• 白川

Habari za Dar es Salaam No.128   "Maisha ya Kijana Nyerere" ― 若き日のニエレレ ―

根本 利通(ねもととしみち)

 ニエレレ英雄伝説というのに興味がなかったから、ニエレレの若き日というのをほとんど知らない。政治家となってから、特にタンガニーカが独立し、アルーシャ宣言を出してからという政治史はそこそこ知っていたのだが、ニエレレという人格がどういう風に形成されたのかというのに興味をもって、少し調べてみようとした。

 しかし、ニエレレ自身は『自伝』を残さなかったし、個人崇拝を避けるためか、あるいは逆に神秘化するためかは知らないが、親しい人による伝記もないようだ。(政治家になる前の人生ということで、TANUの委員長になってからは党による賛美は多い)。従って、ニエレレの前半生、TANU委員長に就任するまでを、一般の書物に頼って調べるのはけっこう難しかった。数少ないエピソードは複数の本に出てくるが、それが実話なのか、誇張されているのか、あるいは創作なのかは確かめようがない。本当は故郷のブティアマ村を訪ね、遺族や知人に語ってもらったり、古文書を調べたりするのがいいのだろうが、その余裕はなかったので中途半端な記録である。

📷  まず、W.E.スミスの『タンザニアのニエレレー最初の10年間1961~1971年』というのを読んでみた。スミスはアメリカ人のジャーナリストである。『TIME』誌のナイロビ特派員として、たびたびタンザニアを訪れていたようだ。本書の出版は1972年ということだから、タンザニア経済が破綻する前のいはば幸福な実験時代が中心になっている。しかし、再版された1981年はウガンダのアミンとの戦争を経て、経済がどん底になった時代である。

 第3章にニエレレの幼少時代が描かれている。まず、ニエレレが生まれる前、植民地化のころを描く。ニエレレはザナキ民族の首長の息子として生まれたとされているが、植民地化以前にはザナキには首長はいなかったという。雨乞い師が一種のリーダー格であるが、村の運営は戦士クラスが取り仕切り、その代表である「語る人」がいた。ドイツ人がこの地域に到着して、統治上の都合からザナキ地域に8人の首長を置くことにし、各村の「語る人」が選ばれた。ニエレレの父もこの過程で首長のひとりとなった。

 ニエレレは1922年4月13日生まれとされる。大雨のなかで生まれて、Kambarageと名づけられた。ザナキ語で、「雨のなかに生きた祖先の精霊」を意味するという。ちなみにニエレレという名は父親から受け継いでいるが、その意味は「毛虫」だという。父ニエレレ・ブリト(62歳)母ムガヤ(16歳)の8人兄弟姉妹の2番目。母は夫から見ると5人目の妻で、ブリトは82歳で亡くなるまでに、22人の妻と26人の成人した子どもがいた。

 ニエレレは敬虔なカトリックで、21歳の時、父が亡くなってから洗礼名ジュリアスをもらった。父とはキリスト教の信仰に関して議論したこともあるようだ。父がクリスチャンにならなかったのは、多妻制禁止が納得できなかったのだろうと後日述懐している。また一夫多妻制について、母は労働力の観点から多妻制を支持したといわれるが、ニエレレは一夫一婦制を通した。しかし、それはニエレレが英国キリスト教志向だったということではなく、「ザナキ部族の子どもだった」と自ら語るように、呪術師のことも少年時の記憶に残っている。

 ニエレレは首長の子どもとはいえ、貧しい幼年時代を送ったとされる。雨漏りのする母の泥の小屋の思い出が伝えられている。子どものころに白人やアジア人に会ったこともなく、言葉もザナキ語しか話さなかった。隣人であるマサイとの戦いの思い出もある。また英国領時代、すでに狩猟は密猟とみなされて取り締まられていた。現在のセレンゲティ国立公園に狩猟に出かけ、帰りに迷子になった思い出もある。

 バオというゲームは海岸地方で盛んだが、ザナキでも行われていたらしい。そのバオの名人として知られた雨乞い師でもある首長に、子どもであるニエレレがゲームで勝って、「この子は賢いから学校へやろう」となったというエピソードがある。実は親戚の同じ歳の息子を学校に送るその同伴者として選ばれたらしいのだが、その息子は逃亡して学校には行かず、ニエレレのみが学校へ送られたという。

📷 今日のタボラボーイズ中学校

 第4章はニエレレの青少年時代に入る。ニエレレは1934年(12歳)で40km離れたムソマにあるMwisenge小学校に送られた。ニエレレはそこで初めてスワヒリ語を習うことになった。ここは4年制だったが、成績のよかったニエレレは1936年の試験で全国首位の成績を収め、1937年(15歳)でタボラにある公立中学校に進学する。英語を学習したのはここからだ。

 ニエレレの思い出では、タボラ中学校は「アフリカにおけるイートン校のようなもので、上級生に対する下級生の服従、スポーツマンシップ、フェアプレイなどすべてがあった」ということだ。中学校でも成績は常にトップだったらしいが、必ずしも校長の覚えがめでたかったわけではないようだ。英国系の学校では生徒にPrefectというのがいる。生徒会長ではないし、監督係というのだろうか、ニエレレはその係と対立し校長に直訴に及んだ思い出を語っている。また友人たちと首長制、婚資のことなどをよく議論していたらしい。

 1943年(19歳)でマケレレ大学に進学する。ニエレレが興味あったのは哲学的な科目、特にジョン・スチュアート・ミルの代議制政府と女性の従属に関するエッセイに多大な影響を受けたという。東アフリカ作品コンクールに参加し、1回目は1等賞を取り、2回目は女性の従属について記し、ミルの思想を「部族」社会に適用してみたという。マケレレでハムザ・ムワパチュという同級生とアンドリュー・ティバンデバゲという1年上級のタンガニーカ人学生と出会う。3人はタンガニーカ・アフリカ人福祉協会を組織し、これはアフリカ人協会(AA。1927年創立=異説あり)のマケレレ支部となる。

 マケレレ大学卒業後、タボラに戻ったが、母校の公立のタボラ中学校ではなく、カソリックのセントメリー中学校で教職に就き、生物と英語を教えた。インド人商人の独占を打破するために生協の店を組織した(数年後経営破綻したという)。ニエレレは町の人びとに英語を教えたり、友人たちと明け方まで政治論議を繰り返していたという。アフリカ協会タボラ支部の書記を勤めていた。後日ニエレレの右腕となるラシッド・カワワがタボラ中学校に入学したのもこの時代である。

 1949年、政府奨学金を得て、エジンバラ大学で修士課程を学ぶ。英国のタンガニーカ総督はニエレレの政治的資質を危険だとみなし、奨学金支給に反対したといわれる。大学院では歴史と経済を専攻した。しかし、ニエレレ自身の関心は哲学、特に政治哲学で膨大な文献を読み込んだという。この在学中にフェビアン社会主義に触れる。この時代、ニエレレにとっては静かな思索の時ではあったが、はっきりと政治的な志向を固めた時代でもあった。それは後述するエッセイに示されていた。

 1952年10月帰国し、ムソマで知り合っていた婚約者マリア・ガブリエルと翌年の1月に結婚する。マリアはウガンダで家庭科を学び、その後モシのルーテル派の学校で教えていたが、神父の勧めでダルエスで英語を学んでいたという。ニエレレが帰国した際、空港に迎えに行くことを勧めた神父に対し、「男性を追いかけるのは女性の仕事ではないでしょう」と答えたという。結婚前にブティアマ村でレンガをこねて、二人の家を作った。教育を受けたエリートが肉体労働をする姿を笑った村人に対し、「教育を受けた人間はすべて働かないといけないんだ。ハタオリドリのオスが一所懸命巣を作って、メスを迎え入れるように」と答えたという。

📷 ニエレレの小学校時代の先生 『The Citizen』2011年10月18日号  ニエレレは1953年からダルエスサラーム郊外のプグヒルにあるセントフランシス・カレッジで歴史の教員として奉職した。初任給は年300ポンドで、しばらくして450ポンドに上がった。「それは同僚のヨーロッパ人の給与の5分の3に過ぎなかったものの、英国で同じ仕事をした場合より多いし、さらに30%の生活手当まであった。こんな高い給与は植民地行政の罪悪のひとつだ」と述べている。

 しかし、1953年4月にはタンガニーカ・アフリカ人協会(TAA。AAが1948年に改名)の委員長になる。ダルエスサラーム在住のアブドゥルワヒド、アリ、アッバス・サイキ兄弟やカセラ・バントゥ、ジョン・ルピア、サイディ・テワ、ドッサ・アジズなどに支えられて若きニエレレが政治の表舞台に立つことになったのだ。翌年(1954年)7月7日に、TAAを政党TANUに改組して委員長に選出され、教員か政治家を選択することを迫られて、政治家に専念することになる。ニエレレ32歳であった。

 昨年、独立50周年記念特集を新聞が連載していた時に、ニエレレが小学校の時の先生が健在であるニュースが載っていた。「ニエレレ少年は勇敢で素直な生徒だった。私は一度も彼を叩いたことがない」ということだ。ニュースの眼目はこの先生が年金がなく生活に困窮しているということだった。122歳と書いてあるが本当だろうか?1977年に退職してとあるが、そうしたら88歳まで働いていた計算になる。ニエレレを教えたのは1934~36年だから、もっと若いのじゃないかなと思うのだが。

 タボラボーイズ中学校はタンザニア公立中学校で一二を争う名門校である。数年前までは高校卒業試験(Aレベル)成績で、常にトップを争っていた。最近は私立中学校の台頭が著しいが、それでも今年もトップ5に入っている。有名な政治家、大学教授などを輩出している。現在は広大な敷地に、ボーイズとガールズ中学校が並んで建っている。ゆったりとしたすばらしい環境のように見える。

 ニエレレの第一著作集『自由と統一』の第1編は「東アフリカにおける人種問題」というエッセイである。ニエレレがエジンバラ大学に留学していた時代の未刊行(提出先に拒否されたという)原稿である。その中で、ニエレレはその当時の東アフリカの状況をこう述べている。「ヨーロッパ人植民者はその特権を偽善によって守っている。インド人商人は自分たちの生活を露骨な不正直で作っている。アフリカ人は自分たちの仕事を果たすのを嫌い、高い教育を受けた人間ですら、ヨーロッパ人を好きなふりをしながら、その実嫉妬と憎悪に満ちている」と。

 「アフリカ人の侮辱に耐える能力は限界がある。ヨーロッパ人が神聖な権利を振りかざすなら、人びとが侮辱よりも死を選ぶ日が来るかもしれない。私はそういった日が来ないことを願っているが」  「思慮あるヨーロッパ人、インド人は自分たちのことをタンガニーカの普通の市民とみなすだろう。誰かに神聖な権利があるわけではなく皆タンガニーカ人であり、東アフリカ人なのだ。人種紛争などは愚かなことだ」

 ニエレレがこのエッセイを記したエジンバラ留学時代、ブリティッシュ・カウンシルの住居に住み、夕方や週末は親しい英国人の友人の家を訪問していた。その家で新聞のクロスワード・パズルを解き、トランプをしたり、言語学の辞書を読んでいたという。英国人の文化を楽しんでいたし、英国のイギリス人は東アフリカの植民者と違って働き者だったと回顧している。ニエレレが英国文化そのものを嫌っていたとは思えない。

📷 若き日のニエレレ(年代不詳)

   2012年10月14日はニエレレ没後13年だった。ニエレレデーという休日だが、今年はあいにく日曜日だった。追悼特集がいくつか出た。あいにく政府系の「Daily News」のそれは買い損ねたが、大衆紙の「Raia Mwema(良き市民)」のそれをちょっと覗いてみよう。

 まずいくつかある記事の見出しだが、トップ記事の見出しは「ニエレレは10月14日より前に死んでいた」である。同じく1面には「なぜニエレレは攻撃されたのか?」がある。それ以外の大きな記事には「ニエレレは国の指導者を名乗った強盗とは違った」「ニエレレは従順でない意思の強い若者を望んだ」「確かにニエレレは天使じゃなかったが、悪魔でもなかった!」「ニエレレは野党の指導者を信用していなかったか?」などなど。

 比較的小さい記事だが、ニエレレのマケレレ大学の同級生のハムザ・ムワパチュとの交遊の記事が、ニエレレの若い日に触れている。筆者はアンドルー・ボマニ。ムワパチュはタンガ出身で、ニエレレよりは9歳年上であった。二人はマケレレ大学で出会った。ムワパチュは医学のディプロマを専攻していた。卒業後、二人ともタボラで就職し、共にAAタボラ支部の中心メンバーとなった。ムワパチュの方がニエレレに先駆けて1947年ウェールズの大学に留学し、社会福祉を専攻する。そこで第二次世界大戦後の労働党の社会主義に接する。1949年帰国し、ダルエスサラームで仕事を得る。同じ歳にニエレレは入れ替わるようにエジンバラの留学に旅立った。

 ムワパチュは活動が低迷し、単なる社会クラブであったダルエスサラームのTAAを、政治組織化することに尽力した。当時のリーダーはアブドゥルワヒド・サイキで、その周りにはヴェダスト・キアルジ、ジョン・ルピアなどがいった。1950年にTAAの指導部を一種のクーデタのような形で乗っ取ったサイキやムワパチュは、国連の信託統治委員会に向けた運動を強化する。それを嫌った植民地当局はキアルジ委員長をモロゴロ州キンゴルウィラ刑務所病院、ムワパチュをヴィクトリア湖の島ウケレウェ島に転勤(配流?)させた。しかし、ムワパチュはウケレウェ島でも独立運動をやめず、若きポール・ボマニなどと出会っている。ムワパチュの活動力を恐れた植民地当局は、1954年7月7日に開かれたTANUの創立総会にムワパチュが出席する許可を与えなかった。ムワパチュはエジンバラで思索にふけっていた親友ニエレレにこうした動きを手紙で書き送っていた。ニエレレの登場を準備してくれたのはこういう人たちだったのだろう。

 ニエレレの時代は遠くなり、その理想も消え去りつつあるように思える。政治家たちは自己の権力闘争に明け暮れ、ザンジバルとの連合の問題、人間の平等、格差の是正といった理想は風前の灯のように見える。しかし、それだからこそ懐かしみ、現在の風潮を嘆く人も多いように感じる。

☆参照文献☆ ・William Edgett Smith "NYERERE of TANZANIA-The First Decade 1961-1971"(African Publishing Group,2011) ・川端正久『アフリカ人の覚醒―タンガニーカ民族主義の形成』(法律文化社、2002年) ・Julius K. Nyerere "Freedom and Unity"(Oxford University Press,1966) ・David G. Maillu "JULIUS NYERERE-Father of Ujamaa"(Longhorn Publishers,2005) ・「Raia Mwema」2012年10月14日特別号

(2012年12月1日)

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