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Habari za Dar es Salaam No.156   "Swahili Coast-Kutoka Nandete mpaka Kisiwani" ― スワヒリ海岸・ナンデテからキシワニま

根本 利通(ねもととしみち)

 昨年(2014年)11月にキルワに行ってきた。これで何回目だろうと数えてみたが、正確には思い出せない。7回目か8回目か。今回はまず、マジマジの反乱(1905~07年)発祥の地とされるナンデテ村に建てられた記念碑を見に行くというのが最初の目標で、ついでにキルワ再訪しようという旅だった。

📷 ナンデテ村からキルワ遺跡周辺の地図 ©National Geographicから作成  正直に言うと、旅立つ前からナンデテ村とキルワをしっかり関係づけていたわけではない。ナンデテ村はマジマジの反乱(「マジマジ100周年」参照)の発祥地で、ドイツの植民地支配下、商品作物であるワタの栽培のために強制労働に駆り出されていた人たちが、ナンダテ村でワタの木を3本引っこ抜いたのが抵抗の始まりとされている。しかし、反乱の初期の指導者であったキンジキティレ・ングワレ(キンジェケティレという表記もあり)の故郷で、「魔法の水」を授かったというンガランベ村の方がより興味あった。しかし、小雨季に入った道路状況がよくわからなかったので、まず情報のあったナンデテ村を先に目指した。

 ダルエスサラームの渋滞を避けるために、朝5時の出発。6時過ぎにはダルエスサラームの町をぬけ出す。街中に向かう車線ではもう渋滞が始まっている。ダルエスサラームを出ると、いい舗装道路がキルワまでつながっていて、車両も少ないので快適なドライブになる。この時はルフィジ川を渡った対岸のソマンガの手前がまだ工事中だったが、2月に聞いたところではもう完成したという。最初に行った1976年のサファリのことを思い出すと、夢のようだ。

 ソマンガから南下してンジアンネ(4つの道)というところを右折する。ダルエスサラームから約260㎞の地点だ。分岐点には古着屋などの店が軒を連ね、近隣の商取引の集散地になっている。ここから30㎞あまり内陸に入ったキパティムの町までは、未舗装だがグレーダーがかけられたまずまずの道路で路線バスが走っている。キパティムはリンディ州キルワ県のなかのキパティム郡という行政単位の中心地である。そこから先ナンデテ村までは10㎞たらずの距離だったが、マトゥンビ丘陵と呼ばれる山のなかに入っていき、通る人も少ない曲がりくねった山道で、いつ補修したのかと思われる悪路だった。しかし、記念碑の除幕式は2010年8月に行なわれ、キクウェテ大統領が列席したはずだから、その時には道はきれいに補修されたはずだ。

 しかし、ナンデテ村はさほど遠くなかった。道のどんつきの小高い丘に診療所があり、その脇に立派な記念碑が立っていた。管理人はいないように見えた。マジマジの反乱勃発から100周年記念の事業はソンゲアなど各地で行なわれたが、この記念碑もその一つで、費用はドイツ政府が出したようだ。碑文には次のようにあった。

📷 ナンデテ村のマジマジ反乱の記念碑  「1905年7月15日、この地域のマジマジ戦争(蜂起)のマトゥンビ民族の   英雄たちは、外国の支配者に反対するために、ドイツ植民地当局の   農場のワタの苗木を引き抜いた。これが闘争を引き起こし、マジマジ戦争   の発祥となった。」  「この戦争は瞬く間に燎原の火のように四方に広まった。現在の州で   いえば、リンディ、ムトワラ、ルヴマ、イリンガ、モロゴロ、プワニ、   ダルエスサラーム州である。」  「英雄たちは伝統的な武器である槍、弓、斧、ブッシュナイフ、石、先ごめ   銃、パチンコ、そして弾丸を通さない特別な水を使った。それに対し、   ドイツ軍は重火器を使用するとともに、心理戦術を用い、公衆の面前で   戦士たちを絞首刑にしたり、畑や食料庫を焼き払い、戦士たちを飢餓に   追い込もうとした。」  「マジマジ戦争は1907年8月8日に終わった。勝者はドイツ植民地当局で   あり、数千の死体と飢饉をこの地域に残した。しかし、これはアフリカ   大陸における外国の植民地支配に対して、共通の目的を持った多くの   民族を結びつけた解放戦争の始まりであった。」

 碑文の上には、四方を見はるかす民衆の銅像があった。7~8人ほどだろうか、女性は2人か。水を運ぶ女性、太鼓を叩く男性などの姿だ。碑文のはめ込んである台が高すぎて、銅像を高く仰ぎ見ることになり、その民衆の表情をよく見られないのが残念だった。またこの像の作者の名前がどこにも書いてないように思えた。記念碑の一面にはマジマジ戦争の初期の闘いの英雄として30人の名前が記されていた。そのなかの2番と3番に、最初にワタの木を引っこ抜いたといわれるングルンバルヨ・マンダイとリンディムヨ・ムチェカの名が記されていた。

 マトゥンビの人たちのドイツに対する抵抗は、マジマジの反乱が最初ではない。小屋税に反対したパンプキン戦争というのが1898年にあった。またその前にキルワ・キビンジでは、1894~5年にハッサン・オマリ・マクンガンニャによるドイツ人への攻撃があった。海岸地方では前回の通信「スワヒリ海岸・バガモヨ散歩」で紹介したブシリの反乱が大きかった。南部海岸地方でもブシリの反乱に呼応した形でのヤオ人の抵抗運動もおこった。1884~5年のべルリン会議でドイツ領東アフリカと勝手に決められ、乗り込んできていきなり支配者然とするドイツ人に対してタンザニアの人びとは当然抵抗した。ムクワワ率いるヘヘ人の抵抗(1891~98年)が有名で、それ以外の諸民族も各地で抵抗したが、各民族の連携が取れず各個撃破され、ドイツの軍事力の前に鎮圧された。

 マジマジの反乱は、19世紀末の初期の抵抗と違い、民族を横断し連携の取れた広範囲の闘争であったとされる。マトゥンビ人によって蜂起は始められたが、事前の連絡があったようで近隣のンギンド人、キチ人はすぐに参加し、ルフィジ人、ザラモ人、ルグル人、ポゴロ人、ベナ人、サガラ人、ムウェラ人、マクア人などダルエスサラームから南西部地方に瞬く間に広がった。魔法の水を運ぶホンゴというお使いが各地に派遣された。南部で精強を謳われるソンゲアのンゴニ人の参加も大きく皆を勇気づけた。しかし、もう一つの有力民族であるヘヘ人はムクワワの反乱の傷が癒えずに合流せず、逆にドイツ側に付いた。ただ、ポゴロ人やベナ人は完全に一体であったわけではない。また、南部でヤオ人やマコンデ人の一部も近隣の民族との対抗関係からドイツ側に付いた。もちろんタンザニア人という意識はなかったし、外国人とアフリカ人との対立という意識も弱かったのかもしれない。

📷 ナンデテ村の風景  ナンデテ村は過疎の気配が漂う。沿道にはキャッサバやモロコシの畑がある。大雨季には窪地ではコメ、斜面ではトウモロコシを作ると言うが、水は豊富だとは思えない。村の小学生が井戸から汲んだ水をバケツで運ぶ姿をよく見かけた。ンガランベ村への道を訊いたが、マトゥンビ丘陵の西斜面で山越えになる。車で行けないことはないようだったが、周囲は森林保護区だし、その先にはセルー動物保護区という原野になる(セルーという広大な動物保護区ができた背景にはマジマジの反乱でのドイツ軍による焦土戦術がある)。未知の道をトライするには時間的に厳しそうなので次回を期すことにした。

 ナンデテ村からキルワを目指す。まずキパティムの町で、往路に目立って見えた教会に寄ってみた。ドイツ植民地下ならルーテル派教会、あるいは英国支配下の時代の創建だったら英国国教会かなと思ったが、なんとカトリック教会だった。創始者はベルギー人だったという。お話を聞いた若い関係者(司祭補?)は最近転勤してきたばかりで、詳しくは教会の歴史を知らなかった。ナンデテ村の記念碑の場所から近くに見下ろした村の教会は草葺きで村の風景に溶け込んでいたが、キパティムの教会は丘の上にあり、あたりを睥睨しているように立派だった。マジマジの反乱で「魔法の水」という在来信仰がヨーロッパ人の銃火器の前に崩れ去り、その後、急激にキリスト教が広まったとされるが、イスラームも強まったようだ。

 教会で会った中学生に、地図で表示されているマトゥンビ洞穴のことを訊いてみた。マジマジの反乱の際にゲリラたちが立てこもった洞穴なのではないかと言われる。案内を頼んだのだが、洞穴のなかは暗くて懐中電灯なしには歩けないと言う。準備不足を悔やんだが、歴史由緒を説明してくれるガイドもいないようなので、これも次回に回すことにする。

 キパティムからンジアンネまでの沿道には電柱数本がところどころに置かれ、電線が張られるのを待っていた。実際、キパティムの教会からは電柱が立てられ、電線を張っている電力会社の人たちを見かけた。こんな山奥まで電気がいよいよ届くのかと思うと、沿道の人たちは感無量だろう。来年の総選挙の政府与党のキャンペーンだなというような下司の勘繰りは止めておこう。

📷 キパティムにあるカトリック教会

 ンジアンネでリンディ、ムトワラを目指す幹線道路に戻り、南下する。途中のナングルクルの分岐で海側の道に左折し、マソコを目指す。ナングルクルにあった協力隊員の顕彰碑の碑文の銅板は盗まれたまま戻っていなかった。ナングルクル分岐から海が近づく。この道をまっすぐ海に下るとキビンジの町になる。マジマジの反乱の時のドイツの役所があった町だ。マジマジ反乱の初期の指導者を描いた戯曲『キンジェケティレ』の第1幕で、主人公のキトゥンダがキルワに行ったことを、ドイツ人に情報を漏らしたと疑われるシーンがある。そのキルワはキビンジだ。

 この日はキビンジに寄らずに、シンギノ分岐を右折してマソコを目指す。病気にやられたココヤシが目立つ道を通りぬけ、飛行場の脇をぬけ、新しくできたビーチリゾートを目指す。道先案内の看板がところどころにあるのだが、いたずらされているのかなかなか行きつけない。漁師たちが水揚げをする小さな魚市場のようなところに出て、教えてもらう。そのすぐ隣だった。翌朝、ビーチリゾートから夜明けを見ていると、上がって来る漁船が金色に輝く沖合を多く通った。市場ではセリが始まっているようだ。と、漁師が魚をぶら下げて砂浜を通る。ここは、プライベートビーチではなくて、漁師の浜にビーチリゾートを建てたのだ。観光客が多くなると、ザンジバルのようにイスラームの村をビキニ姿が行き来するのだろうか。

 キルワ遺跡のガイドを事前にそのロッジに頼んでいたのだが、前日に打ち合わせに来た男性のガイドではなく、当日の朝会ったのはなんとジャミーラさんだった。2006年に遺跡の案内をしてくれた人だ(「スワヒリ海岸・キルワ」参照)。そのころはまだ成り立てのガイドで初々しかったが、今やベテランの域に入っている感じだった。嬉しい再会だった。ジャミーラさんに道中いろいろその後の話を聞いた。ガイドの研修のために今年はガーナに行ってきたという。昨日私たちがナンデテ村に寄ってきた話をすると、なんと彼女はナンデテ生まれだという。ナンデテ村の小学校の歴史でキルワ遺跡のことを学び、憧れてガイドを目指したと言う。前回会ったときは、キルワの内陸部の出身としか聞いていなかったのでナンデテ村とは思わなかった。家族はもうナンデテ村にはいず、ご両親はソマンガ、妹はマソコに一緒にいるという。ナンデテはやはり過疎の村なのだ。

 世界遺産になっているキルワの遺跡は、メインのキルワ・キシワニ遺跡だけではなく、その衛星国家であったソンゴ・ムナラ島とサンジャ・ヤ・カティ島の遺跡を含めている。キシワニ遺跡はマソコの向かいで簡単に行けるが、ソンゴ・ムナラの遺跡には1回しか行ったことがない。前回は1992年、なんと22年ぶりの訪問だ。ダウ船で行くと風次第だがかなり時間がかかりそうなので、エンジン付きのボートで向かう。網を掛けている漁師。一人釣り糸を垂れている漁師の乗った小型のンガラワ。数人で釣っている若者たちを乗せたマシュア。おそらく漁獲物をマソコに売りに行くと思われる人たちの乗合の中型のジャハジとすれ違う。予想以上の1時間半くらいかかった。

📷 ソンゴ・ムナラの遺跡  ソンゴ・ムナラ島の浜には多くのダウ船(漁船)が停泊していた。浜辺には網を干していたり、魚を乾物にしようとさばいている男たちがいたり小さな店があり、小さな集落ができていた。定住した集落というより、一種の季節出稼ぎキャンプなのかもしれない。それを抜けるとマングローブ林のなかの細い流れになっている小道が遺跡へとつながっている。22年前と変わらない。しかし、着くとユネスコによってすっかり整備された遺跡が待ち構えていた。入口には平面の案内図が掲示されていた。

 島の語源になっているムナラ(塔)はほとんど崩れ落ちている。海を望むモスクではハイラックスの一群が走っていた。墓のあるモスクの敷地内でおおいに蚊に食われる。めったに来ない人間だ!モスクの後はスルタンの宮殿とオフィス。キシワニにあるフスニ・クブワをかなり小さくしたような造りで、小さな浴場もあった。さらに歩くと貴族の住居区、そして平民の住居区と思われる区画も発掘されて整備されていた。バオバブの木、それの年輪を感じさせる巨木が多く、半分崩壊した遺跡の風景の雰囲気を醸し出していた。

 ソンゴ・ムナラ島からキシワニ島を目指す。ふつうマソコからキシワニに渡る時は、ゲレザに近い波止場に上がるか、まっすぐフスニ・クブワに着けるかなのだが、今回は南西側から島に接近したので、定置網を回り込んでマクタニ宮殿の岸で上陸した。このルートは初めてである。宮殿の周りではヤギたちが草を食んでいた。

📷 キシワニの旧家の前に立つジャミーラ

 マクタニ宮殿を見てから、小ドームモスク、大モスク、グレートハウスと通過する。そこから集落の間を抜けてゲレザに着く。ゲレザの日蔭では休憩する人、コーランを読む若者たちがいた。この門にいた人に、エブラヒム・フセインの生家(シェイフ・フセイン・ハウス)を尋ねる。ジャミーラさんは正確には知らなかった。そして古いマリンディ・モスクの跡を迂回しながら、島の内部に向かう。

 エブラヒム・フセインは1943年、このキシワニに生まれた。若いころから天才を謳われ、東ドイツ留学、20代からスワヒリ語の戯曲を発表した。上述の戯曲『キンジェケティレ』を発表したのは1969年である。私も何回かお目にかかったことはあるが、にこやかで温厚な人が多いふつうのタンザニア人と違って、かなり神経のピリピリした人だという印象だった。ご家族の治療のため、ダルエスサラーム大学教授の職を捨て、ナイロビ大学に移り、またダルエスサラームに戻られた時には公職を捨てられたと思う。ダルエスサラームの路上で散歩している氏とときどきすれ違った。今はどうされているのか。島の人たちもそれに関しては口を濁していた。

 エブラヒム・フセインの祖父はキシワニ島では有名なイスラームの導師(シェイフ)であったという。島にはイスラームの高校があり、遠くから来たであろう若者たちが静かな環境で学んでいた。エブラヒム・フセインの生家は外側のバラザも文様を刻んだドアもある典型的なアラブ・スワヒリ風の家できれいに修復されているようで、頼めば内部も案内してくれるようだが、敬虔な宗教心など持ち合わせない私のこと、それは遠慮した。この島から世界に飛び立った俊才の生家の前に、山奥のナンデテ村で歴史を学んだ少女を立たせてみたいという感傷だけだったのかもしれない。

 集落でジャミーラさんが干し魚を買っている。かなり大きいが3,500シリング、明日の昼のおかずだという。中の道を通ってフスニ・クブワを目指す。途中で数世紀にわたって使われている大井戸(キシマ・キク―)を通る。大勢の女、子どもたちが水を汲んでいる。この島では真水は貴重だ。バオバブの老木が点在する灌木林。ときどきカシューナッツの木があり実を付けているが、出荷されることもないのだろう。植生がマングローブ林に変わると、フスニ・クブワに着き、海を望む塔楼に立ったとき、思わず日蔭にへたり込んでしまった。フスニ・クブワの保存状況を点検する余裕はなかった。暑い!そして体力が衰えたことを実感する。

📷 キビンジのボマからダウ港を見る

 最終日はマソコを朝発ってキビンジに向かった。ジャミーラさんにも昼食までの半日付き合ってもらった。キビンジの町に入ったところの県立病院は健在であり、その横にやはりマジマジの反乱で吊るされた人びとの慰霊碑があった。実はここには以前大きなマンゴーの木があり、そこで吊るされ「吊るし首のマンゴー」と呼ばれていたのだが、その木が枯れて、代わりに慰霊碑が造られたのだという。今は7人の名前が書かれていた。四辺とも書かれているのだが、その順番が違う。最初は違う人たちかと思ったが、同じ7人の名前が違う順番で書かれているのだ。ただ必ず一番上に出ている名前はハッサン・O・マクンガンニャで、これは上述の1894年に反乱を起こした人で、マジマジの反乱の際に吊るされた人ではない。しかし、慰霊碑には「マジマジ戦争の英雄」とのみ記されていた。この感覚はどんなもんなんだろうか。

 キビンジの町自体は、私が最初に訪れた1976年とあまり変わらないように見えた。もちろん変化はあったのだろうが、町の規模とか、町並みは大きな変化はないように思えた。その昔泊まった寂れたゲストハウスも、依然寂れた雰囲気で営業していた。壁には「RAMA GUEST HOUSE」と書かれていたが、記憶とは違うのでオーナーが変わったのかもしれない。

 キビンジのあったドイツの役所(ボマ)は修復が一部されていたが、まだ完成しておらず、内部には人が住んでいた。管理人代わりなのだろうか。役所の前には錆びた大砲があり、その先はすぐに海で、ダウ船が30隻以上停泊していた。裏手のかつて朽ちかけていた外階段がついた2階建ての建物は買い手がついたらしく、色の塗り直しをしていた。なんでも観光客相手のホテルになるのではないかという噂らしい。

 ダウ港からなかに入ると旧市街がある。と言っても大した広がりではなく、南北の長い通りは2本だけだ。その一つが元インド通りである。無人で樹木の生い茂った朽ちかけた建物があり、かというといくぶん修復してあるサンゴ造りの建物に、ちゃんとした彫刻が施されたドアがあって人が住んでいたり、1階では店が開いていたりする。そのわずかに開いてる小さな雑貨屋の老主人はおそらく70代の半ばだろう。その昔、ダルエスサラームに出て、ボホラ(インド系ムスリムの一派)に雇われて商売を始めたと言う。現在も店のオーナーなのか、雇われ店長なのかは知らない。鍵やマッチといった小物から、水道管やシャベルなどありとあらゆるものを売っていた。日本語で書かれた「スピード皮むき」を見つけた時は奇妙な感覚だった。

📷 キビンジの元インド通りの老主人  老主人と別れてまた通りを歩きだす。ふと振り返ると老主人は通りに出て何やら空手の恰好をしている。翁、元気でいてくだされ。その日は日曜日だったので、小学校はお休みで、子どもたちはマダラッサ(コーラン学校)に通っていた。ダラサが終わって小さい子どもたちが飛び出してくる。数少ない観光客の私たちが見世物になる。古い町がひっそり閑としているのはさみしいものだが、小さい子どもたちが多いと、どっこい町は生きている。

 2階建ての元は立派だったであろう住人の少ない区画を通りすぎると、ある東西に走る通りを隔てて平屋建ての家だけの区画になる。サンゴ石を使っている家もあるようだが、日干しレンガで壁を作り、マクティ(草葺き)かトタン屋根の家が多い。サンゴ石は今は使用の制限が厳しいはずだ。マングローブ材の柱に土壁、マクティの屋根という伝統的な造りの家は郊外に出れば今も多いが、町中では少ない。しかし、19世紀までは庶民の家はみなそうだったろうし、奴隷身分の人たちももちろんそうだったろう。となると14~15世紀のキシワニ遺跡の現在は残ってない区域に、その人たちの暮らしが営まれていたはずだ。歴史は支配者・勝者のものが伝えられ、残されているが、そうではない人たちの上にも同じ時間は流れ、歴史はあったはずだ。その息吹をどうしたら読み起こせるのだろうかといつも停まってしまう。

 キビンジのもう一つの南北の通りを戻る。こちらには市場やバス・タクシーのターミナルもあり、その周辺の建物には1階のバラザを広くしたり、軒先を突き出して店が営業してたり、人間が多く住み活気があった。こちらの通りの方にあまり記憶がなく、近年になって賑やかになっただろうか。私の「キビンジは眠ったように死にゆく町」という先入観は訂正されないといけない。

 キビンジでバナナとココヤシを買い込んだジャミーラさんと別れ、ダルエスサラームを目指して北上する。沿道の土壁・草葺きの家が通りすぎるのをぼんやり眺めながら、スワヒリ海岸の歴史をつなぐキルワ~バガモヨ~ザンジバルの旅を企画してみようかなと思わせたサファリだった。

☆キシワニの主要遺跡は、前回のもの(「スワヒリ海岸・キルワ」)を参照してほしい。

☆参照文献・統計☆  ・Ebrahim N. Hussein "Kinjeketile" (Oxford University Press, 1970)  ・G.C.K.Gwassa 'The German intervention and African resistance in Tanzania'   (I.N. Kimambo & A.J. Temu Eds. "A History of Tanzania",East African Publishing House, 1969)  ・A.J.Temu 'Tanzanian societies and colonial invasion 1875-1907' (M.H.Y. Kaniki Ed. "Tanzania under Colonial Rule" (Longman, 1979)  ・John Iliffe "A Modern History of Tanganyika" (Cambridge University Press, 1979)  ・Karen Moon "Kilwa Kisiwani"Ministry of Natural Resources and Tourism,Tanzania, 2005)  ・Ally Kassim Guwi "Historia ya Kilwa na Utamaduni wa Wakazi" (Tanzania Publishing House, 2003)

(2015年4月1日)

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