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Habari za Dar es Salaam No.124   "Miji wa Bara" ― 内陸スワヒリ都市 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 スワヒリというとその語源からして海岸のことであり、スワヒリ海岸というと南部ソマリアから、ケニア、タンザニアを経て、北部モザンビークにかけた東アフリカ海岸を指す。従って、スワヒリ社会研究というと、北からラム、マリンディ、モンバサ、ザンジバル、ダルエスサラーム、キルワなどの諸都市に住む人びとの研究が主になっている(ただし、キルワは現在は都市とはいえない)。

 わたし自身の関心も、キルワ(キシワニ)から始まり、ザンジバル、バガモヨ、ダルエスサラームと連なり、そこから展開すると、オマーン(マスカト、サラーラ)に飛んでいた。それは、スワヒリ文化の精華は東から、つまりアラブ・イスラーム世界からやってきていて、それが文明化(Ustaarabu)の流れだと自然に思い込んでいたからだろう。その起源をたどることには興味があっても、その流れの行き先にはあまり関心が向かなかったように思う。

📷 ウジジの旧家Rさん邸と結婚式  最初のスワヒリ海岸の旅を終えて日本へ戻った1976年、京都で和崎洋一さんにお会いすることが出来た。和崎さんはそのころスワヒリ語の辞書を編纂されていて、宮本正興さんの主宰されていた衣笠ロンドに時々顔を出しておられた。マンゴーラ村研究のことはその時に知った。内陸スワヒリの存在を知ったのだ。さらに、日野舜也さんのウジジの研究のことは、1980年代半ばまで知らなかったから、のんきなものだ。日野さんが住み込んで調査されているウジジのお宅に伺ったのは、1990年末だったと思う。

 日野さんご夫妻が居寓していたのは、キゴマからウジジに向かった幹線道路のどんつきの手前の家で、マニエマ人のRさんという人の家だった。1960年代半ば、若き日野青年が居寓したのと同じ家だそうだが、当主は代替わりしていた。その家は裏庭が広く、日野さんの論文によれば、ウジジの上流階級スワヒリを代表する家の一つらしい。当主のRさんも決まった仕事はないようで、日がな悠然としていたが、果たして収入はどうしていたのだろうかと不思議だった。そのRさんの家の先のどんつきを右に折れ、また左折するとマンゴーの並木道が続いていた。これが象牙を運んだキャラバンルートの出発地点だと言われた。

 先々月、あまり興味のなかった19世紀の探険家の話「ダルエスサラーム通信」第122回」を調べてみたのは、実はタボラ~ウジジという内陸スワヒリ都市をつなぐ道を歩いてみたいと思い立ったからで、その逆ではない。タンザニアに街道がある程度の過去から、つまりキャラバンルートのころから連綿と存続し、人間・物資の往来を支えていたのだろうかという興味からである。

 今回は、ダルエスサラームから飛行機でムワンザ経由でキゴマに飛び、ほかの人を送ってキゴマまで来ていた車に迎えてもらい、キゴマ・ウジジを見た後、タボラ経由ダルエスサラームに戻るというやや変則的な行程になった。本当は列車で行きたかったが、タンザニア鉄道(TRL)はこの旅の計画段階では運休中で、直前(5月22日)に再開されたものの、週2便3等客車のみの試験運転のような感じで、しばし様子見である。

 ムワンザ経由でキゴマ空港に近づき、上空からキゴマ=ウジジの町並みを眺めた時、きらきらと輝く真新しいトタン屋根の家が空港周辺の地区に多く建てられているのに驚いた。キゴマは空路や鉄道が時々途絶えてしまう、国境の町といってもほかの都市(アルーシャ、ムワンザ、タンガ、ムベヤなど)と比べると、活気が足りないような感じがする。国境の町としてはムトワラものんびりしているが。国境らしい国際色としてはせいぜいコンゴ、ブルンジの難民受け入れのための国連・NGO関係者が目立つだけで、それも最近は減少気味である。また2010年の総選挙で野党が多数派を占めた唯一の州(ザンジバルを除く)であるから、何となく政府の開発予算も落ちてこない、見捨てられている町だという思い込みがあった。キゴマは3年ぶりだった。

📷 ウジジのマンゴー街道 それがどっこい。キゴマ空港には入管の役人がいて(28年間で初めて)、外国人のパスポート検査をしていた。空港から町へ向かう途中の道路も、以前は大きな穴が開いていて雨季には大きく迂回しないと通れない地点がいくつかあったが、現在は舗装され、道路脇には新築の家も多かった。キゴマとウジジを結ぶ道路もきれいに修復され、快適なドライブができる。昔のレイルウェイ・ホテル、現在の名前はタンガニーカ湖ホテルに投宿した。ここは11年ぶりだが、きれいに明るくなっているのにびっくりした。

 ホテルを出て、キゴマの町の昔からあるレストランAllysで昼食。変わらぬ素早さ、安さ、美味しさに安心して、ウジジの町に向かう。まず、例のリヴィングストン博物館を目指す。幹線道路から博物館に曲がる角には小さな看板が出ていたが、それは携帯電話会社の宣伝のおまけのようだった。曲がった道は以前は土の道だったが、石畳を敷こうとしていて、博物館の途中まで完成していた。

 この博物館は1871年にスタンリーが行方不明になっていたリヴィングストンを「発見した」場所にあるというのが、ほとんど唯一の売りである。会見した場所にあったとされるマンゴーの樹はすでになく、モニュメントがある。以前はその横の小さな建物が博物館になっていて、年配のガイドさんが説明してくれていた。今回は新しい建物がモニュメントの下の広い敷地に建っていて、若い女性のガイドに代わっていた。入場料一人なんとTsh20,000!ほとんど見るべきものはなく、スタンリーとリヴィングストンの会見のお人形が飾ってあるほかは、最近描かれた似顔絵のようなものが多く、史料的な価値に乏しく詐欺のようなものだと思った(在留許可をもっている外国人の入場料はTsh1,000でよかったのだが、ガイドに言われた通り払い、確認を怠った自分たちがいけない)。ウジジの中学生5人がサークル活動らしく見学に来ていて、ガイドにいろいろ質問していた。

 博物館を出て旧知のRさんの家を目指す。日野さんが寓居としていた家だ。電話で前触れしてあったので、旧家のバラザに座って待っていたRさんはすぐ私たちを見つけてくれる。食事を用意してくれていて、「たった今、食事をしてきたばかりだから」と固辞しても許されず、結局一行皆が少しずつご馳走になることにする。キゴマ産の米は美味しい。Rさんは長いこと自分で食事を作ってこられたから、おかずも美味しい。スワヒリの習慣を忘れつつある自分に気がつく。Rさんの家は1940年前後の建築らしい。しっかりした建物で、天井も高く涼しい。裏庭も広く、鳥がやってくる果樹が植えてある。風格のある旧家である。

 Rさんの案内で、古いウジジの町、建物、街道をを歩く。どんつきから右折し、まだ壊されていない古い建物(補修はされている)や、ドイツが建てた病院で現在は小学校として使われている建物。その隣にある奴隷を入れていた倉庫を見て歩く。コンゴからタンガニーカ湖を渡って上陸した奴隷たちが最初の夜を過ごした倉庫。反抗的な奴隷を処刑した場所。バガモヨへ向かうキャラバンの道に連なるマンゴーの並木道…。奴隷貿易をクローズアップして、その非人道性を強く非難するのは19世紀の英国の帝国主義の戦略だと思うから、奴隷貿易を強調するつもりはない。しかし、19世紀には象牙と並んで奴隷がこのキャラバンルートの最有力商品であったことは間違いないから、目をふさぐわけにはいかない。19世紀の末の対岸のコンゴ東部では、コンラッドの『闇の奥』のクルツが象牙狩りに狂奔していたはずだ「読書ノート」第18回」参照

 Rさんに従って、マンゴーの並木道を歩く。ウジジの市場の脇を通って、内陸部に向かう。Rさんが道端の黄色い小さい花を指して、「子どもの時はこの花が咲くと、雨季が終わったことを知ったのさ」と言う。昔ながらの民家とあまり区別のつかないモスクがあって、今も使われているという。マンゴー並木がまばらになるとアブラヤシのプランテーションが広がり、人力で油(マウェッセ)を絞っている人たちと出くわす。ブルンジでも似たような光景が見られるのだろう。

 ウジジがオールドタウンだとすれば、キゴマの町はドイツが建設した中央鉄道の終着駅、タンガニーカ湖の港町として発展したニュータウンだ。マハレのチンパンジー研究に向かう人たちとも同行して何度か訪れたことがある。何となく停滞している感じが強かったが、今回Rさんの案内で、ウジジからキゴマ、そして小型船の港であるキビリジ(Kibirizi)まで走ってみると、新道が造られ、新しい家が多く建ち、外部の人たち(日野さんのいうワゲニ)が住んでいて、パラボナ・アンテナが立っている家もそこそこあった。キビリジの港は、現在は中断しているLiemba号による定期便の代わりに、ブルンジ、コンゴに向かう小型船が頻繁に発着しているようで、物資も多く並べられ活気があった。

📷 西部キャラバンルート  Rさんと別れて、ウヴィンザ(Uvinza)を目指す。以前は北のカスル(Kasulu)経由で大回りして行ったはず(上記の地図参照)だが、中国の会社によって新しい直行の道路が拓かれていた。わずか2時間で着いてしまった。途中、マラガラシ川を渡って右に行くと、チンパンジーがいる森があるよとRさんに言われていたのだが、気がつかないうちに通過していた。

 ウヴィンザの歴史は古く、1857年に通過したバートンの記録にも残っている。さらにいうとウヴィンザは古くから製塩で知られた町でもある。町の手前と過ぎた所の2ヶ所に塩田と製塩工場がある(1ヶ所は休止中)。この町に泊まったのだが、県庁所在地であるにもかかわらず電気がない。泊まった宿は発電機を夜2時間ほど回してくれ、テレビを見ている住民も多かったが。翌朝町を散歩してみると、ちゃんと電線が走っている。訊くと、この電線は製塩工場から引っ張っているもので、町の住民が電気代の負担を払わないから、製塩工場からストップされてるという。製塩工場の城下町として発達した町なのか。袋詰めした塩がお土産として売られていた。

 ウガラの疎林のチンパンジー(チンパンジーとしては東端らしい)の調査隊のキャンプがウヴィンザから近いので冷やかしに行く。途中から森林保護区のはずだが、伐採の跡や、製材して運び出すのを待っている材木を時々見かける。それどころか、自転車の荷台に材木を積んで運んでいる男2人とも遭遇した。途中、マラガラシ川には大きな橋があり、そこが検問所になっているはずだが、夜には誰もいないから橋は簡単に通過できるという。キャンプ地はツェツェバエと小型のミツバチが多く、たかられたのは参ったがいい場所だった。

 翌朝はウヴィンザに到着するはずのTRLの列車の写真を撮ろうとウヴィンザ駅に行ったが、列車は途中のカリウア(Kaliua)駅で機関車が故障し、タボラから代わりの機関車を送っているから数時間遅れと言われる(実は朝4時着の予定が既に4時間遅れていたのだが)。列車に頼る旅は困難だ。朝、ホテルの周辺には、ウヴィンザ駅で降りる客を待っているタクシーや、カスル行きのミニバスが何台も待っていたのだが。

 列車の写真を諦めて、タボラ方面に向かう。途中サガラ湖に寄って水鳥撮影をするつもりだったし、その先の道路の状況がわからないので、その日の目的地は決まっていない。カリウアから列車を諦めてやってきたと思われる客を乗せたタクシーとすれ違う。乗用車でも走れるそこそこいい道だ。両脇にはミオンボ林が続く。きれいに澄んだマラガラシ川を渡る。立派な橋が建設中である。韓国人がやっている。この川の上流で灌漑用のダムも造っていると聞いた。道の両側の湿地帯には水田が広がっている。もし道路がよくなったら、コメの生産は伸びるだろうと思わせる豊かな光景である。

 グルカ(Nguruka)という小さい村で右折して線路を渡ってサガラ湖を目指す。途中少し悪い箇所もあったが、まずまずで道は続く。途中マンゴーの並木が横切るのに出くわす。キャラバンルートと交錯しているのかとふと思う。サガラ湖畔には漁師の小さな小屋が立っていた。小舟(ムトゥンギ)で帰ってきた漁師たちが魚を揚げているのを見ると、なまずかなと思っていたら違う大きな魚が混じっていた。水鳥もいるが、葦が茂っていて、湖の全体の姿は見通せない。

 サガラ湖畔を回る道は通れないと言われて、また来た道を戻り、カリウアを目指す。カリウアは小さな町だったが、着いたのが13時半くらいだったので、さらに先のウランボ(Urambo)を目指す。ウランボは19世紀後半、ウニャムウェジの大首長として勢威を振るったミランボ(Mirambo)の本拠地があったところだ。1871年リヴィングストンを探しに来たスタンリーが、アラブ人とミランボとの戦争に巻き込まれ、タボラでしばし立ち往生し、その後ミランボの勢力圏を避けて大きく迂回してウジジに向かったことが記録に残っている。

 ミランボは現在、タンザニアの民族的な英雄の扱いを受けることもあるが、果たしてそうだろうか?当時、ニャムウェジ民族に統一された王国はなく、各地に首長国が存在していた。ニュング・ヤ・マウェ(Nyugu ya Mawe)やフンディキラ(Fundikira)といった首長も、ほぼ同時代に隣接地域に存在していた。「アラブ嫌い」ということで知られ、アラブ人のキャラバンを襲ったということだが、それは単に商業利権を主張しただけではなかったのか?植民地支配に対する民族的抵抗とは違うと思われる。

📷 タボラのリヴィングストン博物館  タボラの町は実は初めてだった。今までキゴマへ行く途中、空港に降りただけだった。見所は街中に残るマンゴー並木。これはキャラバンの時代よりは新しい時代のように思えるが。道の両側が警察署やその宿舎になっている関係で車から降りてゆっくり撮影ができない。古いアラブ風の建物(廃墟)も、古い城砦(ドイツ時代のもの)も軍の基地になっているとかで、車内からの見学。スワヒリ風という雰囲気を感じさせる町並みはほとんど残っていないようだ。

 タボラはニエレレ初代大統領が学んだ中学校がある。Tabora Boys Secondary Schoolで、Girlsとつながった敷地内にあり、名門校らしい歴史を感じさせるたたずまいだった。ニエレレ以外にも有名な政治家を輩出している。長年、大学進学を決める国家試験ではトップの成績を誇ってきたが、近年はダルエス周辺の私立学校に押されているらしい。 

 タボラ郊外のクワヒラ(Kwahira)地区にもリヴィングストンの名前を冠した博物館がある。リヴィングストンが1872年に6ヶ月滞在したことは事実だが、この建物はその前の1871年、リヴィングストンを探しにいく途上のスタンリーが泊まっていた建物だとされる。スタンリーはタボラのアラブの代官(リワリ)のこの建物をあてがわれていた。さらに先行する1857年にバートン、スピークがタボラに滞在したことにも触れてあるが、この建物を利用したとは記されていない。9時過ぎに博物館に着いたら、無人で閉まっている。近くの村人に聞いたら、管理人はタボラの町中に住んでいて、めったに訪問客が来ないから、10時過ぎに出勤してくるという。弱ったなと思うと、村人の中に元管理人がいて鍵を預かっていると言う。年配の元管理人に来てもらい開けてもらう。入場料一人Tsh10,000と言う、これもウジジの博物館と同じことだった。レシートはもちろん出ない。

 この博物館は、正式にはLivingston Tembe Museumという。Tembeというのはこの場合、ニャムウェジ起源(?)でアラブ風の平屋根をもった方形建物をいうらしい。内部に展示してある資料(スタンリーがリヴィングストンを「発見」したことを報じたニューヨーク・ヘラルドのコピーなど)も、ウジジのそれよりは充実していた。が、この博物館の値打ちは建物そのものにあると思われる。玄関には広いバラザがあるほかは、赤い外壁は頑丈で窓はない。小さな明かり(空気)取りの穴がいくつか開いているだけで、一見銃眼用のようだ。いわば小さな要塞なのだ。しかし、中に入って見ると、広々とした中庭があり、マンゴーの樹が植わっている。中庭に面して部屋があり、居間、寝室、台所、シャワー室、召使用の部屋などがある。天井が高く、意外と明るく、快適そうに感じる。バートンの記録にも、アラブ人の住居の快適さが記されている。

📷 タボラのフンディキラ屋敷の太鼓  リヴィングストン博物館から広い道路に出て来た角に、フンディキラ一族の墓と元の屋敷がある。フンディキラというのはニャムウェジの首長(Mtemi)の系譜で、タボラを根拠地としていた。ニエレレの中学校の同窓で、一緒にマケレレ大学に学び、TANUの創設にも関わり、1961年の独立の際の最初の内閣の法務大臣となったアブダラ・フンディキラの一族である。アブダラ自身は、57人の子どもをもったサイディ・フンディキラ首長の息子である。そのサイディの父がミランボと同時代、ドイツの植民地支配の初めの時期の、この土地の首長だった。

 ここを訪ねた時、屋敷跡の前庭を老女が掃除をしていた。案内人を尋ねたら隣の家から中年男性を呼んできてくれた。その男性の説明によれば、老女はアブダラの妹、彼自身も一族だという。アブダラ自身の墓はきれいになっていたが、それ以外の一族の墳墓は叢に覆われていた。また雨乞い師として祈祷をささげた場所も示された。ドイツの植民地時代、ニャムウエジを統率する大首長として、首長会議を主宰したといわれる大きな屋敷も、廃墟ではないが、住人がいないためか、荒れた印象を受ける。祈祷用に使われたという巨大な太鼓もいくつか屋敷内に保管されていた。もう少し費用をかけて、ニャムウェジ民族記念館のような形で維持できないだろうかと思った。このままでは観光用には使えない。

 タボラに2泊して、翌日はドドマに向かった。タボラ州内では比較的低湿地が多く、稲が作られていたり、またやや乾燥していると思われる地区にはタバコやワタが見られた。ミオンボ林の中には、養蜂箱が散見され、屋台で蜂蜜が売られている村もあった。総じてこの区間(タボラ→Tura→Itigi)は、昔ながらの道筋が残っていた。キャラバンルートとも重なっている部分があると思われる。ドドマに近づくにつれて、次第に乾燥した植生に変わっていき、緑がすでに黄色に変わり、砂埃がかなり舞い上がるようになる。

 今回のサファリは旧キャラバンルートを走るというのが目的であった。この区間は大雨季には通れない昔ながらの道路という認識が強く、なかなか行く機会を逸してきたが、今回走ってみてかなり改修工事が進んでいたのが印象に残った。その工事を担当しているのがほとんど中国の会社(一部韓国)というのも強烈な印象だった。いつまでも変わらないと思い込んでいた自分のうかつさを反省しつつ、開発志向の強さと環境の変化に戸惑いも残ったサファリだった。

☆参照文献☆ ・日野舜也『スワヒリ社会研究』(名古屋大学大学院文学研究科、2007年) ・Richard Francis Burton"The Lake Regions of Central Equatorial Africa"(Journal of the Royal Geographical Society,1859;First electronic edition,2007) ・Martin Dugard"Into Africa-The Dramatic Retelling of the Stanley-Livingstone Story"(Bantam Books、2003) ・Aylward Shorter"Nyungu-ya-Mawe"(East African Publishing House,1969) ・Heinrich Brode Ed."TIPPU TIP- The Story of his Career in Zanzibar"(The Gallery Publications,2000) ・Abdul Sheriff"Slaves,Spices & Ivory in Zanzibar"(Tanzanian Publishing House,1987)

(2012年8月1日)

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