• 白川

Habari za Dar es Salaam No.138   "Kumbukumbu ya Ngubi" ― グビさんの思い出 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 グビさん(Salum Ngubi)が亡くなったのは、2013年8月26日早朝、ムヒンビリ国立病院においてだった。享年53歳。葬儀は翌日、故郷であるモロゴロ州キンゴルウィラ村で営まれ、一族の墓地に永眠した。「グビさん逝く」

📷 グビさん(2011年) 亡くなった当日にはキンゴルウィラ村には毎夏恒例の農村滞在のツアー(オルタナティブツアー・タンザニア)が滞在中であったし、例年通り8月下旬は日本からのツアーが集中している時期であった。葬儀にはかろうじて会社関係者は8人ほど参列できたが、運転手の多くは地方業務中で参列はかなわなかった。

 私自身、30年近い友人のあまりにも早い旅立ちに向かい合うことができずに、目先の仕事に没頭して処理することで時間を過ごしてきた。1ヶ月経ち、当地でいう40日忌(日本でやる49日のようなもの)が近づき、少し落ち着いて考えることができるようになった。

 グビさんはこの「ダルエスサラーム通信」でも何回か登場している。 「オルタナティブツアー・タンザニアの原点」 「オルタナティブツアー・タンザニア」  ルカニ村のアレックスさんと並んで農村滞在のホストの一人であり、JATAツアーズ創業者の一人であった。JATAツアーズを始めるのに当たって、グビさんとアレックスさんは欠くことのできない人だった。

 グビさんとの出会いは1984年7月だっただろうと思う。出会いに明確な思い出はない。その年の6月にダルエスサラーム大学の大学院に留学した私は第一寮(Hall1)の1階に個室を貰った。後で聞くと院生用には第四寮という特別の棟があったようだが、満室だったのか一般学部生の入る第一寮をあてがわれた。ただ学部生は2名1室だったから優遇されてはいた。それはともかく、この第一寮の担当の清掃人がグビさんとアレックスさんだったのだから、お互いの人生の出会いだったのだろう。

 私が当時31歳、グビさんは24歳、アレックスさんは21歳だったはずだ。グビさんもアレックスさんもいわゆる小卒だった。当時はニエレレ政権のウジャマー政策の最末期というか崩壊過程にあった。ニエレレが最優先した国民すべてに初等教育と医療を無償で保証するという理想・大原則はかろうじて守られていたが、学校には教材がない、先生の給料は遅配、病院・診療所に行っても薬品がないということは一般的だったように思う。

📷 若きグビさん(1988年)

 当時は初等教育優先で、中等教育は抑えられていた。中学校はほとんどが公立でその進学率は3~5%の間で停滞しており、一種のエリートであった。キリマンジャロ出身のチャガ人であるアレックスさんの兄弟姉妹は誰一人として小学校で終わらず、中学校か専門学校に進学させている教育家庭である。グビさんも15人いる異父母兄弟姉妹の実質的長男(兄は早死にした)として家族の期待を担っていた。二人は公立学校への進学に失敗し、人脈を頼ってダルエスサラーム大学の職員(清掃人)に就職し、大学の開講している夜間中学校に通っていたいわゆる勤労学生であった。

 当時のタンザニアはウガンダのアミンとの戦争の後遺症もあり経済的にどん底で、統制経済はまだ残っていたから、店には品物がなかった。タンザニア・シリングの公定為替レートが実勢の7~10分の1に押さえられていたから、商人は公定価格で商品を店頭に並べなかった。生活必需品である石鹸や食用油とかバケツなどもなかった。物がなかったわけではなく探せばあるのだが(実勢の価格で購入するのだが)、スワヒリ語もおぼつかない外国人に自力で探せるわけもなく、グビさん、アレックスさんの存在にどれだけ助けられたことか。残念ながら同級生には親友はできなかった。

 彼らと親しくなって、大学の休暇の期間に帰省する彼らの村に付いていった。キンゴルウィラ村に初めて行ったのは1985年だったと思うが、鮮明な記憶はない。1986年8月にはキンゴルウィラ村、ルカニ村を訪ねる農村滞在をメインとした「アフリカの大地と農村」というオルタナティブツアーの第1回目を催行している。これがJATAツアーズの原点になっている。

 しかし3人でJATAツアーズを始めるまでには、1998年まで待たないといけなかった。私は1986~97年までダルエスサラーム日本語補習校の講師をしていた。アレックスさんは清掃人から寮の管理人に昇格していた。グビさんはというと、日本の友人知人にタンザニアの産物を送るための小さな輸出会社を設立していた。マコンデ彫刻、故リランガなどの美術作品、カンガ(布)、アフリカフェ(インスタント・コーヒー)などなんでもござれだったが、いかんせん市場が小さく単価も安かったから、Ngubi & Brothersという会社名に及ばず、グビさん一人が食べていくのが精いっぱいで、グビさんの弟たちは仕事があるときだけの臨時雇用だった。

 今はもう壊されてしまったPrintpakのビルの薄暗い1室を、当時自分の旅行社を立ち上げたばかりのアリさんとシェアして始めたNgubi & Brothersの時代が、現在のJATAツアーズの揺籃期であった。当時最終末期を迎えていた南アの反アパルトヘイト運動のために、アフリカフェの日本への独占販売権を取り、運動支持者にお中元とお歳暮の「反アパルトヘイト・グッズ」として送り出したり、夏のオルタナティブツアーを細々と、でも熱意を込めて催行していたのも懐かしい思い出である。

📷 グビさん、アレックスさん、私たち3夫妻(1991年)  私は1989年、グビさんは1990年、アレックスさんは1991年に相次いで結婚して、それぞれ父親となっていった。私たち3夫妻の子どもたちは相前後して小学校に入学している。私は息子が補習校に入るのを契機に補習校を辞め、大学の人員削減に引っ掛かって失職したアレックスさんと相談し、Ngubi & Brothersを発展解消する形で1998年に創業したのがJATAツアーズである。この時期は在留許可の切り替えの移行期で、イミグレーション(入管)との間にトラブルが発生した時に、身を挺して守ってくれたのもグビさんであった。

 それから15年間、3人4脚で歩いてきた。ややもすると日本人的な独断に走る私と、タンザニア的な交渉力に長けたアレックスさんが衝突するところを、温厚な調整力のあるグビさんの存在で、空中分解せずに少しずつではあるが会社は大きくなっていた。会社のオフィスのスタッフには、アレックスさんの妹と姪、グビさんの義弟と甥という二人の人脈で固めている。まさしく両輪に支えられてやってきた。

 私たちの会社は旅行業というビジネスをしているのだが、私自身にそういう意識がないから儲けようという意欲に乏しい。商売上手なチャガ人であるアレックスさんはそれがときどきもどかしく強く批判する。しかし、元々がタンザニアの民衆と日本の民衆との相互交流を目指して作った会社だから、儲からない農村滞在を地道に続けてきた。その粘り強い継続的な努力はグビさんの人柄に大きく頼ってきた部分である。

 饒舌でサービス精神の旺盛なアレックスさんと違い、どちらかというと寡黙で控え目なグビさんは日本からのお客さんに強くアピールすることが下手だったろう。しかし、キンゴルウィラ村を訪れ、グビさんの丁寧な心遣いを感じた人たちは多かっただろうと思う。訃報を聞いた多くの人たちがメールでお悔みを送ってくれたが、異口同音にグビさんの優しさに触れていた。

 キンゴルウィラ村をスタディーツアーで訪れた学生さんの報告に以下の紹介がある。1993年11月のM大学校外実習で来たYさんの文である。私の著書にも紹介したので他の人の文章を探したのだが、これに勝るものはないと思われたので再掲する。

 「グビさんというと、どうしても途方にくれている姿が思い浮かんでしまう。両手で頬を押さえて「とほほ」のポーズである。私たちのタンザニア滞在中、一体彼は何回はらはらどきどきと冷や汗をかき、そして困り果てたことだろう。…車が故障し、(歌などを歌いながら呑気に待っている私たちとは裏腹に)焦るグビさん。それに輪をかけて、K先生の容赦のないリクエストにもこたえなくてはならない。その度に、彼のなで肩が一段と下を向いたものだった。私たちが心配そうに彼の顔をうかがうと、泣きそうな顔で微笑みかけるグビさん。…今度は、私たちの世話役としてでなく、一人の友だちとしてお会いしたいです」

📷 村の小学校長マンゴー先生とグビさん(1996年)  グビさんとアレックスさんは、村を訪れた日本人の招きで、1989年と2002年に訪日している。「民衆の相互交流」という大目標を掲げた旅行社だから一方通行に終わらない旅にしたいという趣旨で実現した訪日だった。グビさんはあまりに忙しい日本の日常に、途中から帰りたくなったこともあったようだ。しかし、日本にも農村の暮らしがあることを発見して喜んでくれたグビさんは「民衆の架け橋」となってくれた。

 ここ数年、グビさんはキンゴルウィラ村の案内を義弟や甥という若い世代に任せることが多かった。若い大学生のツアーに自転車に乗ってマサイの集落まで案内するのはしんどくなってきたのだろう。しかし、ここぞという時には、やはりグビさんの出番であった。2011年の利光さんという強烈な個性を持った人を中心としたツアーの時には、グビさんに村を案内してもらった。以下はグビさんの感想である。

 「村人たちは利光さんたちのグループを歓迎しました。しかし村人たちの多くは、利光さんのように体に障害を持った人が遠い日本からタンザニアまで旅をしてきたことに驚きました。利光さんに会って同情を寄せる人もいましたが、利光さんが大きな障害をもっていて、動くことも大変なのに、なぜタンザニアに来ることにしたのかと質問した人たちもいました。」  「キンゴルウィラ村に日本からの体の障害を持った人を迎えるのは、初めてのことでした。村人たちは障害を持った人も旅することもできるし、やる気があればたくさんのことを学ぶことができるのだということを知りました。」

 「わたしにとっても、体の障害をもったお客さんを迎えたことはなかったので、チャレンジのように思えました。利光さんに関する近所の人たちからの質問にもありましたが、わたしも利光さんが疲れずに旅の全行程を続けられるかが不安でした。しかし、彼はやり遂げました。利光さんたちは大丈夫でしたが、そうではない人たちが来た場合、わたしは大変だったことでしょう。わたしと家族たちは利光さんたちのグループを迎えることができて、とても嬉しく思っています。」

 私は長年、グビさん、アレックスさんとオルタナティブツアーやスタディーツアーをやってきて、最近つくづく感じることがある。それは「持ち帰る旅の思い出」だけでなく、「残す旅の記憶」もあるのだということだ。日本の特に若い柔軟な感性を持った人たちは、農村滞在でそれぞれに感じて、元気になって帰っていった人が多い。それはツアーを受け入れる側にとって至上の喜びだが、村人たちはそれをどう感じたのだろうかということが気になってくる。ある日突然脈略もなしに(と私には思えた)、グビさんが「あの時のあのお客さんはあんなことをして大変だったなぁ…」とぽつりとつぶやく。私はそんなことは聞いたこともなかったからびっくりしてしまう。旅のなかで相手に与えた印象まではあまり考えないだろうが、「旅の印象をまとめてタンザニアに送り返してくれ。それを村の人に伝えてあなたたちの旅は終わるのだよ」と最近はツアーの参加者に言うようにしている。

📷 日本からの客人に説明するグビさん(2011年)  私は今年で60歳、早く引退・隠居したいと思う年齢になった。グビさんもアレックスさんも引退後は故郷に帰りたいと言っている。グビさんは2年前にキンゴルウィラ村ではなく少し離れたルヴ川のほとりの6エーカーの土地を入手し、水田を作り出した。昨年は最初の実りを分けてもらった。収穫期にマサイの牛が入って食べられてしまって、弁償金をささやかに取り戻す事件があった。その次の今年の収穫期にはダトーガの牛にやられたとかいう知らせをもらって、「ダトーガはマサイよりえぐいから弁償金取れるかな」と頭を抱えながら、水田のある村に出かけていった。「クボタのトラクターが手に入れば農業に専念して、もう会社は退職するんだけどな」と気分はJATAツアーズの経理部長ではなくもう農夫だった。気がかりなのは子どもの学費が農業で稼げるだろうかということで、それが退職を押しとどめていたのだろう。

 5年後には私も引退、グビさんはキンゴルウィラ村で農業に専念、アレックスさんはルカニ村で村長の声がかかっている。JATAツアーズの後継者は、キンゴルウィラ村とルカニ村に農村滞在のお客を送り、グビさん、アレックスさんに優しく出迎えてもらう。私たち夫婦も年に1度くらい訪ねて行って泊めてもらい昔話をするというのが老後の夢だった。3人4脚の人生が止まってしまったのがたまらなく寂しい。

 葬儀が終わり、埋葬に向かう時、知り合いの村人や知人は私を気遣って、「墓地まで車で行った方がいい」と言ってくれた。慣れない喪服を着こみ革靴を履いている私の恰好を見て、涼しい季節とはいいながら昼下がりの野良の暑さを気遣ってくれたのだ。丁重にお断りして、知人、親戚とグビさんの思い出を語りながら往復1時間ほどのの道を歩いた。

 キンゴルウィラ村はウジャマー時代に集村化されたので街道沿いに集落がある。グビさんが親から受け継いだ畑は自転車で行くほど遠い。また一族の墓地(墓地は昔ながらに分散している)も村外れにある。今は乾季でほとんどの作物はない。農繁期にはヒマワリ、キャッサバ、トウモロコシなどが植えられるという畑も荒涼としている。村外れに近づくと、村外の人に売却された畑が広がり、その従業員宿舎になると思われる小屋が数軒建てかけてあった。また川を越えた隣の村には大規模な養鶏場が見えた。

 埋葬には男たちしか立ち会わない。夫人も親戚の女たちも墓地までは来ない。それでも300人以上の男たちが延々と連なり、墓地までやってきた。そしてすでに掘ってあった大きな穴に数人が下りて、布で目隠しをしながら遺体に土をかけていく。グビさんの長男のモハメッドが最初に土をかけた。土をかける前と、埋葬が終わった後に、イスラームの導師がコーランの章句を唱え、皆が唱和し、祈りをささげる。典型的なムスリムの葬儀だったが、一族の墓のなかにはクリスチャンネームを記した十字架もあった。

 埋葬が終わり、多くの村人が立ち去った後、親しい近親者とアレックスさんと私が残り、新しいお墓を見守った。17歳とはいえ、まだ小柄で細いモハメッドの肩を抱いて、何か励ましの言葉をかけようと思ったが言葉にならなかった。グビさんに似て気弱そうな優しい少年である。墓地からの帰り道、ウルグル山塊がくっきりと紫色の威容を見せていた。私の息子を連れてキンゴルウィラ村に来た時(1996年)は雨季で雨雲が多かったが、今も健在なグビさんのお母さんの家を訪ねて村を歩いた時に、強い風が吹いてウルグル山塊が一瞬全容を現したことを思い出した。

 グビさんは上は21歳から下は4歳まで4人の子どもさんを残した。夫人は現役の看護師であるし、グビさんや夫人の兄弟姉妹は10数人も健在である。生活に困ることはないだろう。しかし最近のタンザニアの公立教育の崩壊状況(「昨今の中等教育事情」参照)から、グビさんは子どもさんを全員私立学校に進ませている。その学費を何とか少しでも支援したいという思いからささやかな基金を日本の友人たちと作った。有志の方がたのご協力をお願いする次第である。 「グビさん遺児育英基金」ご協力のお願い

☆その他のグビさん関係の記事。 グビとアレックスの日本訪問記 キンゴルウィラ村便りへ キンゴルウィラ村へのお誘いへ 断食月にキンゴルウィラ村へ行く・1断食月にキンゴルウィラ村へ行く・2

☆グビさんの記事:外部リンク(タンザニア徒然草) 断食月にキンゴルウィラ村へ・1(2010年)断食月にキンゴルウィラ村へ・2 グビさんの畑☆Shamba la Ngubi キンゴルウィラ村の水を巡る物語 ほっかほかのタンザニアを持ちかえる さようならは言いたくないのに グビさんのこと

(2013年10月1日)

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スタッフ投稿【目次】

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