• 白川

Habari za Dar es Salaam No.152   "Siri ya Viatu vya Madiba" ― マンデラの靴の秘密 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 南アフリカのネルソン・マンデラが亡くなってからもうすぐ一周忌がやってくる。タンザニアの新聞に追悼記事は出るだろうが、敬愛される「南ア建国の父」という形で、「タンザニア建国の父」ニエレレと並んで追慕されるだろう。私個人の感想は、『現代思想ーネルソン・マンデラ』で記したが、マンデラとタンザニアとの関係を少し記録しておきたいと思う。

📷 靴の返還(1995年12月) 『Mwananchi』2013年12月16日号  昨年12月15日の南ア東ケープ州のクヌ村にマンデラが葬られた時のタンザニアの新聞の報道である。「マンデラの靴の秘密」。秘密といっても他愛のない話で、1962年にマンデラがタンガニーカ(当時)を訪れた時に、タンザニア人の家に忘れていった靴をその夫人(未亡人)のヴィッキー・スワイが1995年にマンデラに返却した記憶を再度その夫人に語ってもらった話であった。

 15日の『The Citizen』(英語紙)、16日の『Mwananchi』(スワヒリ語紙)に掲載された記事は、同じUbwani記者によるインタビューによるものである。

 1962年初め、タンガニーカが独立を得て数週間後にマンデラはダルエスサラームにやって来た。ホテルではなく当時のタンガニーカ独立政府の最初の内閣の産業大臣であったンシロ・スワイのオイスターベイの住居に泊まった。当時、スワイは独身で、ヴィッキー夫人はその時はカレッジを卒業して役所の秘書を始めたばかりのガールフレンドだった。結婚したのはその年の後半で、この時は手伝いに呼ばれたのだった。

 しかし、スワイは大臣としてではなく、TANU幹部(財政担当)として賓客を泊めたのだとヴィッキー・スワイは断っている。その家には4つの寝室があり、マンデラ以前にも南部アフリカの自由戦士たちーケネス・カウンダ(ザンビア)、ジョシュア・ンコモ(ジンバブウェ)、オリバー・タンボ(南ア)、エドワード・モンドラーネ(モザンビーク)などが利用していた。マンデラは当時43歳、その賓客たちのなかでも二枚目で、いつも笑顔で冗談好きで人を笑わせていたという。ウガリとムチチャ(緑葉菜)やキサンブ(キャッサバの葉)を喜んで食べていた。また、ヴィッキー・スワイをツワナ人によく似ているとからかっていたという。

 マンデラがこの家に泊まっていたのは3晩か4晩らしいが、ニエレレを含むTANU幹部と何回も会談した。その話題は、南アフリカおよび南部アフリカのほかの国々の解放闘争の情勢分析ことばかりだった。ANCはその前年、ウムコント・ウェ・シズウェという武装闘争を開始したばかりだった。マンデラはこの後タンガニーカのパスポートでナイジェリアのラゴスに飛び、その後アディスアババで開かれたPAFMECA(パンアフリカ自由運動東・中央部アフリカ)会議に参加し、ANC代表としてスピーチすることになる。

📷 Vicky Swai 『The Citizen』2013年12月15日号  マンデラはまたダルエスサラームに帰ってくると言い、周りはそれに反対していた。マンデラがスワイ氏の家に残していった衣類の入ったスーツケースと靴があった。衣類は、その後ダルエスサラームに開かれたANC事務所の若者に分けられたらしい。しかし靴はスワイがタンザニア政府を辞め、国連(ニューヨーク)に移動した後も一緒に移動し、1995年マンデラが南アの大統領の時に、ジョハネスバーグまでヴィッキー・スワイの手によって届けられたという。この時も南ア内ではちょっとした記事になったらしい。マンデラは「やぁ、この靴は自分より長旅をしてきたんだ」とその場で履いて歩き、ちょっと踊ったという。現在はソエトのマンデラ博物館に飾られているらしい。

 この1962年のマンデラのタンガニーカ訪問の話はファティーマ・ミーア著『こぶしは希望より高く』の第19章「アフリカへの使節」にも載っている。「タンガニーカの閣僚を務めていた親友の家に泊まれるように手配してくれた」(P.263)とある。タンガニーカはつい1ヶ月ほど前の1961年12月9日に独立したばかりのほやほやの新興国だった。

 マンデラはこの時ニエレレと非公式に会談している。場所はニエレレの自宅であったのか、スワイ大臣の自宅で会ったのか、あるいは双方であったのかは不明である。日付であるが、「ニエレレが首相でなかった時」という記述がある。ニエレレは独立タンガニーカ政府の初代首相になったのだが、1月22日突然声明を出して、ラシッド・カワワを後任に指名して辞任した。そして上述のPAFMECAの会議が2月2日からアディスアババで開かれているから、そしてラゴス経由のことを考えると、1月22日からの数日間のことであろう。

 この時、マンデラは南アからベチュアナランド(現在のボツワナ)にパスポートなしで国境を越えた。ベチュアナランドからタンガニーカまでチャーター機で飛んだらしい(資金は?)。途中ムベヤで給油したようだが、タンガニーカが最初のアフリカ人の独立国だったわけだ。「自分の国では決して経験したことがないような安楽感と、解放されたアフリカへの帰属意識を感じていた」(P.261)。この話は別の自伝『自由への長い道』にも書かれているようだから、マンデラの偽らざる感慨だったのだろう。

📷 かつてのSOMAFCOを訪れた南ア・モトランテ副大統領 『Mwananchi』2014年12月16日号

 マンデラではなく南アとタンザニアとの関係でいえば、かつてのSOMAFCO(ソロモン・マシャング自由学校)のことを思い出す。1976年6月16日のソウェト蜂起の後、多くの若い学生が国外に逃れた。タンザニアはそれまでにもANC、PACの亡命組織を受け入れていたが、1976年以降大量の若者が流入してきた。SOMAFCOはその当時、モロゴロ郊外マジンブ地区にあったANCの若者のための学校及び訓練所だった。1978~1992年の間存在していた。

 私は1984年からタンザニアに住んでいるが、SOMAFCOには何回(3回?)か行ったことがある。日本の反アパルトトヘイト運動(JAAC)や部落解放同盟の支援物資を届ける橋渡しをしたり、SOMAFCOの学生の日本訪問を手伝ったことがある。

 今回久しぶり(28年?)に元SOMAFCOを訪ねてみた。南アが解放された後、SOMAFCOの土地はANCからタンザニア政府に返還され、ソコイネ農業大学(SUA)のマジンブ・キャンパスとなっている。キャンパスまでは舗装道路になっていた。変化にとまどっていると「南アの力、援助だろう」と同行したタンザニア人に言われる。入口には小さな橋があるのだが、その左には「ムワリム・ジュリアス・カンバラゲ・ニエレレ・自由橋」とニエレレの写真が出ている看板がある。右にはソロモン・マシャングの似顔絵と共に「ソロモン・マシャング・キャンパス」という看板があった。

 中に入ってみると、平屋建ての建物だけで高層建築がない。ペンキは塗ってきれいになっているけど、その昔の建物を使っているようだ。もちろん新しい建物と思われるものはないわけではないが、それも平屋建てでのどかな雰囲気が残っている。同行者は「昔の記憶を大切にしているのだろう」と言っていたが。キャンパスの中心部にはソロモン・マシャングの似顔絵とその「わが民衆に、私が彼らを愛していること、必ず闘いを続けてほしいことを伝えてほしい。私の血は樹を育て、やがて自由の果実を実らせるだろう。闘いは続く」という1979年に処刑される前の最後の言葉が掲げられている。

📷 SUAマジンブ・キャンパス

 SOMAFCOに関する個人的な思い出は書いたことがある。(「総特集 ネルソン・マンデラ」参照。)SOMAFCOが当時(1980年年代前半)、経済がどん底だったタンザニアでは別天地のように見えたという思い出だ。その当時、近郊の村から、畑仕事、料理、清掃のためにタンザニアの人たちが毎日送迎バスに乗って通勤していたという。その人たちにとっては貴重な現金収入だったのだろう。しかし、そのサービスを受けていた南アの難民たち、特にANC官僚の意識との落差を感じたことを思い出す。今なおキャンパスに残るマシャングの言葉とニエレレの写真を見比べてしまうのだ。

 南アフリカの人びとにとって、ニエレレはどう見られているのか、あるいはどうだったのだろうかと考えてみた。ニエレレの率いるタンザニアが南アフリカの解放運動、アパルトヘイト打倒の闘いを支援したのである。2014年8月12日の新聞に、「南ア、ムワリムを最終的に表彰」という記事が載った。南アの政府機関である国民遺産評議会が、ニエレレにUbuntu賞を授与したということである。「Ubuntu」というのはグニ語で「人間のもつ優しさ、親切」という意味だとの解説が載っていた。ほかの本では「人間性」と訳されている。「ニエレレはその全生涯を人間性のより幸福な状態を実現することに捧げた。若いアフリカ人の男女に自己の尊厳を守ることの大切さを教えた」と南アからの講演者は語ったという。南アとタンザニアの友好関係という小さなことではなく、アフリカの人びと全体にニエレレとマンデラの残した足跡を伝えていこうという意志を感じる。

 マンデラはタンザニアではとても敬愛されている。もちろん「国父」ニエレレは慕われているが、そのニエレレと並んでマンデラは愛されている。昨年のマンデラ死去の後、「ニエレレとマンデラ亡きあと、誰がアフリカの指導者となりうるか?」という議論がなされた。つまりこれはパン・アフリカニズムのことである。マンデラをニエレレだけでなく、当時主導的なリーダーであったクワメ・ンクルマ(ガーナ)、セクー・トゥーレ(ギニア)、モディボ・ケイタ(マリ)、パトリス・ルムンバ(コンゴ、61年2月殺害)、ハイレ・セラシエ(エチオピア)、ジョモ・ケニヤッタ(ケニア)、ミルトン・オボテ(ウガンダ)、ケネス・カウンダ(ザンビア)のなかに置いてみようということだ。

📷 故ニエレレ大統領にUbuntu賞 『The Citizen』2014年8月12日号

 マンデラはこの1962年1月~7月の半年の旅のなかで、PAFMECA会議以外で、独立国の元首としてニエレレ、ブルギバ(チュニジア)、セク・トウゥーレ、タブマン(リベリア)、サンゴール(セネガル)と会っている。またラバトでは、マルセリーノ・ドス・サントス(モザンビーク)、マリア・アンドラーデ(アンゴラ)にも会っている。アルジェリアはまだ独立戦争が続いていた(停戦協定は1962年3月、独立は7月)。

 『こぶしは希望より高く』の記述で、PAFMECA会議の資格審査で、ザンジバルのASP(アフロ・シラジ党)が「アフリカ人ではないアフリカ人がいる」とアラブ系の北アフリカ人のの参加に反対したことが記されている。当時、ザンジバルの独立を前に、ASPはアラブ系のZNP(ザンジバル国民党)と激しく主導権を争っていたし、その思想の延長上に1964年1月のザンジバル革命が起こったのだ。ザンジバル革命ではタンガニーカから送り込まれた人員と武器が大きくものをいったはずだが、その武器は独立を達成したアルジェリアからの支援だという有力説がある。ASPが排除しようとした北アフリカ人からの支援だ。

 マンデラがこの旅で会った既に独立を達成した諸国の元首・閣僚たち、独立直前の諸国の指導者たち、これから武力解放闘争に入ろうとする南部アフリカ植民地の指導者たちは多様で、その後の彼らの軌跡を見ると「自由戦士」の隊列からは外れていった人たちもいる。しかし、脱植民地、アフリカ人による自決の熱気が優先していた時代なのだろう。

 南アの解放はこの時代から約30年遅れたことになる。それはマンデラの監獄27年の「空白」とほぼ重なる。南アの闘いというと、反アパルトヘイト・人種差別と人権回復の闘いというイメージが強い。アパルトヘイトを打倒することにより、抑圧する側の南アの白人も「名誉白人」と呼ばれた日本人の自分も解放されるという側面はあった。しかし、アフリカ大陸に住むアフリカ人から見れば、自らの土地の主人公になるための闘いだったろうし、マンデラ、タンボ、シスル、ソブクウェたちの闘いもそのパン・アフリカニズムの流れの一環だったのだ。だから人種和解・宥和のの先には土地改革が見えてこないといけないのだろう。

☆参照文献☆  ・『Mwananchi』2013年12月16日号  ・『The Citizen』2013年12月15日、2014年8月12日号  ・ファティマ・ムーア著、楠瀬佳子・神野明・砂野幸稔・前田礼・峯陽一・元木淳子訳   『ネルソン・マンデラ伝ーこぶしは希望より高く』(明石書店、1996年)  ・『現代思想ー総特集・ネルソン・マンデラ』(青土社、2014年)

(2014年12月1日)

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