• 白川

Habari za Dar es Salaam No.139   "Chinua Achebe" ― チヌア・アチェベのこと ―

根本 利通(ねもととしみち)

 チヌア・アチェベの訃報がタンザニアで報道されたのは2013年3月23日である。亡くなったのはアメリカ合州国のボストンの病院で、3月21日、享年は82歳とのことである。その後数日間、追悼の記事が英語紙、スワヒリ語紙に連載された。 📷 チヌア・アチェベ 『Mwananchi』2013年3月24日号  チヌア・アチェベはナイジェリアのイボ人の作家である。イバダン大学在学中から習作を書き始め、1958年、長編小説第一作である『Things Fall Apart(邦訳名:崩れゆく絆)』で世に知られるようになった。「アフリカ現代文学の父」というような言われ方をしている。長い間ノーベル文学賞の候補と言われ続けてきたが、受賞することなく亡くなった。

 イボ人であるがゆえに、1967~70年のナイジェリアの内戦であったビアフラ戦争ではビアフラの大使を務め、支援を求めて活動した。ビアフラの敗北以降は、政治家の腐敗、特に軍事政権への厳しい糾弾者であったがために、もっぱら国外で活躍することになり、主としてアメリカ合州国の大学で英文学の教鞭をとることが多かった。その後、1990年ナイジェリアでの交通事故のため車いす生活となり、ボストンに生活の根拠を据えて、最後までナイジェリアに戻ることなく終わった。

 しかし、遺体は故国に送られ、葬儀は5月23日故郷の町オギディで盛大に行われた。葬儀には多くのナイジェリア人、同世代の作家・詩人であるウォレ・ショインカをはじめ、南アのナディーン・ゴーディマやデズモント・ツツなどが参列すると報道された。ナイジェリア東部地域の州知事は「『部族』主義を出さないように。アチェベは一つのナイジェリアのために努力した人である」と警告していたらしい。

 私がチヌア・アチェベの名前を意識したのは1976年の秋以降だと思う。それ以前は聞いてはいたかもしれないがうすらぼんやりだったはずだ。初めてのアフリカ旅行から帰った私は、当時設立されたばかりの京都のアフリカ文学研究会に参加した。このころのことは別の原稿に書いたので繰り返さないが、グギ・ワ・ジオンゴ(ケニア)やアイ・クウェイ・アーマ(ガーナ)などの作家の原書を読む作業のなかで、アチェベを知ることになった。

 マケレレ大学の学生時代にアチェベに認められて、英語作家として地位を確立し、『A Grain of Wheat(一粒の麦)』などの傑作を出していたジェームス・グギが、「英語ではなく民族語で表現しないと、民衆に伝わらない」と名前を民族名のグギ・ワ・ジオンゴに戻し、ギクユ語で戯曲『したいときに結婚するわ』を出したのが1978年である。そのグギの動き、主張は新鮮な風を吹き込んだが、アフリカ人が英語で文学表現することを弁護する立場に立ったのがアチェベだったという記憶がある。

 アチェベは1964年に「自分の母語を捨てて、他人の母語を使うことは正しいことだろうか。…しかし、私にとっては他に選択する道はない」と述べた。そして10年後には「アフリカ文学における英語の難攻不落の地位という宿命的論理」と述べている(『精神の非植民地化』P.55における引用)。つまり、英語もしくはフランス語やポルトガル語を使用して表現するアフロ・ヨーロッパ文学の代表として活躍するのである。英語にアフリカの体験を吹き込み、英語を豊かに新しいものにするという使命感をうたう。

 しかし、それを「なぜ自分の母語を豊かにしようとせず、英語に新しい命を吹き込もうとするのか」と批判するグギの方が明快だろう。帝国主義・植民地主義の遺産である英語(あるいはフランス語)を所与の大前提とせず、その文化的・精神的な新植民地主義的支配の道具としての旧宗主国言語を否定するのは当然と思われる。しかしグギがこの『精神の非植民地化』を刊行してから27年経つが、そのような方向には流れていない。それにはここでは踏み込まない。

📷 アチェベの葬儀 ©AP  アフロ・ヨーロッパ文学の中で育ち、その有力な若き担い手であったグギは、例えば英文学の表現技法を学ぶなかでコンラッドの影響を受けたことを告白している。しかし、ナイロビ大学英文科の講師となったグギは、英文学の本流を教えるのではなく、豊かな口承文学の伝統を受け継ぐ演劇、詩のなかにアフリカ文学の再興を目指し、語りかける相手の民衆の言葉を選んでギクユ語での創作に入っていった。

 最近になって、チヌア・アチェベのことをはっきりと意識したのは、藤枝茂著『「闇の奥」の奥』を昨年読んだ時である。英文学の傑作とされるジョセフ・コンラッドの『闇の奥』の徹底的な批判者としてである。帝国主義批判を含んだ傑作として評価の高い『闇の奥』の著者を、アチェベが「べらぼうな人種差別主義者」と批判したのは1975年である。その後英文学界では大きな論争になったという。

 英文学はしょせん英語による思想・論理の文学表現であるから、19世紀末のヴィクトリア朝時代の大英帝国の思想・論理を反映していると見るのが妥当であろう。「暗黒大陸のキリスト教文明による教化・文明化」という白人の大義がまかり通っていた時代である。また現代でも西欧の思想はその延長線上にあるのであるから、英文学者による本質的な批判は無理であろう。そこをコンラッドによって描かれた未開のアフリカ人から出てきたアチェベが突いたのである。

 しかし、アチェベはグギとの論争では、英文学擁護に回ったように見える。「グギは言語を政治の道具に使っている」と。このあたりはタンザニアの人たち(知識人)にはどう捉えられているだろうか?訃報が伝わった後の数日間のタンザニアのスワヒリ語紙、英語紙、ケニアの英語紙での報道を見てみよう。

 「マンゴーの実は甘いし、労働のあとその木陰で人びとは休む。大きなマンゴーの樹が倒れた」(Richard Mabala、ジャーナリスト)  「愛国者を失った。…彼は民衆を愛し、そのために書き、語った。彼の著作は直接の授業であった」(Donny Maige、教師)  「アチェベはアフリカの歴史をヨーロッパ人に代わって書いてもらうのではなく、いかに自らが描くかの好例である。…(アチェベが軍事独裁の糾弾者であったことに触れ)アフリカの作家は憶病であってはならない」(Shangwe Beira、大学講師)  「彼は消費できる物語の語り部だった、常に単純でわかりやすい。現在の作家は読者にわかるように、物語を単純に語ることを学ばないといけない」(Edwin Semzaba、劇作家)   「1970年代の学生の時、将来は小説を書こうと思ったのはアチェベのおかげだった」(Wilson Kaigarula、ジャーナリスト・作家)  「1971年、私がアルーシャの中学3年生の時、亡命していたジンバブウェ人の先生から、いかにアチェベがイボ民族の伝統的な暗喩、ことわざ、人物、文化を使いながら、アフリカ大陸が結果として破壊されるかを伝えようとしていることを教わった。アチェベの著作を教科書にして我われは英語とその表現技法を向上させた」(Freddy Macha、音楽家)

📷 『Things Fall Apart』初版本(1958年)  ダルエスサラームの本屋をいくつか周り、アチェベの著作を入手しようとしたがなかった。輸入図書中心のかなり大きな本屋で探してもなく、店員はアチェベの死を知っていたが首を振った。日本のように「〇〇セール」で店頭に平積みになるというような状況とは違った。私が入手したのは日本経由だった。

 私がアチェベの代表作である『Things Fall Apart』を原書ではなく日本語訳で読んだのはもう30年以上前のことでほとんど記憶にない。植民地化直後の、おそらく20世紀初頭の伝統的アフリカとキリスト教宣教師を先頭にした西洋近代との衝突というイメージだった。さて、今回その続編にあたる『No Longer at Ease(もはや安楽はなし)』(1960年)を読んでみた。

 冒頭ではラゴスの裁判所で、主人公であるObi Okonkwoに判決が下されるシーンから始まる。Obiは『Things Fall Apart』の主人公であったOkonkwoの孫である。時代は流れ、ナイジェリア独立前夜である。Obiは村きっての秀才として輿望をにない、ラゴス在住の村の出身者たちが作っている協会の奨学金800ポンドを得て英国の大学に4年間留学した。法学を修めることを期待されていたが、英文学を選んだ。そして帰国後「白人のポスト」という役人の地位を得て、これからという時に収賄で訴えられているのである。

 物語はObiとその恋人であるClaraとを中心にして展開する。恋人Claraはアウトカーストの出身である。無理だというClaraを押し切って婚約し、Obiは両親を説得しようと試みる。Obiの父は村の英雄だったその父(祖父Okonkwo)を裏切るような形でキリスト教に入信し教理問答師として長年生きてきた人である。しかし「自分たちはクリスチャンではないか!」と訴えるObiに対し、父も母も首を横に振る。

 行き詰ったObiとClaraは身ごもっていた子どもを非合法におろすことにし、その費用の工面、手術後のClaraの体調不良などから別れていく。自暴自棄になったObiは固く拒否してきた英国留学の斡旋に対する収賄に手を染め、囮捜査に引っ掛かり逮捕され、起訴されたのである。英国人の上司は「アフリカ人は教育を受けても皆腐敗している」とうそぶく。

 私は英文学を味わうような英語力はないので、あくまでアフリカ史の史料として読んでいる。ナイジェリア独立前夜、1950年代後半で、チヌア・アチェベと同世代が主人公になっている。祖父の時代に浸透してきたキリスト教は圧倒的ではなく、村には伝統的信仰、雨乞いを信奉する長老たちも多いが、若い世代のなかでは確固とした存在になっている。

 しかし、世代間の信仰の問題よりも私が興味を惹かれたのは、冒頭から一貫して「公務員の汚職」がテーマになっていることである。つまり独立前の植民地の高級官僚予備軍(トップは依然英国人が握っているが、独立した暁にはそれに取って代わる資格のある役人)にとって、すでに収賄が当然のこととみなされているという事実である。この作品の執筆が独立直前であるから、そういう事実が存在していたのだろう。

📷 『No Longer at Ease』初版本(1960年)  普通に考えると、独立当時のアフリカ諸国には行政を担うべき教育を受けたエリートは一握りしか存在せず、利権の集中化、縁故主義、そして自由資本主義の未発達から許認可権を握る国家官僚による賄賂がはびこったということだろう。しかし、ここには独立前夜、英国人がトップを占めている行政機構のなかで、予備軍というかトップ下の地位にいる留学帰りの若手エリートの収賄が当然と見なされる風土が描かれている。独立を目指す知識人の正義感とか倫理観は感じられない。それはナイジェリアが特殊だったのか、あるいはこれが一般的だったのか?アチェベは「部族」主義や政治家のエリート意識、腐敗に厳しい批判者であったという認識がある。

 Obiの上司の英国人Greenは教育を受けたナイジェリア人の強欲さを指摘する。何のための教育かと?しかし、Obiからすればその上司は「1900年なら栄光ある宣教師、1935年なら生徒の前で校長を平手打ちする視学官、しかし1957年はののしることしかできない」と見る。ここでコンラッドの『闇の奥』への言及が出てくる。「Kurtzは闇に屈服したが、Greenは夜明けの曙光に屈服するのだ」と。しかし、アチェベの追悼記事のなかに「ウガンダの国会議員のほとんどはObiの縮図である」というのを読んで少し呆れてしまった。

 私はナイジェリアとかアンゴラのような石油が出る国の「資源の呪い」かという風に理解したいのだが、独立前の植民地時代から存在したということであれば体質かということになる。ここで体質というのは植民地の統治機構の体質ということである。その土地の住民や社会を代表したものではない虚構の統治組織に実質を持たせるための植民性、寄生性ということである。独立前夜、新植民地支配を準備するために黒い顔をした英国人の養成が行なわれていたということだろう。アチェベはそのなかで引き裂かれた若者を描いた。

 私がそういう見方をしたいのは、タンザニアのやはり英国留学帰りの独立の父が清廉で、1970年代のタンザニアでは賄賂は表立ってはいなかったという思い出があるからである。思い出というからには現在の状況にも触れないといけないのだろうが、それは稿を改めたいと思う。

 アチェベに関して、その足跡、私の思い出、タンザニア知識人のコメント、一作品の感想など断片的に触れてきた。これだけではまとめて論じることはできないし、その力量もない。従って以下は個人的な感想に過ぎない。アチェベは植民地時代末期のトップエリートであった。多くのアフリカ諸国は独立後50年を過ぎ、現在の壮年層は植民地時代を知らない。圧倒的な権威をもち、「文明・進歩」を体現していた白人の存在は知らない。欧米への留学はさほど特権ではなくなり、エリートのなかには白人と友だち付き合いするのが日常になっている層もいる。そういう世代を読者としている現在の作家の世代(第二世代)にアチェベの世代(第一世代)の創作に対する問題意識が継承されているかどうかということ。グギの闘いが孤立化していないかということである。

  もう一点は、私はアチェベの著作を二作しか読んでいないので誤解である可能性があるのだが、アチェベはアジアやラテンアメリカの文学をどの程度視野に入れていたのだろうかという疑問である。使用言語の問題に関しても、アチェベのアフリカの伝統に対決するものは欧米それも英国の文化伝統がほぼ唯一の対象の二元主義のように感じる。それはその時代の制約で仕方ないのだが、アチェベが終の棲家を米国に定めたというのがやや寂しい。これはさらに若い世代(第三世代?)のイボ人の新進作家で注目を浴びているチママンダ・ンゴズィ・アディーチェが現在米国在住で、その作品はアフリカ文学といえるのかどうかという関心にもなってくる。

 10月になって知った話である。『崩れゆく絆』の門土社の日本語訳は絶版になって久しかったが、12月に新訳が出るという、光文社古典新訳文庫から。この文庫は数年前に誤訳論争があって大変だったらしい。その誤訳の問題の当否は措いておいて、光文社の当時の編集長の居直り発言はいただけない。出版文化の責任者としての自覚に欠けているとしかいいようがない。そのいわくつきの新訳文庫からの出版なので怖いのだが、怖いもの見たさで読むのだろうなと思っている。「イボ族」と書いていないといいなと思いつつ。

☆参照文献☆ ・『Mwananchi』2013年3月23日~26日、4月24日号 ・『The Citizen』2013年3月24日、29日、31日、4月1日、9日、17日、24日号 ・『The East African』2013年3月23日-29日号 ・『No Longer at Ease』(Anchor Books,1994) ・グギ・ワ・ジオンゴ著、宮本正興・楠瀬佳子訳『精神の非植民地化』(第三書館、増補新版2010年)

(2013年11月1日)

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