を記している。カオレを6月26日に出発して、このズンゴメロ到着は7月25日となっている。ちょうど1ヶ月の行程だ。距離的には300kmくらいだろう。

 ズンゴメロからは、ウサガラ山地を越えて、ゴゴ平原を目指すことになる。ミオンボ林、サバンナ(現在のミクミ国立公園)を抜け、高山にかかる。最高の標高1,730mほどの地点を越える。バートンはインド滞在が長かったが、そのインドの高原避暑地帯と比較している。ズンゴメロを出発したのが8月7日、ゴゴ平原側のウゴギ(Ugogi)に到着したのが、9月18日となっている。総日数43日間、推定踏破距離は280kmではないか。ただ高低差(上り下り)があるから、実際に歩いたのはもっと長いだろう。

 バートンはウジジまでの道のりを5区間に分けているが、その第3区間はウゴゴからウニャムウェジの手前になる。現在の地名で言うと、ドドマからタボラの手前までになる。9月22日にウゴギを出発し、10月28日にトゥーラ(Tura)というニャムウェジとの境に到達している。所要日数37日間、踏破距離は350kmくらいと思われる。標高1,000mちょっとの平原地帯を行くのだが、乾季は水が乏しい地域である。

 この地域の住民は主としてゴゴ人で、小さな首長国をいくつも作っているのだが、その地域(村)を通過する度に、首長に対する貢納が課せられる。貢納品は、布(アラブのチェックだとか、シュカ、カニキなど)、ビーズ、鉄製品(鍬、鋤など)、家畜などが挙げられている。「ゴゴ人は交易に従事することが少ないから、人口の居住率が高く、戦闘員が多い」とバートンは記している。貢納品以外にも、食料、水を補給するための交易を行うから、キャラバンが携帯する品物は莫大な物になる。通過する地域の人びとと敵対すれば、当然、争いが起こり、略奪の対象になる。

📷 バートンとスピークが通った道、1857~9年 第4区間は、タボラの手前から、タボラの町を通り過ぎて、現在のウヴィンザに至る区間である。主にキャラバン貿易を担ったニャムウェジ人の居住地域である。バートンによれば、「月の土地」という別名があるそうな、本当かどうか。ただ、ニャムウェジ(Nyamwezi)という呼称の中に、月(mwezi)が含まれているというのは不覚にして気がつかなかった。ゴゴの地域と違って、豊かで農業に適した土地だ。

 この区間の焦点は、現在のタボラの町のある、ウニャムウェジ地方の中心であるウニャニェンベ(Unyanyembe)とその中にある内陸最大のアラブ人の居留地であったカゼ(Kazeh)であろう。トゥーラを11月1日に発って、カゼに到着したのが11月7日であるから、所要1週間。踏破距離は140kmくらいでであろう。カゼには約1ヶ月滞留している。

 ニャムウェジ人は中部タンザニア最大の民族で北のスクマや南東のキンブとも近縁の関係にある。北のヴィクトリア湖からさらに北の現在のブコバ、ウガンダから、西のタンガニーカ湖畔のウジジから、あるいは南西のルクワ湖地方からタンガニーカ湖を迂回した現在のコンゴの東部(マニエマ)地方からのキャラバンが集結し、東のバガモヨからザンジバルへ向かっていく地点として栄えていた。統一した王が不在で、この時期にはフンディキラという首長が治めていた。タンガニーカ独立闘争で活躍し、独立後大臣を務めたチーフ・フンディキラはその孫に当たる。

 アラブ人がこのキャラバン・ルートを開いたのは1825年ころらしいが、このカゼの居留地は比較的新しく1852年からと言われる。アラブ人の居住数は多くなく、男だけで平均25人、キャラバンで多くが出ている時は3~4人しかいないとバートンは記す。アラブ人は、バラザをもった家に住み、ピラウなどを食べ、タバコを噛み、コーヒーをすする暮らしをしていたらしい。

 カゼを出発したのが12月20日、第4区間の終点であるマラガラシ川畔のウニャングルウェに達したのは、年も明けて1958年の2月2日である。所要日数45日間、踏破距離は推定380kmだから、かなり日数がかかっている。ただ、途中でゴンベ川の辺りで大きく北へ迂回したこと、またムセネ(Msene)というアラブ人の小さな居留地で10日間ほど、小休止・補給をしたことが影響している。

📷  第5区間はウヴィンザからタンガニーカ湖畔のウジジの町に至るまでである。ニャムウェジ人の領域を抜け、ヴィンザ人、ジジ人の領域に入った。2月3日にウニャングルウェを発ち、ウジジには2月14日に着いているから、所要12日、踏破距離180kmほどであろう。

 標高差400mくらいをゆっくり下っていく。マラガラシ川とその支流の小さな流れを何回か渡る。川沿いの土地は豊かなようだ。雨季は9月~5月の8ヶ月で、降水量も比較的多いようだ。途中いくつかの村を通過し、スルタンの称号を名乗る支配者に貢物を捧げながら通過する。

 ウングウェという村から、ウジジの手前のウカランガ(落花生の土地!)に下る道で、タンガニーカ湖が姿を現す様をバートンは感動的に記す。  「タンガニーカ湖が強い熱帯の日差しのなかで午睡している姿を初めて現した時、これ以上美しいものはないという思いがした。前景には、切り立った崖を、曲がりくねった険しい細い小道が下っていく…きらめく黄色い砂のリボンを優雅につけたエメラルドグリーンの平らな狭い棚のような湖水が見える。スゲやイグサを境にして、透明できれいなさざなみが立っている。さらに前方を見はるかすと、その明るく柔らかい青の広がりの向こう、30から35マイルの幅で、東風に煽られ、雪のような泡の三角波がまかれている。そのさらに向こうには高くごつごつした紫色の壁が、真珠のような霧にそばかすのように、あるいは帽子を被ったように隠されて、真っ青な空に向かって鉛筆のように鋭く立っていた」

 ザンジバルから海を渡り、延々と旅してきたキャラバンの終着駅が見えた喜びだろう。バートンたちが東海岸のカオレを出発したのは、1857年6月26日で、ウジジ到着が1858年2月14日だから、234日目の到着ということになる。実際に踏破した距離は、1530kmほどと計算している。実際には休養・補給に費やした日数があり、バートンの日記を見ると178日が行進の日数である。1日平均8.6kmと遅い。しかし、バートンは行進の日数は100日、420時間とし、時速3.6kmとしている。

 この後、ウジジの町の様子の記述に入る。ウジジにアラブ人が到達したのは、1830年ころという。少しずつ発展してきて、バートンが入った時は、バザールと呼ばれる市場で多くのものが取引されていたという。湿潤な気候に恵まれ、豊かな農耕地帯だという。コメも良質のものがとれ、モロコシ、マニオク、ナス、サツマイモ、ヤム、キュウリ、バナナ(Mikono wa Tembo)、落花生、インゲンマメ、各種の豆類、マウェッセ(アブラヤシ油)、新鮮な魚などの食料、サトウキビ、タバコ、ワタなどの商品作物も取引されている。

 アラブ人のキャラバンにとっての最大の交易品は象牙と奴隷である。それらは市場で交易されているが、ウジジ市場での値段が近年値上がりしているため、キャラバンは湖を対岸に渡り始めているという。つまりコンゴへキャラバンルートは伸び出していたのだ。バートンはこのザンジバルまでの奴隷キャラバンの利益率を500%と推定している。

 バートン、スピークたちの目的は「ナイル川の水源」の発見である。彼らは湖にボートで乗り出し、二手に分かれ、タンガニーカ湖から流れ出る川を探した。対岸の南のコンゴ側(現在のカレミエの近く)に渡ったり、湖岸を北上して、現在のブルンジ領、そこから湖を渡って現在のコンゴのウヴィラまで行っている。しかし、この探検では、タンガニーカ湖から流れ出る河口は発見できなかった。5月6日彼らはウジジを出発し、タボラに向かった。そして、その後バートンの病気療養中に、スピークが北上してヴィクトリア湖に達し、「ナイルの水源を発見」したことを主張するようになり、二人の間に対立が生じる。しかし、それは本稿とは関係がない。

 取りあえず、バートンがたどった道筋を追ってみた。バートンの旅行記には、人類学者らしい、その土地の人びとの暮らし、動植物の観察が詳しく述べられている。今回はそこまで読み込めなかったが、19世紀半ばのイギリスの人類学者が、アフリカの人びとをどう見ていたかというのは、重要な課題・記録になるだろう。

📷    探検家の中で植民地支配に直結したのはスタンリーだろう。リヴィングストン(1813年生まれ)はもちろん、バートン(1821年生まれ)、スピーク(1827年生まれ)に比べて遅い1841年生まれという年代の違いが関係あるだろう。さらに、ほかの3人と違い、イギリス(ウェールズ)生まれであるにもかかわらず、18歳でアメリカに渡り、そこの商人の養子となり、アメリカ国籍を取った経歴に影響があるのかもしれない(最終的にイギリス国籍に復帰した)。

 そしてアメリカの中ではまだ奴隷制の残っていた南部で働き、南北戦争にも従軍したことが、スタンリーの人種観に影響を与えたのだろう。リヴィングストンの反奴隷貿易の立場と、スタンリーの人種主義的な行動には、距離感を感じる。スタンリーはアフリカに対する帝国主義の植民地支配、特に大詐欺師レオポルド2世による私的植民地コンゴ自由国の成立に大きく貢献することになる。リヴィングストンが英雄とされた時代から、明らかに変化があるのだ。

 スタンリー以外のほかの3人の出身を見ると、リヴィングストンはスコットランドの牧師の息子で、子どもの時から工場で働かなくてはならなかった。誕生した場所を記念博物館にしようとして、スラム街のただ中なのでためらったといわれるが、間違いなく労働者階級の出身である。バートンは陸軍大佐(お金で将校の地位を買った)の息子、母方の祖父は地主階級。スピークが一番裕福な階級の出身で、地主階級の子どもだった。それらと比べて孤児院育ちのスタンリーの幼少期はかなり違う。その当時のイギリスの階級社会がどのようなものであったか、残念ながらなかなか実感とししてわからないのだが、スタンリーはかなり違うんだろうなと思う。

 ヴィクトリア朝時代(1837~1901年)の大英帝国を彩る探検家たちの強烈な意思、自負には感嘆してしまう。特にバートンの異才には、単なる「植民地支配の尖兵」では片付けられないものを感じる。しかし、一方で、インドでセポイの反乱を鎮圧し、中国でアヘン戦争、アロー号戦争を仕掛け、スエズ運河を開通させていった大英帝国の時代という背景を感じざるを得ない。そしてそれを追い上げる準備を整えつつあった南北戦争後のアメリカを、スタンリーは体現していたのだろう。

☆参照文献☆ ・藤野幸雄『探検家リチャード・バートン』(新潮選書、1986年) ・藤田緑『リヴィングストンの見る東アフリカのアラブ商人』(東北大学国際文化研究科論集第七号、1998年) ・Richard Francis Burton"The Lake Regions of Central Equatorial Africa"(Journal of the Royal Geographical Society,1859;First electronic edition,2007) ・Martin Dugard"Into Africa-The Dramatic Retelling of the Stanley-Livingstone Story"(Bantam Books,2003) ・Clare Pettitt"Dr.Livingstone,I Presume?-Missionaries,Jounalists,Explorers and Empire"(Profile Books,2007) ・Henri Medard & Shane Doyle Ed."Slavery in the Great Lake Region of East Africa"(James Currey,2007)

☆今月は「読書ノート」第18回」もあります。スタンリーのその後の軌跡にも少し触れます。

(2012年6月1日)

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