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Habari za Dar es Salaam No.145   "Mzee Ally Sykes alifariki dunia" ― ムゼー・アリ・サイキ自伝 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 ムゼー・アリ・サイキ(Ally Kleist Sykes)が、2013年5月19日ナイロビのアガカーン病院で亡くなった。享年87歳。死因は心臓と肺臓の不全と報道されている。

📷 葬儀の様子 『The Citizen』2013年5月21日号  アリ・サイキは1954年のTANU(タンガニーカ・アフリカ人民族同盟=現在のタンザニア政権与党のCCMの前身)の17人の創立メンバーの一人である。党員番号1番は故ムワリム・ジュリアス・ニエレレであったが、2番はこのアリ・サイキだったという。筋金入りの独立運動の闘士がまた世を去った。

 5月20日、埋葬はダルエスサラームのキストゥ墓地で行なわれた。数千人の参列者があり、キクウェテ大統領は、ムウィニ元大統領、ムカパ前大統領、ワリオバ元首相、マングーラCCM副議長、ボマニ元最高裁判事などを率いて参列した。弔辞のなかで「独立闘争における測り知れない貢献」と述べたという。国葬ではなかったが、国家・政権与党による敬意を込めた葬儀だったようだ。

 モハメッド・サイディの聞きとりによるアリ・サイキ自伝があるそうだが、未刊行である。英語紙『The Citizen』でその一部が4回にわたって掲載されたので、それを簡単に紹介してみたい。スワヒリ語紙での連載はなかったので、元から英語なのか、あるいはスワヒリ語からの翻訳なのかは不明である。なお、モハメッド・サイディはアリ・サイキの兄であるアブドゥルワヒド・サイキの伝記を著した作家である。その場合は元は英語であった。

 自伝ではまず父方の祖先を語っている。祖先は南アのズールー民族のシャンガーン氏族に属する。ズールーのシャカ王の争乱(1820~28)の時代にモザンビークに逃れて定着した。祖父であるサイキ・ムブワネは、べルリン会議によるアフリカ分割後のドイツ領東アフリカの起こった反乱(アブシリの乱、ムクワワの乱など)鎮圧のため、ドイツのビスマン司令官の徴募に応じた首長モホシュに従ってやってきた傭兵であった。父のクレイストは1894年パンガニに生まれた。祖母は中部タンガニーカのニャトゥル人であったという。

 クレイストは祖父の死後、モホシュ首長を保護者としてダルエスサラームに移住する。12歳の時にすでにドイツ軍に入り、第1次世界大戦勃発後はドイツ軍兵士として英国軍と戦った。1929年(異説あり)創立のアフリカ人協会(AA)の初代書記長を務めている。アリは1926年ダルエスサラームに生まれた。2歳上の兄にアブドゥルワヒドがいる。第二次大戦が勃発すると、1942年兄は徴兵され、王立アフリカン・ライフル連隊に参加し、ナイロビで訓練を受けた。息子たちを隠す親もいたというのに、ズールー戦士・傭兵の血が騒いだのか、まだ15歳のアリは親に黙ってキルワ・ロードにある軍の募集所に出かけ登録した。「大柄だからもっと年上に見られるだろうと思っていた」というのが本人の述懐である。

📷 若き日の肖像 『The East African』2013年6月22-28日号  親の反対を押し切って入隊したアリは、ナイロビで訓練を受けた後、東アフリカ教育部隊に配属され、1943年モンバサからインドに向けて船出する。セイロンの手前で英国の輸送船が日本軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没し、乗員が水死した事件がタンガニーカに伝わり、そのなかにアリの名前はあり、息子2人を戦場に送っていた母のムルグル・ムッサは泣き伏したという。それは誤報であったようで、アリはコロンボで兄と感動の再会を果たし、その後2人はビルマ戦線に投入され日本軍とインパールなどで激戦を戦った。兄のアブドゥルワヒドはアフリカ人最高位の上級曹長まで昇進し、勲章をもらったという。

 大戦が終了し、インドで除隊し帰還を待つタンガニーカ出身の第6大隊の兵士のなかで、英国からの独立運動、新しい政党(TANU)案が議論されていたという(カリエニ合意)。アリはまっすぐタンガニーカに戻らず、モンバサで下船し、しばらくケニアにいた。ナイロビではセントラル・ホテルに泊まっていたという。ゴア人所有のそのホテルは、アジア人クラスと言われ、ギクユ人やルオ人は泊まれなかった。しかし、アリはズールー人で「上級アフリカ人」と分類されていたので泊まれたという。

 1946~48年のことである。アリは親しくなったギクユ人のタクシー運転手ジェームス・カリウキと一緒に、ンゴング、リムル、キアンブへと夜に動き回る。当時はまだマウマウ戦争の開始前だったが、秘密結社の宣誓は始まっていたのだろうか?ビルマ戦線で名を売った「中国将軍」の名前も出てくる。またジョモ・ケニヤッタ、トム・ンボヤ、ビルダッド・カギア、W.W.アウォリなどとも会い、英国からの独立運動の相談をする。トム・ンボヤに自国の運動に貢献するように勧められて、1948年タンガニーカに帰国した。

 帰国後、植民地政府の労働局で働くのだが、1951年にタンガニーカ・アフリカ人公務員協会(TAGSA)の書記に選出される。1951年タンガニーカを訪れた国連の信託統治委員会に出した請願書が問題視され、カワワなどの何人かの役員は転勤命令を受ける。アリもムトワラへの転勤命令を受けるが拒否し、厳重な監視を受けることになる。しかし、ガリ版でニュースを印刷する大衆情宣を続けた。1952年にニエレレが留学から帰国し、カセラ・バントウゥーが仲介して、カリアコーにあるサイキ兄弟の家を訪れた。その後、ニエレレはTAA委員長となり、1954年7月7日、TANUに組織替え・政党化することになる。TANUの会員証の3番はアブドゥルワヒド、4番はドッサ・アジズ、7番はジョン・ルピアだったという。5番はニャサランド人、6番はケニア人ということで、当時の英国領東部アフリカ植民地の独立運動の状況をうかがわせる。TANU創立の17人のメンバーの一人だということで、今度はコログウェ転勤命令を受け、日曜日にトラックで移動させられたという。

 『The Citizen』での連載は、4回で唐突に(のように感じた)終わった。TANU創立以降のアリ・サイキの動向については触れられていない。しかし6月下旬、ケニアで発行されている東アフリカ地域紙『The East African』に特集が組まれた。モハメッド・サイディによる文章である。

📷 晩年の写真 『The Citizen』2013年5月23日号  そこでは、インドで除隊後なぜアリがまっすぐタンガニーカに戻らず、ケニアで降りたかが説明されている。アリはナイロビの英国人の会社(広告や不動産業)で働いていたのだ。その間に、その英国人オーナーの下で音楽バンドを作り、ビルマ戦線で覚えたサックスを吹いたりしていた。またコカコーラやシェルなどの宣伝もしていた。

 アリはタンガニーカに戻り、公務員になるのだが、同時にそのナイロビの会社の代理店を務め、裕福になって行く。1960年にその英国人(コルモア)をニエレレに紹介し、ビジネスの便宜を図ろうとする。しかし、当時コンゴ動乱が進行中で、ルムンバが殺されたらしいというニュースが入り、ニエレレはかなり神経質になっていて会談はうまくいかなかったという。

 そして、1967年のアルーシャ宣言で公務員の副業や株の保有、貸家が禁じられ、1971年に不動産の国有化が行なわれ、アリやその母は財産をかなり失うことになった。1967年すでに国家からの圧力はあったのだろう、母のムルグル・ムッサは「お前やアブドゥルワヒドとニエレレの間で何がうまくいっていないのかい?」と尋ねたという。しかし、アリはその後も国外には、モントリオール、オタワ、ロンドン、ヨハネスブルグ、ハラレ、ナイロビなどに不動産を所有し、ナイロビで亡くなった。ダルエスサラームに葬られたが、それが彼の本意であったかどうかは不明である。

 私がアリ・サイキの名前を初めて認識したのは、川端正久氏の『アフリカ人の覚醒』(2002年刊)でだと思う。この大著はタンザニアにおける民族運動の発生・展開を細かく文献を追ってまとめられた労作である。この本の特色の一つに、「タンザフィリア」=ニエレレ偉人伝説批判がある。その議論の是非は措くとして、その論拠の一つに挙げられたのがアブドゥルワヒドとアリのサイキ兄弟の存在であった。

 アブドゥルワヒドとアリのサイキ兄弟(末弟にアッバスがいる)が、TANU創立のメンバーであり、特にニエレレを迎え入れた立役者であったにもかかわらず、1960年代後半~70年代に編集されたタンザニア歴史協会編集の近現代のの概説書にはサイキ兄弟の名前がほとんど、あるいは書物によっては全く出てこないのはなぜか?それはアルーシャ宣言以降、社会主義化の道を選んだタンザニアが、ニエレレ偉人神話によって困難な国家運営の求心力を狙ったのだろうか?サイディ著のアブドゥルワヒド伝記によって、TANU創立後の兄弟の足跡を追ってみたい。

 と思ったのだが、アブドゥルワヒドの自伝でも、1954年以降のタンザニアの歴史の動き、音楽・女性・スポーツなどの独立運動への貢献、制憲議会、複数政党制による選挙などが述べられているが、サイキ兄弟のことは全く出てこないのだ。1961年の独立以降は、東アフリカ・ムスリム福祉協会(EAMWS)が国家によってその活動を制限されていき、その流れに抵抗したムスリムの独立運動の闘士でニエレレと親しかったテワ・サイディやビビ・ティッティが失脚していく話しか出てこない。アブドゥルワヒドの自伝であるにもかかわらずである。これは意図的な空白だろう。

📷 Abdulwahid Sykesの伝記  テワやビビ・ティッティが失脚するのは1968年で、アルーシャ宣言が出た翌年で、その実行の流れのなかである。「結び」の章のなかで、1968年10月に死去したアブドゥルワヒドが最後にニエレレと会談した話が挿入されている。EAMWSへの迫害が頂点に達していた時であり、ダルエスのムスリムでアブドゥルワヒドの知人も逮捕・拘禁されていた。この会談の内容は明らかではないが、アブドゥルワヒドはニエレレを初めてダルエスに迎え入れたのはムスリムの町の有力者・商人たちであったことを強調し、穏便な取り扱いを要請したのではないだろうか。それに対してニエレレは沈黙、あるいは拒否で応えたのだろう。

 アブドゥルワヒドが亡くなったのは10月12日である。もしニエレレとの会談が本当に10月に行われたのだったら、死の床から起き上がっての要請だったのだ(死因は書かれていない)。その葬儀はダルエスで生まれ育ったアブドゥルワヒドの人脈・人徳でゲレザニ、カリアコー地区一帯はもちろん、大勢の参加者で壮大なものになった。身の安全を心配した公安警察は、ニエレレに参加を見送るように忠告したが、カワワ首相は先行して下見し、参列を勧めた。旧友のジョン・ルピアやチーフ・フンディキラもナイロビから戻って参列した。ニエレレは棺に従って歩き、キトゥンビニのモスクで祈りがささげられている間は、外でじっと立って待ち、勧められた椅子も断り、たびたびハンカチで目をぬぐっていたという。

 アルーシャ宣言とウジャマー社会主義の導入という国家事業の実施のなかで、カンボナだとかテワたち有力な反対者は国家の中枢から去った。すでに第一線を引いていたサイキ兄弟も完全に影響力を失ったのだろうか。独立運動の初期には、ダルエスサラームの町の経済力のあるムスリム勢力の支援が必須だったのだろうが、社会主義化の方針のなかでは足かせになったのかもしれない。

 国家事業の推進のためには、指導者の偉人・神話化が必要とされることはままあることだろう。しかし、権力者あるいはその取り巻きによる歴史の歪曲は放置してはいけない。もちろんモハメッド・サイディのイスラーム被害者論の主張は、一方的に思える部分もあり、再検証が必要だろう。しかし、ニエレレが亡くなって15年、そろそろ神話の呪縛から解放されてもいいだろう。これは現在マンデラが神格化されている南アでも同じことだろうと思う。5月にある総選挙でズマの率いるANCが、その遺光を利用して信任を得られるかどうか。

 グギ・ワ・ジオンゴの小説『泣くな、我が子よ』には、やはりビルマ戦線に投入され生還した元兵士たちが、マウマウ戦争に向かう姿が描き出されている。ケニアでもタンザニアでも第二次大戦従軍兵士としての経験が独立運動に大きく寄与したことは間違いない。しかしその成果は、宗主国との独立交渉、憲法制定の過程で、ケニヤッタとかニエレレのように英国留学した知識人に摘まれることになった。

 ムゼー・アリ・サイキの死去からもう1年経つが、依然、自叙伝『英国の植民地主義の影の下で』は刊行されていないようだ。書店に行くと探してみるのだが並んでない。刊行されないのが「硬い本は売れないから」であるのならいいのだが、ナイロビで出版されるなんてことになると嫌だなと思う(アブドゥルワヒドの自伝は英語版はロンドンで、スワヒリ語版はナイロビで刊行された)。早く出版されることを期待したい。

 この話はもはや旧聞に属することになってしまった。事件を知った時、興味を感じた時に、まとめてみようと資料を揃えるのだが、なかなかまとまらない。象牙の密猟とか、教育制度の改革とか、EAC内部の軋みとか、興味を惹く事件は多いのだが、まとめるのは数か月以上も経った後でニュース性は失われている。この「通信」は日本などにいる知人・友人へのタンザニアからの便り・知らせというつもりで始めたのだが、最近は私自身のための備忘録、後日のための資料という性格が強くなってしまった。お許しを乞いたい。

  ☆参照文献☆  ・『Mwananchi』2013年5月21日号  ・『The Citizen』2013年5月21日~24日、26日号  ・『The East African』2013年6月22-28日号  ・Mohamed Said『Maisha na Nyakati za Abdulwahid Sykes』(Phoenix Publications,2002)  ・川端正久『アフリカ人の覚醒』(法律文化社、2002年)  ・I.N.Kimambo & A.J.Temu Eds.『A History of Tanzania』(East African Publishing House,1969)  ・M.H.Y.Kaniki Ed.『Tanzania under Colonial Rule』(Longman Group Ltd.,1979)

(2014年5月1日)

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