• 白川

Habari za Dar es Salaam No.169   "Kumbukumbu za Sokoine" ―ソコイネの記憶 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 4月12日はソコイネ元首相の命日であり、毎年、追悼記事が新聞に載る。それだけ国民に哀惜されているということだろう。エドワード・モリンゲ・ソコイネ(1938年8月1日~1984年4月12日)。アルーシャ州モンドゥリ県生まれのマサイ人。1977年2月13日に、ニエレレ初代大統領の下で、第3代目首相に就任した(~1980年11月7日まで。1983年2月24日再任)。1984年4月12日13時ころ、ドドマでの国会を終えてダルエスサラームに戻る途中、モロゴロ州のダカワで交通事故に遭って亡くなった。

📷 エドワード・ソコイネ

 私個人の思い出で言うと、1983年8月に2回目のタンザニア訪問を果たし、ダルエスサラーム大学留学の手続きをした。当時、ウガンダのアミンとの戦争(1978~9年)の後で、タンザニアのなけなしの外貨準備は底をつき、社会主義統制経済だったから、輸入しないといけない砂糖、石鹸、調理用油、小麦粉、バケツなどの生活必需品も店頭から姿を消し、闇市場で探さないと手に入らなかった。ソコイネ首相は闇市場を牛耳る(主に)アジア系商人を「反経済サボタージュ法」で取り締まる剛腕政治家として評判だった。1984年6月に私はダルエスサラーム大学入学にしたのだが、その直前にソコイネ死去の知らせと、その死亡に政治的暗殺説があることも教えてもらい、気をつけるように言われたことを思い出す。

 その政治謀略説とはつぎのようなことらしい。まず、交通事故の相手が南アフリカのANC(アフリカ人民族会議)の人間の運転する車だったのだ。ANCは今や南アの政権与党であるが、当時はネルソン・マンデラたちは獄中につながれ、多くの幹部は海外に亡命していた組織だった。その本部はザンビアのルサカにあったが、タンザニアにはモロゴロの郊外のマジンブ地区にソロモン・マシャング自由学校(SOMAFCO)という、1976年6月16日のソウェト蜂起後、亡命を余儀なくされた若者たちのための学校(幼稚園、小中学校)を運営していた。その学校は現在、ソコイネの死亡後にダルエスサラーム大学農獣医学部が、ソコイネ農業大学と名を変えて独立した大学になったのだが、そのマジンブ・キャンパスとなっている(「マンデラの靴の秘密」参照)。

 1962年から大統領の座にあったニエレレは、1980年に5選された後、次の選挙(1985年)では後継に道を譲る意向をほのめかしていたという。ニエレレは1922年生まれで1985年でもまだ63歳なので、現在のアフリカの長期(死ぬまで?)政権にしがみつく元首たちと比較して老齢すぎることはない。政権を後継者に円満に禅譲できたことはニエレレの偉大さの一つだと思うが、この当時後継候補者は何人かいた。カワワCCM書記長(第2代首相)とか、ジュンベ第一副大統領(ザンジバル大統領)、クレオパ・ムスヤ第4代首相、サリム・アフメッド・サリム外相(ソコイネの死後に第5代首相)などである。しかし、当時45歳と若かったソコイネ首相が最有力とみなされていたらしい。謀略の仕掛人はソコイネに追及されていた闇商人、それと結託していた汚職政治家、あるいは大統領後継のライバルとか噂が広がり、果ては伝統的な呪いまでささやかれていたらしい。

📷 ソコイネとニエレレ 『Mwananchi』2014年4月12日号

 当惑したのは事件に関与した形になったANCもそうだ。5月2日のモンドゥリでの葬儀に、オリバー・タンボ議長、アルフレッド・ンゾー書記長が参列したが、アルーシャに着いて初めてこの事故にANCが関与していることを知りショックを受けたという。「あれは事故だったが、われわれがあの日道路にいなければ、首相はまだ生きていたのだ」とSOMAFCOでの訓示で語ったという。これはその年の3月のンコマチ協定で、モザンビークのFRELIMO政権が、南アのアパルトヘイト政権に屈服して、ANCなどの南ア解放戦士の活動を制限するに至ったという状況にも関連している。ニエレレのタンザニアは前線議長国として、ANC、PACに対する断固たる支持を続けていたという背景がある。1984年6月にダルエスサラームに来て、ANCタンザニア事務所やSOMAFCOに出入りした私は、その年はこの事件が影を落としているのを感じた。

 ソコイネの経歴を見てみよう。1938年、現在のモンドゥリ県に生まれたソコイネは、同父母5人兄弟の2番目だったという。1948~58年に小学校・中学校はアルーシャ州内(モンドゥリ、ウンブウェ)で学んだ。1961年に当時のTANU(タンガニーカ・アフリカ人民族同盟)に加入する。1962~3年にはドイツで政治学を学ぶ。帰国してすぐ、マサイ県の役人、そして1965年には国会議員に選出される。1967年通信・交通・労働副大臣に任命される。1972年国防大臣。1977年CCMが結成されるとその中央委員、そして首相となる。1980年にいったん辞任したが、1983年2月に再度首相となり、事故の日までその任にあった。

 20代で国会議員・副大臣になり、30代で大臣・首相にまでのぼりつめたのだから、若い時から嘱望された政治エリートだったのだろう。経歴を見るといわゆる大卒ではない。当時の西ドイツの政治指導者養成カレッジ修了だったのだろうか、現在だったら考えらえない学歴である。私自身がタンザニアに住んでいたのは1975~6年と1984年6月以降だから、ソコイネが首相として剛腕を振るった時代にはいなかったから、同時代人という意識は薄いので、過去3年間の命日の新聞記事のなかから、タンザニア人の記憶にあるソコイネ像を見てみたい。

📷 ダカワにあるソコイネの慰霊碑 『The Citizen』2015年4月12日号  2014年には没後30年ということで故郷の村(Enguik村)ではちょっとした年忌があったらしい。息子イブラヒム(41歳)のインタビュー記事がある。彼は第一夫人の5人兄妹の5番目で、その事故の時はまだ小学校3年生だった。姉のナメロックはCCM女性枠の国会議員。長男はダルエスサラームでビジネスマン、自身はアルーシャで観光業を営んでいるという。元首相には10人の子どもがいるが、多くは民間でビジネスをやっているとのことだ。。また村の長老ンゴベイ(56歳)は、元首相が村やこの地域の発展に尽くした例として、堰止めダム、放牧場、3つの小学校の建設を挙げている。2014年段階のモンドゥリ選出の国会議員はエドワード・ロワッサ第9代(元)首相であったが、ンゴベイさんは「努力はしているが、ソコイネのレベルには達していない」と評していた。

 この年の記事になっているのは、それ以外に村の長老ムベーヤ(64歳)が、「ソコイネが帰ってきたときは、あの木の下でヤギの肉を食いながら、マサイの仲間の暮らしの問題をいろいろ語ったなぁ」と懐かしんだ話。ダカワの事故現場に建てられた慰霊碑の番人であるムパンダチャロさん(74歳)は、2003年5月から番人をしているという。彼は、先人から聞いた事故の状況ーマジンブ地区からダカワ地区の別のキャンプに食料を運ぶANCのドミサン・ドゥーベ運転のランドクルーザーと正面衝突を避けようとして、ソコイネの乗ったベンツの運転手が車を回転させてしまった話や、マリア・ニエレレが通るたびに祈りを捧げている話を語っている。またソコイネ内閣の首相府付き国務大臣だったポール・キミティのインタビューもある。

 2015年の記事では、1980年に創立されたモリンゲ・ソコイネ中学校のラルタイカ議長が、「この学校は遊牧民の教育へのアクセスのために作られた」と挨拶し、決して諦めないソコイネをトマス・エジソンのような働き者だったと称賛している。また1983年のソコイネのシンギダ~カゲラ視察旅行に随行した記者の思い出も、ソコイネの働きぶりを示している。この時にソコイネが選んで連れて行った40代の役人のルンバンガとルハンジョが、その後それぞれムカパ政権とキクウェテ政権での官房長官となったのもソコイネに見いだされたからだという。ソコイネの2回目の首相の時に認可されたダラダラ(ダルエスサラーム市内の公共バス)の語源が、当時の為替レート($1=Tsh5)から来ていることも書かれている。

📷 ソコイネの娘ナメロックとロワッサ 『Mwananchi』2015年10月6日号  昨年10月の総選挙に、ソコイネの娘のネメロックが国会議員選挙に出馬し、話題になった。ソコイネはモンドゥリ選出の国会議員だった。その後継者(1985~90年)のことはよく知らないが、1990年からこの選挙区選出の国会議員になったのはエドワード・ロワッサ(1953年~)である。氏族は違うが同じマサイ人だ。ロワッサはダルエスサラーム大学を卒業し(1977年)、CCM青年部としてはジャカヤ・キクウェテと同期であり、国家公務員から政界に入った。早くから土地大臣などを歴任し、実行力のある政治家と評価を受けた。1995年の大統領指名をCCM内で求めたが、故ニエレレに外されたと言われている。

 2005年12月に第4代大統領となった盟友キクウェテの下で、ロワッサは首相となった。が、2年あまりで、リッチモンド・スキャンダルで辞職に追い込まれた(「首相の辞任と新内閣」参照)。これ以降、ロワッサには金権政治家のイメージが付きまとい、2015年のCCMの大統領指名の際にも最有力候補とみなされながら、候補指名を受けられなかった(「総選挙2015-大統領官邸への道」参照)。その後CCMを脱党し、野党連合(UKAWA)の統一大統領候補として立候補し、マグフリCCM候補に敗れた。その際、アルーシャ州、マニヤラ州のマサイ系の人びとは、ロワッサに従ってCCMを離れ、野党のCHADEMAに合流して総選挙を戦った。しかし、ナメロック・ソコイネはCCM候補として戦い、ロワッサの推すCHADEMA候補に敗れた。マサイ人社会に亀裂が入った…のか、あるいは「マサイ族」共同体というのが幻想なのか。

 今年(2016年)の記事の特色は、ソコイネとマグフリをなぞらえる、比較する書き方だ。「ソコイネはマグフリの先生」なんて見出しもあった。ちょっとびっくりしたが、少し考えると納得のいく見方でもある。かなり多くの例が挙げられているが少し見てみよう。ソコイネの妻方の一族で、現在モンドゥリ県上モンドゥリ郡議員を務めているバリキ・スムニはソコイネの先見の明をこう語っている。「現在ほどひどくはなっていない遊牧民と農耕民の対立を避けるため、4つの放牧場や農耕区域を指定して、共存できるようにした。また女の子が学校に行かないことを嫌い、マサイ女子中学校やエンユラタ女子中学校を創立した」と。

📷 ソコイネとマグフリの類似点 『Mwananchi』2016年4月12日号  1965年にソコイネと同期に国会議員になったというからかなり年配のルクワ州出身のクリサント・ムジンダカヤ。「国会の爆弾男」として知られ、大臣2人を辞任に追い込んだらしい。事故の時はモロゴロ州知事で、ソコイネ一行を州境まで出迎えに行こうとして「無用」と言われ、しかし事故の第一報を聞き、混乱して大統領官邸に連絡した思い出を語る。ソコイネのことを「人間性あふれる気配りの人で、能力があり、信じたことを遂行する人だった」と回想する。マサイの若者たちにJKT(国家建設隊)に参加を勧め、自らキャンプに入って範を示したという。「ソコイネはマグフリと同じく公金の流用を憎み、汚職と戦う指導者の先頭に立った。その当時の戦いをソコイネは心の底から遂行した」と語る。

 ソコイネのことを「公正・高潔」「働き者」と評する言葉は多い。タンザニア経済のどん底期にあった1980年代前半を率いた首相である。多くの闇商人というか、サボタージュしたとみなされた商人が、財産を没収されたり、投獄されたり、あるいは国外に逃げた。しかし、商人側からいえば、経済が破たんしたのは、国家の経済政策の失敗であり、自由な経済原則から言えば不当な弾圧であっただろう。ソコイネは自由市場を信奉していなかったわけではなく、国家企業・公社による独占に対し、民間部門の導入・競争の原理も認めていた。代表例がKAMATAとUDAが独占していた公共交通部門に対するダラダラの認可だった。

 私は前述のようにソコイネ首相時代のタンザニア同時代体験がない。したがって、このような新聞記事や年配者の語り(記憶)に頼るしかないのだが、ソコイネの戦いは社会主義統制経済の下での「経済サボタージュ」取り締まりがメインであったろう。したがって当時の表と裏の流通経済を支配していた商人が主要なターゲットで、それと結託した腐敗政治家の追及は従だったと思う。一方、現在のマグフリの戦いの主要ターゲットは腐敗した政治家・高級官僚による組織的な汚職体質で、その綱紀粛正、政府の立て直しがメインで、それから利益を吸い上げている大小の企業家は従なのだろうと思う。それだけ、1985年に始まった経済の自由化が浸透し、ニエレレ時代の倫理性・理想主義は遠くなったということなのだが、果たしてここから目指すものは何か。少なくとも野放しのグローバル新自由主義ではないだろう。しかし、砂糖とか米とか生活必需品の輸出入の許可で価格を管理しようとする動きが出ているが、ソコイネの時代とは違うので要注意だろう。

   マグフリの戦いはこれからだ。連日、摘発を受け、停職あるいは解雇される政治家、高級官僚の顔写真が新聞トップを飾っている。例えば4月26日はタンガニーカとザンジバルとの連合記念日(52年目)だったが、それに関する記事はほんのわずかで、キクウェテ時代に出されたCAG(会計検査院)の報告書の中身が暴露され、大物たちの名前でにぎわっていた。翌日はTIC(タンザニア投資センター)総裁の解雇、その翌日は警察のスキャンダルときりがない。こんなことは正常ではなくて、いはばお祭り騒ぎをいつまでも続けていられないだろう。マグフリがこれをどう経済成長と一般国民の生活の課題解消につなげていくかが、これからの正念場になるのだと思う。

☆参照文献☆  ・『The Citizen』2014年4月12日、2015年4月12日、2016年4月12日、26~30日号  ・『Mwananchi』2014年4月12日、2015年4月12日、10月6日、2016年4月12、13日、26~30日号

(2016年5月1日)

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