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Habari za Dar es Salaam No.141   "Safari ya Oman" ― オマ-ン紀行 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 新年、明けましておめでとうございます。  2014年が皆様にとって、タンザニア、日本、世界にとって平和な年になりますよう祈念いたします。

📷  新年らしく楽しい旅の話をしたい。前回の海外旅行は2011年11月のブルンジだった。2012年には日本へ行ったので、2013年は5月にガーナ旅行を狙っていたが、諸般の関係で断念。行きたかったケニアのラム島も政治情勢の関係で諦め、今年(2013年)は海外旅行には行けないかなと思っていた。が、知人に誘われ、12月にオマーンに1週間ほど行くことができた。

 オマーンは今回の訪問で2回目である。といっても前回は遠い昔、パスポートを調べてみたら1985年10~11月のことで、なんと28年ぶり!。前回は、私が最初にタンザニアに来た1975~6年にダルエスサラームで4か月ほど下宿させてもらったザンジバル出身のアラブ系のサイディさん一家がオマーンに移住していたので、訪ねて行ったのだ。サイディさん一家はそのころマスカトの空港近くのシーブ地区に住んでいて、またお世話になった。また当時私はダルエスサラーム大学大学院に留学していたのだが、同期生のアラブ系ザンジバル人の学生の従兄がマスカトで働いていたのでその人も訪ねた。

 つまり、ザンジバル系の人たちの人脈をたどった旅で、会話はほとんどスワヒリ語で済んだ。私はアラビア語は話せないし、ザンジバル系の人たちを除くと、英語を話せるオマーン人も少なかったように思う。空港とか、銀行とか町中の要所のオフィスには(オマーン人に比べ教育のあるといわれる)ザンジバル人がけっこういて、オマーン風の伝統的なターバン姿をしていても、スワヒリ語を話してくれたりした。ただサイディさんがアブダビ日帰り旅行に連れて行ってくれた時、ブライミの国境では「絶対にスワヒリ語を話すな、英語で話しかけろ」と注意されたことを覚えている。

 この背景には、オマーンが19世紀に海上帝国を形成し、オマーンとザンジバルを含めた東アフリカ沿岸一帯を支配した歴史がある。1804~56年の治世だったスルタン・サイードの死後、その帝国はオマーンとザンジバルに分かれた。それから1世紀以上経った1964年のザンジバル革命後、スルタンをはじめとして多くのオマーン系ザンジバル人は、故郷の紐帯を頼りにオマーンに亡命しようとした。しかし、当時のオマーンは鎖国状態で、亡命者の帰国を拒んだ(ザンジバルのスルタンは英国に亡命した)という。1970年皇太子だったカブースが宮廷クーデタを起こしスルタンとなって、石油収入を基に国の近代化を開始してから、ザンジバル人の亡命(帰国)が許されるようになった。

 1985年当時、旧ザンジバル人はドバイ、アブダビなどに散らばり、オマーンでもマスカトには大きなザンジバル人居住区があった。ザンジバル人の学生の従兄はタンザニア国籍で出稼ぎという状態だったが、サイディさん一家は永住を決意してマスカトに移住していた。詳細は聞かなかったが、ザンジバル出身ということを隠して、先祖の出身の村生まれということでオマーン国籍を取っていたと思う。まだ国内外の情勢次第では存在が微妙だったのだ。オフィスの受付などにいた英語を話せる女性がかなり高い確率でザンジバル出身だったのは、鎖国状態から解放され、女子の学校教育もやっと軌道になったばかりであったからだろうと想像している。

 その時の旅ではマスカト以外では、砂漠を夜行バスで越えて南部ドファール地方のサラーラに行った。また、大学生の従兄に連れられてその故郷の内陸山岳部ニズワの近くの村も訪ねて行った。ニズワは伝統的な灌漑水路がめぐらされ、オアシスの町という美しさを湛えていた。泊めてもらった民家では案内の従兄以外は圧倒的にアラビア語だったが、数十年前にザンジバルに出稼ぎに行ったという年配の方とアラビア語訛りの強いスワヒリ語で会話ができたことを思い出す。

📷 ドファール地方ミルバート漁港  さて28年ぶりのオマーンである。前回は一人旅であったが、今回は妻と同行。そしてマスカトで日本からやって来た知人二人と合流した。二人ともタンザニアの研究者である。

 今回はカタール航空を使って、ドーハからサラーラに直接入った。オマーンというとマスカト空港から入るというのが先入観だが、同行者にサラーラ直行という選択肢を提示されたので、やってみた。サラーラ到着が01:30という深夜の到着で、ビザ、両替、街までの交通、ホテルなど不安づくめで、そして時間はかかったが、まぁ何とかなった。

 サラーラは南部のドファール州の首都で発展しつつあるようだが、街中は建設中のビルや空き地が多かった。私たちが泊まったホテルは「City Centre」という地区にあったが、半分以上が空き地で人影も少なくがら~んとしていて、とても繁華街とはいえなかった。日中はインド系(インド、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ人など)と思われる労働者の人たちはそこそこいたが、オマーン人と思われるような服装をしている人たちはめったに通らなかった。夜は子どもたちを含め、人が湧いて出てきていたが。

 今回サラーラに3泊2日間いたのは、ドファール地方に多いといわれるアフリカ系の住民の人たちに出会うこと、その昔ダウ船交易が繁栄していた跡を見たいというのが目的だった。前者の目的は果たせなかった。かなり黒いなと思われる顔でオマーン風のターバンを巻いている男や、アバヤを着ている女性は見かけたが、アラビア語の出来ない自分では話しかけられない。スワヒリ語の単語を小耳に挟んだが、それはまた別の話だろう。

 ドファール地方の港としては、廃港になったものは別として、ライスート、タカ、ミルバートが挙げられる。近代港になっていると思われるライスートはスキップして、タカとミルバートを訪ねてみた。タカは正直小さな漁村にすぎずボートもほとんど見かけなかったが、ミルバートは活気があった。浜辺一帯に船外機付きのボートが並び、魚を売っている漁師や仲買人、おこぼれを狙う海鳥も多くもいた。市場の奥の方に中型のダウ船が4隻停泊しており、乗組員たちが漁網を干したり修理をしていた。乗組員は多くインド系の顔をしていた。

 ドファール地方は紀元前から乳香の輸出でローマなどに知られていたらしい。その乳香の産地や輸出港の遺跡が、世界遺産を構成している。そのうちの海岸沿いの遺跡2か所を訪ねてみた。サラーラ市内のアル・バリード遺跡と、タカとミルバートの間にあるサムフラム遺跡だ。どちらも保存状態としては大した遺跡ではないように感じた。アル・バリード遺跡の敷地内に建てられた乳香博物館には、乳香の木が植えられ、博物館内には強い香りが立ち込めていた。また屋外には各種のダウ船の展示もあった。

 遺跡そのものは修復中で中までは入れず、周りをぐるっと回っただけだったが、海との位置関係で面白かったのはサムフラムの遺跡の方である。こちらの方はイスラーム以前の遺跡で、紀元前3世紀~紀元5世紀くらいに栄えた都市国家遺跡といわれる。ワディがアラビア海に流れ込む地点が小さな潟になっていて、細い砂州が海と川を仕切っている。おそらく満潮時には砂州を越えて海水が入ってくるのだろう。ラクダの群れが潟の水を飲んでいた。遺跡は崖の上にあり、交易船に荷物を下ろす階段があったという。後背地が砂漠、岩山で孤立した土地、一種の島のようなもので、キルワ・キシワニ遺跡の風景を思い出した。

📷 スール港に浮かぶダウ船  サラーラから早朝のフライトでマスカトに飛んだ。前回は夜行バスでマスカト~サラーラ往復をした。砂漠を横断するのを妻に見せたくて最後まで悩んだが、体力に自信がなかったので飛行機になった。

 マスカト空港で日本から来た研究者二人と合流した。現在ペンバの村に住み込んで調査をしている学生Sさんの人脈を頼りにしていたのだが、空港にはペンバ出身のNさんとモンバサ出身のAさんという2人のオマーン人が迎えに来てくれた。最初ぎこちなく英語で話していたが、スワヒリ語に切り替えて会話が弾んだ。

 翌朝、タクシーを借り上げて、マスカトからスールに向かう。28年前の地図には記されていなかった海岸沿いの快適な舗装道路を走る。「地球の歩き方」2010~11版でも道路はあるが、全部は舗装されていないように記述されているから、完全舗装されたのはここ数年のうちだろう。スール郊外の天然ガスが発見されたためだろうか?

 途中、運転手の案内でワディ・シャブを見学。私のリクエストでカルハートの町に寄り道する。14世紀イブン・バットゥータがその旅の途上上陸し、そこから砂漠になかの陸路を取った港町だ。「そこには素晴らしい幾つもの市場と数あるモスクのなかでも取り分けて一番に華麗なモスクがある」と書かれている町だが、その面影はなかった。船1隻なくただ海岸と家並みがある静かな町だった。

 スールの町に入ったのは午過ぎだったが、予想以上に大きい街だったので、ホテル探しに手間取った。スールは天然の良港で入り江に突き出した小さな半島に旧市街がある。本土側にニュータウンが広がりつつあるようだった。運転手は元軍人で、かつて5年間スールの基地に駐屯したという触れ込みだったが、街中のことはあまり知らないのが判明した。あるいは変化が激しいのだろうか?

 旧市街のホテルに宿を取り、ダウ船の造船所、ダウ船を展示してある博物館に向かう。もう夕方だったが。造船所のオマーン人と話すことができた。彼はJICA研修で日本へ行ったことがあると言っていた。2隻大型のサンブークという型のダウ船を建造中だった。注文主はカタール人。船大工はインド人(カリカットなどのマラバール海岸)。材木はマレーシア、ビルマ、そしてコンゴから持ってくるという。マラバール海岸の材木は切り尽くしたのだろうか。説明では、大型の方は全長30m、幅12m、総トン数は150トンくらい(もっとあるのではないか)、建造に9カ月くらいかかると言っていた。建造コストは訊かなかったが、完成した時の販売価格を訊いたら、15万オマーンリヤルという回答だった。約4,000万円である。用途は漁船かと訊いたら、いや輸送に使うと言っていた。

 やはり半島の海岸沿いに、1951~93年の間現役だったガンジャ型のダウ船などが展示してある博物館があった(博物館は実は準備できていなくて内部は見られず)。それ以外にも10隻以上のダウ船がスール港内に浮かんでいた。アラブのダウ船が完全に絶滅していなくて嬉しかった。入り江の対岸に吊り橋が渡され、郊外の新興住宅街が広がっていた。ペンバ人脈の一族の家もそちら側だった。

📷 イブラの近くの山村  翌日は、以前は主要幹線だったろう、マスカトへの内陸の道を走った。スールの港を海側から見ると険峻な2,000mを超える山脈が背景に見える。山越えになるのかと思っていたら、平坦なラクダがいる土地を迂回していく。今回初めての経験だったのはイブラという町の周辺の村の過疎化の現実である。スールの家族の一員であるMさんというタンガから移住してきた方に、いくつかの村や市場跡をスワヒリ語で案内してもらった。

 ある山村というべき村は長い壁で囲まれ、いくつか関門があり、密集した住居になっている。周囲の丘の頂上には物見の塔がいくつか建てられていた。1970年代まで氏族同士の対立、争いがあったようだが、その防御を優先とした村作りなのだろう。ワディが近くを流れ、そこから各戸やナツメヤシ畑にムフェレジ(水道)が引かれている。丘の上には簡素なモスクがある。美しく牧歌的に見える村だったが、水道は一部壊れ、また放棄されて荒れるにまかせた家も多く住人は少なかった。

 都会に移住してしまう若者。近くでも幹線道路沿いに新たな広い家を建てる人たちが多く、Mさんもそうで、職場はイブラの町にある日本車の代理店。ただ、Mさん(54歳)の両親の世代には、生まれ故郷の山村を離れたがらない人たちもいるという。廃屋だが権利証は各人が持っていて、他人に貸したりはできるが、全面的に補修することは費用が大変なのだとMさんの弁。10年後にこの村は無人化しているだろうか?

 Mさんは1974年、15歳の時にタンザニアのタンガからご両親、兄弟と移住してきたという。ザンジバル在住者でなかったから、革命後の迫害というより社会主義(ウジャマー)政策に見切りをつけたような口ぶりだった。オマーン移住直後は貧乏で食べるものもままならず、かなり苦労したらしい。山村に住み、初めて自転車を購入した思い出を語ってくれた。

 Sさんをイブラの郊外のMさんの家に預けて、私たちはマスカトに戻った。マスカトでは最初の日(日本から来た二人と合流した日)には、Aさんのお勧めに従って空港近くの新しいビジネスホテルに泊まった。清潔で近代的で、すぐ隣にはマスカト随一という大ショッピングモールがあった。快適ではあるが何か落ち着かず、イブラから戻った晩は、旧市街であるマトラ地区の古い中級ホテルを選んだ。すでに夜に入っていたが、マトラの町はスークをはじめ、人出が多かった。

📷 マトラ(マスカト)の街並み

 現在の大マスカト市は東西に横長く広がっている(後背地が山なので南には伸びられず、北は海)。旧市街といえるのは官庁街のオールドマスカト地区と、商業地区であるマトラ地区だ。この二つの地区は隣り合っているが、その間を結ぶ車が通れる道路が開通したのはやっと1929年だったという。マトラ地区では、背後に迫る岩山と海の間には猫の額ほどの平地しかなく、ぎっしりと家屋が密集している。

 28年前、このマトラに来て「これだったら大志を持った若者は海に出たくなるよな、緑あふれるザンジバル島なんかは天国に見えただろうな」と納得してしまったことを思い出す。現在のマトラ地区は小奇麗になり、外国からの観光客も多く往来していた。たまたまイタリアから地中海、スエズ運河、紅海を抜けてドバイまで行くクルーズ船が寄港していて、年配のカップルが多く、スルタン・カブース・グランド・モスクや博物館を見学したり、スークをひやかしていた。

 私の主要関心事のひとつである西インド洋海域世界の広がりについて、少し感じたことを述べておきたい。今回はモンバサ出身のAさん、ペンバ出身のNさん、タンガ出身のMさんのお世話になった。アラブ人は知り合い(学生のSさん)が来たら放っておけないといわれてたっぷりと面倒をみてもらった。これはアラブ人のホスピタリティなのだということなのだろうが、タンザニア人(アフリカ人)はどうなのか、日本人だって過去は…と思わないでもないのだが。

 それはさておき、マスカト在住のモンバサ出身のAさんの一族を見ると、まさに西インド洋海域世界があるのが分かる。Aさんの曾祖父はオマーンの王家であるブサイディ家の出身。モガディシオのワリ(代官)を務めたという。その後、一族はアディスアババやモンバサに長く住み、1984年にオマーンに戻ったという。兄弟が同じ地区に固まって住み、家族のように行き来しているが、使われる言語はアラビア語をメインに、英語、スワヒリ語、ソマリア語、アムハラ語など多様である。アラブ人と言ってもオマーン人だけではなく、イエメンのハドラマウト出身の女性もいた。顔も明らかにソマリア系の人もいたし、ケニアに親戚も会社も残している。ケニアやタンザニアとの往来も盛んだ。

 Nさんとはあまり話せなかったが、ペンバに里帰りすることはあるようだ。タンガ出身のイブラのMさんは、苦しかった時代の記憶が鮮明なのか、子どもたちにスワヒリ語は教えていない。本人も私たちと話すときは、スワヒリ語の単語を思い出しながら話していた。本人も二度とタンザニアに行きたいとは思っていないようだ。ニエレレの評価にどうしてもザンジバル系アラブの人たちは辛くなるが、Mさんも「アフリカ人がアラブ人やインド人を追い出してタンザニアをダメにしてしまった」ようなことを漏らしていた。

 ニエレレはザンジバルと連合してタンザニアという国を創り、ザンジバル人特にアラブ系の人たちのなかには国を奪われた気持が残っている。それがずっと伏流してきて、昨今の憲法改正論議で顕在化しているザンジバル分離派の運動だろう。しかし、ニエレレの本音は「アラブ人なんかと一緒にやりたくない」というものではなかったかと思わせることがある。つまり、それはニエレレの英国的教養、キリスト教的人道主義の背景があるからだと思う。もちろん、ニエレレは現実的な政治家だから、本音はめったに吐かなかった。

 さらにいうと、19世紀西欧で成立した陸域の国民国家の膨張が、それまで境のない交流を可能にしていた海域世界にどんどんと入り込んで来たのだ。ニエレレは海域世界という認識に乏しく、西欧社会の発想に取り込まれていたのではないかというのが私の仮説である。オマーンでお会いした人たちは、海域世界の末裔たちであった。

📷 マトラ夜景  味気ない話になってしまうが、やはり開発・発展の問題にも少し触れよう。オマーン・ルネッサンスと呼ばれる近代化は石油・天然ガスの収入に負っている。豊かに見える半面、カタールやUAEほどではないにせよ、オマーン人が肉体労働に従事する比率が減り、昼の街中ではインド系の人々が目立つ。コスモポリタンなインド洋海域世界が現出しているのである。ザンジバルをはじめとした東アフリカからの移住者も、フィリピン人などのお手伝いさんを家庭内で雇用したりしていて、それなりの豊かな生活を営んでいるように見える。

 その指標としてGNIよりも一人当たりのGDPの方が有効のように感じるので引用してみる。IMFの2012年の数字である。オマーンは$25,356で世界30位である。ほかのアラビア湾岸の国としては、カタール、UAE、クウェートなどが上位にいて、オマーンはサウジアラビアと同じレベルである。ちなみに、日本は$46,643、米国は$48,761、タンザニアは$629、ケニアは$967となっている。さらに比較すると石油の出ないイエメンは$1,367、インドは$1,501、パキスタンは$1,261で、スリランカだけは$2,876と少し高いが、バングラデシュは$797、ネパールは$690と低い。

 数字だけで判断するのは危険だが、インド系の人たちが出稼ぎに大挙してきているのは納得できる。そして、スワヒリ系の人たちもタンザニアの40倍の収入があれば、そこそこいい生活ができるだろう。もちろん個人差はあり、また今は余裕のあるように見えるイブラのMさんも少年・青年時代にはかなり苦労したであろうと思われる。Mさんは非常に小柄で痩せている。夫人も大柄ではないが、息子さんはかなり長身大柄である。これは全く私の誤解かもしれないが、成長期ににちゃんと食べられなかったのかなと思った。タンザニアはこれから天然ガスの収入をどう生かして、どういう発展の道を選ぶのだろうか。

 今回はスールに初めて行き、ダウ船が少数ではあるがまだ現役でいるのを見ることができた。しかし、28年間、急速に状況は変化している。今回は行けなかったニズワなどの高原地帯も大幅に変わっていると聞いた。19世紀はオマーンの山中から若者はザンジバルを目指した。今は逆になって、オマーンとザンジバルとの経済格差はかなり開いたということなのだろう。

 若い時は「見落としたら、また来ればいいのさ」という旅のスタイルで、貪欲に全部を見てやろうという旅ではなかった。しかし自分の持ち時間が残り少なくなってきているのを自覚するにつけ、還らない旅になってきている。2011年に行ったモンバサ、マリンディの旅、昨年のウジジ、タボラというキャラバンルートの旅の続きである。「これがもう見納め」と」いう旅をいつまでも続けられたらいいのだがと、虫のいいことを考えつつ。

☆参照文献☆  ・Chirstiane Bird "The Sultan's Shadow"(Random House,2010)  ・Alan Villiers "Sons of Sindbad"(Arabian Publications,2006)  ・Saud bin Ahemed al Busaidi "Memoirs of an Omani Gentleman from Zanzibar"(Al Rolya Press,2012)  ・イブン・バットゥータ著、家島彦一訳注『大旅行記-3』(平凡社東洋文庫、1998年)  ・家島彦一『海が創る文明』(朝日新聞社、1993年)

★追加情報もあります。

隣国事情「オマーン」

(2014年1月1日)

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