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Habari za Dar es Salaam No.143   "Miaka 50 ya Mapinduzi Zanzibar" ― ザンジバル革命50周年―

根本 利通(ねもととしみち)

 2014年1月12日、ザンジバルは革命50周年を祝った。50年経過した今、その革命の歴史的評価が問われるようになった。何が達成され、何ができなかったか?あるいは失われたものがあるのか?これからどこへ向かうのか?

📷 革命50周年式典 『The Citizen』2014年1月13日号  新聞報道を追ってみよう。まずは中立系の英語紙『The Citizen』による。1月8日からザンジバル革命50周年特集が始まった。初日は「ザンジバルの女性は革命によって地位、権利を与えられたことをいかに感謝しないとならないか」というタイトルであった。初代大統領アベイド・カルメ夫人で、第6代大統領アマニ・カルメの母でもあるファトゥマ・カルメとのインタビュー記事である。ファトゥマ・カルメは、ニエレレ初代タンザニア大統領の夫人だったマリア・ニエレレと違って表舞台に立つことは少なかったように思う。夫のカルメが1972年に暗殺されて久しいからだろうか。「革命前には、女性の教師は2人、政府機関には5人もいなかった。女は夫の帰りを待つことしかできなかった」という。今は公的な場所で女性は男性と張り合うようになってきたと革命の成果を称賛する一方、女性同士の足の引っ張り合い、女性・子どもの虐待の問題が増えてきていることを嘆いてもいる。

 2日目のインタビューには大物が登場した。バブなどとZNP左派からウンマ党を結成し、最初の革命評議会の第一書記を務めたサリム・ラシッドである。記事のタイトルは「ザンジバルは連立政府を強固にするために新憲法を必要とする」である。まず革命50周年の成果を尋ねられ、民族的・階級的差別をなくし自由を達成したことは認めた。しかし、衛生的な水、無料の電気、医療、質の高い教育の提供という目標は達成していないとする。第1期(初代カルメ政権の1964~72年)の人権侵害も認めている。「1979年までザンジバルには憲法もなかった。憲法とは社会契約である」という。

📷 サリム・ラシッド 『The Citizen』2014年1月9日号

 サリム・ラシッドは14人委員会が転覆計画を練ったとか、ニエレレなどの外部の人間が3カ月前から準備したという説を否定し、ザンジバル人による革命を主張する。革命後の要人だったハンガなどが明白な理由もなく殺された。よい意図を持って始まった革命がコースを外れたのは強権的大統領制、民主主義の欠如によるとする。新憲法によりザンジバルの自治が大幅に認められれば、モーリシャスのような自由港を導入すべきとする。

 3日目のインタビューにはアベイドとスレイマンという若者2人が登場する。ザンジバルでは若者が大多数を占めるのに、その声が反映されず、教育も十分に受けられないと主張する。年配者たちが権力を手放さないため機会が与えられない。アベイドは「ザンジバル革命は間違いだった」という。1963年の独立後の政権は若者に奨学金を与え海外留学が始まっていた。しかし革命後はそのポストはタンガニーカに渡された。また知識人の海外流出や一部の抹殺も挙げている。

 スワヒリ語紙『Mwananchi』は記念日当日の12日に12ページの大特集を組んだ。医療・インフラなどの発展、政治の変化などの記事もあるが、やはり注目されるのは、革命に参加したワゼー(年寄り)の回顧、証言で、6人が登場している。ファトゥマ・カルメ、サリム・ラシッドはこちらにも登場している。証言者の年齢は、それぞれ76歳、89歳、94歳などとなっている。90歳前後の方がたはともかく、70歳代の方がたはまだ元気で野心もあるのかもしれないなとふと思う。

 まず、ハッサン・スレイマン・ハッサン(76)。当時公共事業省の公務員、水道の職人だった。革命前夜、ASP指導部が、3つのクラブ(ラハレオ、ミチェンザーニ、ミエンベーニ)で、アフリカン・ダンシング・クラブとルサカ・ジャズ・バンドとザンジバル・ジャズ・バンドが同時にコンサートを開くフェスティバルを計画した。これは英国人の警官が、「アフリカ人の知恵は音楽とダンスばっかりで…」と革命のの陰謀に気がつかせないのに役立ったという。また前日、当日とASPの兵士たちが、反対党の支持者を捕まえて、ラハレオの学校に監禁したのも見かけた。ASPの兵士の多くはタンガニーカ出身で、第二次大戦で従軍した経験を持っていたという。

📷 ハッサン・スレイマン・ハッサン 『Mwananchi』2014年1月12日号  革命2日後に招集された公務員としてスルタンの宮殿の修理に行く。スルタンの部屋の壊されたドアの修理をするのだが、略奪され荒らされた室内に、高価なヨーロッパのワインだ多数秘蔵されているのを見つけた。革命前に、スルタンの妃がハッサンの上司の言葉づかいをとがめて、鞭打ちの罰を与えたことも語る。しかし彼自身は「スルタン・ジャムシッドはいい人だった」と、スルタンの家の仕事をした時には、一人10セントのチップをもらったことを思い出しているのが何ともいえない。

 次いでイブラヒム・アマニ(89)。14人委員会の生き残りの3人のうちの一人だという。ASPの攻撃が成功したのは、ザンジバル外の人間の多くが勇敢に協力したからだという。革命の日300人で出発したが、実際に襲撃に参加したのは30人まで減っていたという、ザンジバル人は憶病なのだ。ジョン・オケロも作戦部長のアブダラ・サイディ・ナテペが、サイディ・ルムンバを送ってリクルートしたという。革命の声明をオケロにやらせたのは、通説通りオケロの外国人のアクセントを利用したためだという。革命の1ヶ月前にガソリン代として300シリングをカルメに要請した。しかし、党の財政にはその金はなく、結局イブラヒムは土地を売り、もう一人ラマダーニ・ハジ・ファキは植民地兵士としてもらった退職金を供出したという。

 次いで、シャアバーン・フセイン(94)。現在もストーンタウンから見ると東の郊外のドーレの住人。革命時、ドーレとバンビという土地が肥沃でアラブ人の大農園があった地域で、激しい戦闘が起きたという。シャアバーン老は、前日マコンデ出身の人から連絡を受け、襲撃に参加する。銃器を持つ敵に対し、刀、斧、弓、槍、石などを武器に襲撃を仕掛けるのだが、マコンデの儀式を行い、恐怖心を鎮めたという。戦いで死んだ味方は井戸に放り込み、敵はその場で殺したという。

 最後に登場するのが、ラマダーニ・スレイマン・ンゾリで、元植民地軍の伍長だったという。警察の幹部と通じてジワニ警察署の武器庫の鍵を石鹸に型を取り、それを後に14人委員会のメンバーとなるセイフ・バカリ・オマリに渡したという。そして1月11日夜の当番を買って出て、示し合わせた通り12日午前2時に襲撃してきた若者たちを導き入れ、武器庫の武器を渡したという。もう一人の当番だったワジリ・スレイマンも仲間だった。ASPのジャンゴンベ支部から出た若者たちは、ムトーニ、ジワーニ、マリンディの3か所の警察署を同時襲撃したのだが、ストーンタウンの入り口のマリンディでは激しい戦いになり、顔と顔が見える白兵戦となり、多くの者が死んだという。

📷 ラマダーニ・スレイマン・ンゾリ 『Mwananchi』2014年1月12日号  革命の成果、進歩、評価については軽く触れられている。衛生・医療条件は大幅にアップした。病院・診療所の数も増えたし、マラリア対策も進んだ。清潔な水道水を飲める村も増えた。が、「無料の水道水」という公約が守られていないという批判は根強い。大学4校を含めて学校の数も大幅に増えた。ダルエスサラーム大学に進学しないといけなかった1970~80年代に比べて進歩だろう。しかし、教育の質は低下し、ザンジバルの大学生のレベルではほかの国の大学には通用しないといわれている。

 道路、空港、港湾などのインフラも改善されたと言われる。確かに数字上はそうだし、近年、ウングジャ島の地方にもいい舗装道路が通りだした。しかし、2008年にペンバ島に行った時、幹線道路すら穴がいくつも開いていて、植民地時代から補修されていないのではないかと疑うような状態の道路もあり、これが革命で敗れた側に対する仕打ちなのかと思ったものだった。さて、それから5年経過しているし、ペンバ島出身の初の大統領が生まれ、ペンバ島を地盤とする野党が連立政権に入ったのでどう変わったかを見てみたいと思う。

 革命の最大の売り物だった土地改革の問題。アラブ人の大農園を小作農に3エーカー単位で分配した。しかし、その土地が生産に向かわずに転売されたり、遊休地になって、農業生産は低下した。今や政府幹部などに広大な土地を保有している人たちがいて、その人たちは革命の指導層だった人たちで、土地なし層からは不満が強い。 

 ザンジバル人は政治好きだと思う。小さな島国で、激しい政争が独立前から繰り返されてきた。50年前の革命はそれが最も激しい形で噴出したのだが、その傷は人びとの心の底に潜んでいて、何あると表に出てくる。1992年から導入された複数政党制下での2005年までの3回の総選挙で勢力拮抗する2政党が激しく争い、毎回与党が勝ったことになり、ペンバ島地盤の野党が敗北した。その度にペンバ島で暴動が起こり、多くの人が殺されたり、ケニアに亡命したりした。

 2009年に2大政党間に和平協定が成立し、2010年の総選挙では大統領・議会選挙で争ったものの、選挙後は連立政権を樹立して流血はなかった。しかし、「アラブの春」の原因の一つである、若者たちの失業率の高さはザンジバルにも存在する。ザンジバル経済は観光業とクローヴ価格の安定で好調を保っている。しかし、観光業もほとんどが外国資本で従業員にもケニア人などがそこそこいて、ザンジバル人の雇用拡大にどれだけ貢献しているのかは不明である。したがって宗教的な装いを取りながら、若者たちの不満を煽る勢力が存在し、騒擾の不安は常に存在している。

 現在進行形での不安は、現在制憲議会で審議されている新憲法の行方だろう。特に最大の関心は、現在の「二つの政府」を「三つの政府」に変えるという国家の大きな枠組みの変更だ。つまり、現在はタンザニア連合政府とザンジバル自治政府という二つの政府なのだが、新たにタンガニーカ政府を創設し、三つの政府体制にして、ザンジバル政府の権限を強めようとする案が新憲法草案になっている。これは1984年にザンジバル第二代大統領だったジュンベが提案し、ニエレレの逆鱗に触れ、すべての公職の辞任に追い込まれた過去を思い出させる。30年前と同じ案ではないし、同じ状況ではない。しかし、与党のCCMは「二つの政府」の現状維持案で行くようだ。そうするとザンジバルの分離志向は強いから激しい対立を生み出しそうだ。

📷 若者たちによる騒擾 『The Citizen』2014年1月10日号  上記の新聞記事は、報道を私の関心事項に添って要約したものである。事実の点検、反証はほとんどできていない。記者の要約の際の鵜呑み・偏見・独断はあるだろうし、ワゼーたちの過去の美化、自己弁護、あるいは成功者への妬みは間違いなくあるだろう。そういう個人の価値判断に基づくものは別として、50年前の事実が語られているとしたら貴重だろうと思う。

 革命で殺された人たちの証言はもちろんない。弾圧された側でザンジバルに残って生きることを選んだ人たちの口は重い。また当時革命派であっても、その後政権側から離脱した人たち、あるいはタンガニーカ出身者かザンジバル人かによっても証言内容は異なってくるだろう。ザンジバルを諦めてにオマーンやドバイに亡命した人たちの回顧録はあるが、革命前のザンジバルがいかにコスモポリタンでよかったかというノスタルジアのような話になりがちである。なぜ革命が起こったのかというのが見えてこない。例えば、Saud bin Ahmed al Busaidi"Memoirs of an Omani Gentleman from Zanzibar"などが挙げられるだろうか。

 私の大きな関心事は、ザンジバル革命への本土(当時、タンガニーカ)勢力の関与の度合いである。Ghassany"Kwaheri Ukoloni, Kwaheri Uhuru"では詳しい調査の結果が書かれている。その中で著者は、「これは革命ではなく、アフリカ大陸本土からの攻撃だった」と断じている。脚本を書いたのはカンボナ(TANU)とハンガ(ASP)で、カルメやバブは立案には参画していない。しかし、ニエレレは間違いなく了承していたはずという意見だ。この本のなかでは、イブラヒム・アマニは革命に参加していないとされている。だいたい14人委員会なるものが、革命の主体であったのか、実際の実行部隊の隠れ蓑であったのかすら定説がない状況だ。

 18~19世紀のインド洋奴隷貿易、クローブなどの大農園の奴隷制の過去を引きずっていた革命前のザンジバルのことを美化してはいけないのだろう。しかし、革命の遺産が見えなくなりつつある今、現在の為政者は厳しく批判されないといけないだろう。政治の駆け引きはあるだろうが、ザンジバルの人びとが自ら判断して行方を決められるように願う。

 ザンジバルは19世紀後半は、インド洋西海域世界の精華と謳われた時代があった。風待ちの島でコスモポリタニズムの結晶という評価だ。東はグジャラート、イラン、オマーン、イェメンから、さらにソマリアやエチオピア、西のコンゴや南のコモロ、モザンビークから多様な文化を持つ人びとが到来し、短期長期に居住し、混淆し、それなりの調和と共存の社会を生み出していた。50年前の革命でその調和は崩れた。しかしザンジバルのそこかしこにその名残は残っているし、その血を引いた人びとはインド洋西海域世界に広がっている。寛容と和解でそれが再現されることをどこかで期待する思いはある。しかし、海底に眠る天然資源を狙って、巨大な陸域国家が洋上の無人の小島の所有権を争う現代である。コスモポリタニズムではなくグローバリズムという覇権主義が優勢だ。

 おまけである。1月12日の革命記念日は日曜だった。翌日の13日はMaulidという預言者ムハンマドの誕生日を祝うイスラームの祭日で、BAKITA(タンザニア・イスラーム協会)もそのように発表していたのに、一転して数日前に14日(火)が祭日となった。そこで13日(月)は平日=労働日となり、ムスリムには何となく不満が残った。しかし、12日革命記念日の式典で、キクウェテ大統領は「50周年を記念して明日も休日」とやったらしい。真偽は不明だが、日曜日夕方に私は「明日も休日」と知らされ唖然とした。講師が急に休みで休講になって喜ぶ学生ではないのだがな…と。

☆参照文献☆ ・『The Citizen』2014年1月8日~13日、15日号 ・『Mwananchi』2014年1月12日号 ・『The Daily News』2014年1月13日号 ・Issa G.Shivji"Pan-Africanism or Pragmatizm?― Lessons of Tanganyika-Zanzibar Union"(Mkuki na Nyota Publishers,2008) ・Harith Ghassany"Kwaheri Ukoloni, Kwaheri Uhuru"(2010) ・Saud bin Ahmed al Busaidi"Memoirs of an Omani Gentleman from Zanzibar"(Al Rorya Press & Publishing House、2012)

(2014年3月1日)

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