• 白川

Habari za Dar es Salaam No.129   "City Transport in Dar es Salaam" ― ダルエスサラームの市内交通 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。  2013年がタンザニア、日本、世界の人たちにとって平和で豊かな年になるように、心から祈念しています。  新年にふさわしい、ちょっと嬉しいニュースをお届けします。

📷 整備中の線路を横切るウブンゴ・マジワ付近の住民 『Daily News』2012年9月3日号  2012年10月、ダルエスサラームの市内列車が走り出した。ディーゼル機関車が牽引するので市電とは言えないが、郊外列車ともいえない。ダルエスサラームから郊外へ向かうターミナルと街中とを結ぶ通勤列車だ。これまではバスが一般の交通手段だったが、渋滞が激しくなったので、解決案のひとつとして浮上してきた。

 9月に試験運転されて、10月に正式運行と決まったのだが、実際に走り出したのは10月も末の29日だった。路線は2線ある。TRL線とTAZARA線だ。TRL線はウブンゴ・マジワから街中の中央駅までの12km。TAZARA線は西(空港よりさらに遠く)の郊外のムワカンガからTAZARA駅までの20.5km。それぞれ既存の線路を利用したもので、新たに建設したものではない。

 TRL線はもともと牛乳工場の引き込み線であった。線路は敷いてあったが工場が閉鎖されたため、使われないまま放置されていた。それに手を入れて使えるようにしたのだったが、問題があった。放置されている間に、沿線の線路の脇ぎりぎりにまで家が立ち並んでしまったことだ。

 安全運行のために線路から15m以内の家屋は撤去されることになったが、住民は当然抵抗したし、賠償を要求した。政府は「不法居住者に賠償請求の権利はない」とした。住民たちは「停年になってわずかな年金で生活している老人が家を奪われて、どこで生きればいいのか?」と抗議する。

📷 Mabiboの踏切を通過するTRLの列車  TRAWU(タンザニア鉄道労働組合)も反対声明を出した。線路の修復、保線作業を鉄道会社の労働者に任せず、民間会社に委託したので安全性の不安があるというのだ。民間会社には、一部鉄道会社の退職者が雇用され、多くは街中からかき集めてきた未熟練労働者だから、保線作業はできないという主張である。これには一部の退職者の年金が払われていないことや、現役の労働者の給料の遅配という現実がある一方で、このプロジェクトの予算が民間会社に流れることに対する不満だっただろう。

 運輸安全局の認可がなかなか下りず、予定の10月1日から遅れ、運行が始まったのは10月29日だった。TRL線のウブンゴ・マジワと街中の中間の駅はマビボ、タバタなど6駅。修復費用は20億シリング(約1億円)だったという。

 新聞報道では、朝5時から11時の間、ウブンゴから街中へ運行される。15時から20時の間は逆に街中からウブンゴへの列車が走るという。1列車の乗客は1,000人とのこと。たった1,000人だとバス20台分くらいだろう。いったい何往復するのだろう?午前中は街へ、午後は郊外へなんて言っているけど、列車の運行は当然往復だろう。昼間は人間の移動が少ないからなんて言っているが、昼間でも道路は渋滞しているのに、なぜ休み時間を作るのか?だいたい運賃も発表されていないじゃないか!と、予告時点では疑問点が多かった。午前中は2往復半、午後も2往復半で、合計5往復で16,000人を運ぶという。運賃は片道Tsh400。ただし、学生、子どもはTsh100の専用車両があるようだから、保護者は助かるだろう。

 10月30日の新聞では各紙でトップ記事で、「Darの新たな経験」「夢はかなった」という感じだった。始発列車に乗るために運輸大臣は朝6時前にウブンゴ・マジワ駅に行き、切符を購入して乗車したという。そして途中下車して、TAZARA駅に急行し、そこで今度はTAZARA線の始発列車の運行開始の式典に出たようだ。しかし、2~3日後の報道ではTRL線の列車では切符が足りなくて、大勢の乗客が取り残されたという。人気なのはいいが、やれやれ早くもかと不安がよぎる。時刻表は12月現在、平日は午前は6時始発~11時まで2往復半、午後は15:40~21:40まで3往復。土曜日は午前1往復半(07:00~09:45)、午後は3往復半(12:00~19:45)となっている(日曜日はなし)。片道45分。

📷 広々とした車内

 TRL線に実際に乗りに行ってきた。12月8日の土曜日の午後。平日ではないのでそれほど混んでいないだろうという期待。確かにさほど混んでいなくて楽々座れた。しか定刻14時になっても出発しない。キゴマからの長距離列車が13時50分くらいに到着したのだ。大勢の乗客とたくさんの荷物が降ろされていた。コメ、サトウキビ、食用油、ニワトリ、衣類など。存続が危ぶまれていたTRLが健在なのは嬉しかったが、その影響で市内列車がなかなか出発しない。サービスなのか、大音響でラジオ放送を流している。

 結局出発したのは40分遅れ、ゆっくりと走り出す。全車両は7両。うち1両は学生専用と書かれている。1車両には4人がけの座席が16ボックスあり、座席数は64人。つり革もあり50ぶら下がっている。定員114人と思ったらいいのか。1列車の定員は約800人ということになるのか。ダルエス駅を出た時の車両はほぼ座席は満員。途中駅で乗ってきた人たち10数人がつり革を握っていた。  この路線に乗車すると、ふだんは見られない深いダルエスサラームを垣間見ることができるかもしれない。線路すれすれに立っている家、行き交う人びと、列車に向かって歓声を叫ぶ子どもたち。そして、あまりにも多いゴミ、汚水の貯水池。環境問題を考えることができるだろう。ポイ捨てしてすべて大地に戻っていた時代がいつ終わったのだろう?そんなに最近ではないはずなのに、ビニール袋、プラスチックボトルが散乱している。そしてそれを収集し、再生利用している人たち。

 途中駅のアナウンスはあるのだが、ラジオ放送の音響の合間なのでなかなか聴き取れない。最終のウブンゴ・マジワ駅でも(始発のダルエスサラーム駅でもそうだったが)、プラットホームは3両分くらいしかないから、そのホームの外に停まった車両からはかなりの高さをよっこらしょと降りることになる。雨が降ったらつらいだろうな。長距離列車と違って大荷物を持つ乗客は少ない。たった一駅を乗ってくる身軽な連中もいる。運行時刻が正確ならそれも計算できて便利かもしれないが、この列車は40分遅れだし、それでも駆け込んで来る人たちもいる。手軽な交通手段として定着すればいいなと思う。終点にも40分遅れで到着した。

📷 終着のウブンゴ・マジワ駅

 一方でウブンゴと街中を結ぶモロゴロ通りにバス専用レーンを建設中である。既に4車線ある道路の両脇の家屋を撤去して拡幅し、8車線にして真ん中の2車線をバス専用レーンにするのだ。その両脇の4車線を普通車両用。さらにその脇の2車線をバイク・自転車用。両端にはちゃんと歩道も4mずつ作られるという青写真である。道路の幅は38.5m、うち車道6車線の幅は22.5mとされている。

 計画では、幹線として街中のキヴコーニ・ターミナルからモロゴロ通りまで行き、そこからウブンゴ・ターミナルを経てキマラ・ターミナルを建設する。支線としてはファイア(消防署)駅からカリアコー・ターミナルへ、マゴメニ駅からモロッコ・ターミナルがあり、全長20.9kmとされている。各終点には5つのターミナル、途中には29の駅(バス停)が、そして2つのバス駐車場が建設される。幹線の施工はドイツ、その他付属の施設は中国の会社が契約を結んでいるようだ。

 工事は急ピッチで進められているが、その分、工事で通行止めの区間が多く、渋滞は倍増する。朝夕の渋滞時はどのルートを選ぶかが、運転手の能力を示すようになった。2014年には完成するということだが、そうすると現在はウブンゴに集められている地方行きの長距離バスのターミナルは、それぞれの幹線道路(バガモヨ、モロゴロ、キルワ)に分散され、1ヶ所ではなくなるという。そうなると地方からダルエスに出てきた人たちをターミナルから乗せるタクシーやバジャジが儲かるかなと思ったりもする。

 「バス専用レーンができたら、今走っているダラダラはどこに行くの?」ととぼけた質問をした人がいた。ダラダラが走るのがバス専用レーンになるのだが、その人はダラダラではないちゃんとした正規の(?)バスを想像していたらしい。きれいな正規のバスだけになり、現在のダラダラが一掃されるとは思えないし、それは大企業による寡占を意味するだろうからいいこととも思えない。

📷 建設中のバス専用レーン 2012年10月  タンザニアに最初にダラダラが登場したのは、イディ・アミンのウガンダとのカゲラ戦争の後遺症が癒えず、タンザニア経済がどん底だった1980年代初頭だったと思う。私は1983年に初めて乗った。そのころはまだダラダラは少数派で、正規のバスの方が多かった。それは、UDA(ダルエスサラーム市交通公社)のバスだった。私が最初にタンザニアに来た1975年には市内バスはUDAだけで、ハンガリー製の2台つながった大型バスも走っていた。便数はさほど多くなかったが、不便さもあまり感じないのんびりした時代だった。

 1983~84年ころは、まだUDAのバスがダラダラに比べて多数派だった。それはUDAのバスの台数が十分あるということではなく、外貨不足でスペアパーツが買えず、空しく車庫に止まっているバスが多かった。当時、日本の協力隊の自動車整備隊員がUDAに派遣されていたが、足りない部品を寄せ集めて、何とか動かせる台数を確保するために努力されていたのだと思う。十分な環境の日本とは大違いで、かなり戸惑われたのだろうと想像する。社会主義の経済の中で例外として認められたばかりの民営バスであるダラダラはまだまだ少なかった。ダルエスサラーム大学に留学していた私は、来ないバスを1時間近く待つこともよくあった。

 振り返ると1984年はニエレレ政権の末期で、経済は破綻した状態だった。外貨が必要な石油が不足して、ガソリン、ディーゼルは配給制で、日曜日は午後2時以降は許可証がないと運転できない状態だった。だから、道路に渋滞はなかった。かえって、来ないバスを1時間以上待つよりは、歩いた方が早いなんてこともままあった。

 その後、UDAの数はどんどん減り、2000年代にはミニバスが時おり走っているのは見かけたが大型バスはなく、絶滅寸前のように見えた。ウジャマー時代、地方幹線道路を行く長距離バスを運行していたKAMATA(国営バス会社)というUDAの兄弟会社は、そのターミナルを民営の長距離バス会社に売り払い、地名だけ残っている。今回の市内列車の中央駅の次の駅がKAMATA駅である。

📷 納入されたUDAのバスの新車 『Mwananchi』2012年10月25日号  UDAもほかの公社と並んで民営化計画に入ったのだが、不良公社ということでなかなか売却されなかった。数年前にインド人資本に廉価で売却されたのだが、その売買に関して元大臣が絡んで、不透明なことがあると起訴された。

 そういったいわくつきの絶滅危惧会社と思っていたUDAが新しいバスを300台購入して、大々的に復活するという。10月には20台の新車のお披露目が新聞報道されていた。インドのTATAのバスである。明らかにバス専用レーンの導入を視野に入れた投資作戦である。「バス専用レーンができたら、ダラダラはどこへ行くの?」と言った人は、それを読んでいたのかもしれない。そういえば、関西地方の市バスのを払い下げを、タンザニアに輸出しようとしていた日本人もいた。今ならいい商談になるのではないか。

 その当時、タンザニアに石油が出る見込みは薄かったし、車がばんばん走るようになるとはなかなか想像できなかった。そのころ(1980年代半ば)、私が考えていたのは、ダルエスの市内交通は市内電車にしたらどうだろうかということだった。日本でも京都など各地では市電が消えていた。都電もごく一部の路線のみが残っているだけだった。その廃用された車両を持ち込み、余剰人員として配置転換された人たちを数年間の指導員として来てもらうことをODAでできないかなと思ったのだ。

 まぁ経済のイロハもわからない私の夢想に過ぎなかったが。でも、市内列車が走り出したのを目の当たりにして、嬉しくなるのだった。土曜日のウブンゴ・マジワからの戻りの列車はがらがらだった。なんとか採算を取って続いてほしいと切に願う。

☆参照文献☆ ・『Mwananchi』2012年9月11日号、10月20日号、10月25日号、10月30日号 ・『The Citizen』2012年9月11日号、10月29日号、10月30日号 ・『Daily News』2012年9月3日号

(2013年1月1日)

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