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Habari za Dar es Salaam No.13   Unguja na Pemba ― ザンジバルと政治 ―

最終更新: 2019年2月23日

根本 利通(ねもととしみち)

 ダルエスサラームの東北のインド洋上にザンジバルがある。ザンジバルはウングジャ島とペンバ島という大きな2つの島とそれに付属する小さな島々によって構成されている。通常ザンジバル島と言うとウングジャ島を指す。ザンジバルの人口は昨年の8月に行われた国勢調査の速報値に依れば、984,531人であり、内ウングジャ島に58.6%、ペンバ島に41.4%が住んでいることになっている(ただし人口比は1998年国勢調査の速報値による)。

 なっていると言うのは、ウングジャ島とペンバ島の住民は縁戚関係が多く行き来が多く、親戚の所に数ヶ月居候というのはザラだし、仕事がないペンバ島からウングジャ島に出稼ぎに出ている人も多い。そういう人たちがどこで住民登録をされたか分からない。また更にインド洋を越えたマスカットやドバイに住む出稼ぎの若者や、密移住者も多く、どこまで統計に把握されているかは疑問である。また後述する理由で住民数を少なく抑えたい当局の思惑や、税金を逃れたい住民側の理由から、統計は少なく出ているのではないかと疑っている。

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 ともあれザンジバルは政治的なことを気にしなければ、インド洋に浮かぶ真珠かどうかは知らないが、1840年にオーマンのスルタンが宮廷の所在地をマスカットからザンジバルに動かしたように、のんびりしたいい所である。スルタンの首都として120年間発展した町は、サハラ以南のアフリカとしては最大のカスバというか、迷路のような小道の通じたストーンタウンがあり、また東海岸にはさんご礁と白砂の海岸が広がっている。海外特にヨーロッパから太陽と海をを求めてやってくる観光地だし、ダルエスサラーム在住の外国人にとってはフェリーで1時間半、飛行機なら20分で行ける、手軽な保養地である。

 そのザンジバルが、ここ10年間に3回ほど「渡航中止」「注意喚起」とかいった旅行自粛の対象になった。個人・民間は構わないが、役所、公用旅券などで来ている人には、近くて行けない観光地だった期間が長い。最も最近の自粛の原因は、2002年11月に起こったモンバサ事件で、アルカイダの組織があるとされる東アフリカのモンバサ、ザンジバルといった海岸部のイスラム色が強い地域(スワヒリ地方)では、アメリカ人、イギリス人はテロの対象になりうるといったイギリス外務省やアメリカ国務省の警告が出され、欧米人の集まるザンジバル東海岸のビーチリゾートが閉鎖になったり、自粛の対象になっている。観光収入に依存することの多いザンジバルにとってはかなりの打撃になっている。

  それ以前の2回の「自粛」の原因は、1995年、2000年に行われたタンザニアの総選挙における、ザンジバルでの激しい政争である。この2回の総選挙では政権与党のCCM(革命党)と有力野党であるCUF(市民統一戦線)が真っ向からぶつかり接戦を展開した。その内容については他のところ(弊社HPの歴史の稿など)で詳しく書いたから繰り返さないが、簡単に言えば政府当局=政権与党による不正に対し、怒った野党支持者による警察署の焼き討ち、死者、逮捕者、亡命などを引き起こし、不穏な情勢が続いた。2001年10月にCCMとCUFとの間に協定が結ばれ、今は一見穏やかではあるが、実際は何も解決していないと思われる。

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 ザンジバルではイギリスからの独立前にも、選挙で激しい対立が繰り返された。当時存在していたスルタンを中心とするアラブ人地主層と低所得者中心のアフリカ人階層との階級対立の様相を呈したが、実際にはザンジバルの住人は、純粋なアラブ人やアフリカ人は少なく、シラジと呼ばれる混血した人たちが多数派である。その人たちはお互いに姻戚関係があり、単純ではないのだが、ペンバ島のシラジはアラブ人と結び、ウングジャ島のシラジはアフリカ人と結ぶ層が多かったと言える。1963年の独立の際には、得票数ではやや少数であったアラブ人主体の政党が、ペンバ島のシラジの政党と選挙協定して、選挙区区割りの関係で多数派を占め、スルタンを元首とする君主国として発足するのだが、1ヶ月もしないうちに革命が起こり、多くのアラブ人が殺され、スルタンは亡命し、アフリカ人主体の政権が生まれ、東アフリカの安定化を望む勢力の支援で、タンガニーカと連合したタンザニアが生まれたわけである。

 その後、ザンジバルは暴力革命によって成立した独裁政権によって、かなり強権的な政治が行われた。当時のザンジバルはちょっとした鎖国政策を取っていたから、観光収入など望めず、その財政はクローブ(丁子)の輸出に圧倒的に依存していた。ザンジバルのクローブの生産は8割以上がペンバ島だし、ペンバ島に比較的富裕な農民層が多かったのもそれが背景だったが、ペンバ島は反革命の根拠地として抑圧され、クローブ販売は国家の専売となったので、その収入は専らウングジャ島に投下され、電気・水道・道路といったインフラも、ペンバ島は置き去りにされていった。さらにタンザニアが社会主義を捨てて自由化していった流れの中で、観光収入がかなりの比重を占めるようになると、インフラの比較的整ったウングジャ島に圧倒的に観光客が来ることになり、クローブの国際価格の低迷と共に格差はますます広がることになった。

 従って1992年の複数政党制が認められた後、早くに結成されたCUFにペンバ島人の多くが結集し、期待したのはペンバからすれば格差是正だった。そしてペンバ出身でザンジバル政府主相を歴任したセイフ・シャリフ・ハマドの人気・経歴・識見から言えば、ペンバ島出身初のザンジバル大統領の実現は可能性が大きく見えた。(今までザンジバル政府の大統領は6人いるが、ペンバ島出身者は一人もいない。)

 しかし30年以上に渡って政権を独占してきた与党が簡単に利権を手放すわけはない。「血で購ったものを紙で手放せるか!」といった人種意識丸出しのキャンペーンが行われ、ザンジバル大統領にハマドが当選確実という情報を流したマスコミがあったにも関わらず、3日間開票発表がストップし、最終的には得票率50.3%でCCM候補が当選し、50議席のザンジバル国会(タンザニア国会とは別)もCCM26議席、CUF24議席と選管は発表した。この間ニエレレ元大統領がザンジバルに飛んだと言われている。

 勝利を奪われたと信じたCUFの支持者は、特に割り当てられた21議席を完全に制覇した地盤のペンバ島では不服従、議会のボイコット運動に出て、その間CUF国会議員の訴追、支持者の公務員の免職などの人権侵害が露骨に行われ、EUなどの援助国は援助をストップした期間が長かった。2000年の総選挙でも似たようなことが繰り返され、CUF支持の若者が何人も亡くなるような状況が続いた。理念はともあれ、実態は利権争いと思われ、若者を犠牲にした政争の愚に気がついたかどうか、2001年には協定が結ばれた。

今月18日に、ペンバ島でザンジバル国会補欠選挙が行われる。これは2000年の総選挙では、ペンバ島21議席のうち、CUFが押さえたのは17議席だったのだが(1995年よりCCMが伸張した)、その議員達が選挙の過程に不正ありと再選挙を主張して議会をボイコットしたため、失格とされたために行われる。ペンバ島の選挙人登録を少なく抑えたい政権与党と選管が登録の際に、細々とした制限条件(過去半年ペンバ島に在住していた証明とか…)を付けたとか、不協和音は聞こえてくる。今選挙戦が始まっているが、CCMではなくNCCRという別の野党が、CUF候補者のうちの7名の資格に疑義(2000年選挙の当選者は、その後失格したのだから今回の補選には立候補出来ないと主張)を申し立てた。4月28日に選管がその主張を認め、6名のCUFの候補者を失格と裁定した。CUFは緊急会議を開き、その6つの選挙区の選挙の差し止めを選管に請求した。また一波乱ありそうな状況となっている。

(2003年5月1日)

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