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  • 執筆者の写真白川

Habari za Dar es Salaam No.174   "Kuelekea Dodoma" ― ドドマへ ―

根本 利通(ねもととしみち)

 2016年7月23日、ドドマで行われていた政権与党CCM(革命党)の大会の席上である。昨年11月に第5代大統領となったジョン・ポンベ・マグフリが、CCMの最高指導者である議長職を、その前任であるジャカヤ・ムリショ・キクウェテ前大統領から引き継いだ際のスピーチであった。「私の任期中(2020年10月まで)に、首都機能をドドマに移す」と宣言した。政府系の機関紙である『The Daily News』では連日のトップ記事で報じ、休眠状態であったダルエスサラームから「新首都」ドドマへの移転事業に脚光が再び当たった。

ドドマ行き 『The Citizen』2016年7月28日号  ダルエスサラームからドドマへの首都移転という議論は1973年に起こったとされている。ドドマをタンザニアの首都とする文書もあるが、現実には大統領、首相、大臣をはじめほとんどの行政機能はダルエスサラームにあり、ドドマに本拠を置くのは大統領府の地方行政庁くらいのものだ。もちろん、大使館などの外交団、国連や援助機関の事務所もダルエスサラームにある。構想から40年以上も経過して、ドドマは依然「新首都」であり、首都移転は永遠に未完の命題で終わるだろうと思われていた。が、突然(?)のマグフリの一言で再び政治の表舞台に立った。

 ドドマ移転問題の経緯を簡単に振り返ってみよう。1973~74年ころの初期の議論にはいくつかの説があり、私自身がタンザニアにいなかったし、原典にも当たりきれず、やや不確かな部分がある。1973年10月のTANU(タンガニーカ・アフリカ人民族同盟=当時のタンザニア本土部の唯一政党で、現在のCCMの前身)の会議で発表された。1967年のアルーシャ宣言で社会主義化の方針が出て、1971年ウジャマー村移住作戦が始まり、その運動の高揚期に出されたものだ。ドドマ州は最貧困州の一つとして、ウジャマー村建設のモデルとして白羽の矢が当てられていた。(「ムワムウィンディの話」参照)

 ドドマに首都を置く理由として一般に知られているのは次のようなことである。①国の中央にあるので防衛のためにいい。②東西(ダルエスサラーム~ムワンザ・キゴマ)と南北(ムベヤ~アルーシャ)をつなぐ交差点にある交通の要衝。さらにいうとアフリカ大陸を縦断するカイロ~ケープタウンの道路上にある。③商業都市ダルエスサラームではなく、国民の大半を占める農民に近いところ、農村地域に政府を移す。④ダルエスサラームより気候がいい(涼しい)、ということなどであろう。

 ドドマ首都移転の話は、1973年に突然出てきたのではなく「実はドイツの植民地時代からあった」という記事が9月1日の『Mwananchi』に載った。簡単に要約しておこう。第1次大戦が始まり、英国軍の攻勢に押されたドイツ植民地政府はタボラに移動したが、その際(1916年)にシュネー総督は新首都候補の調査を命じた。蚊やツェツェバエがいないという健康面から、ムパンダの東側が候補地に挙がったようだ。英国委任統治領になった1927年キャメロン総督は首都及び政府の部局の移転候補地調査の特別委員会を作った。やはり健康面と治安面が重視されてたらしい。アルーシャ、ドドマ、イリンガ、ルショト、マニョニ、モロゴロ、モシ、ムプワプワ、ムワンザ、タボラが検討された候補地だった。

チャムウィノ村で溝を掘るニエレレ(1971年) 『The Citizen』2016年9月7日号  ドドマの持つ弱点、半乾燥地であり水が不足していることも候補から消される理由にはならなかった。もちろん反対もあった。内務局や衛生局は商業都市と首都を分けることによるコスト高を挙げた。1959年、立法審議会で再度取り上げられ、ドドマが国の中央であるということで有力候補とされた。1966年、ジョセフ・ニエレレ(ニエレレの弟)が個人動議で、ドドマへの段階的移転を提案したが、やはり費用の面から挫折した。1972年、TANUムワンザ支部から中央委員会に「国民に近づくために」党本部をドドマに移転させる動議が出された。1,859の支部が投票し、54%の支部が賛成、46%の支部が反対、州別では18州が賛成、3州(ダルエスサラームを含む)が反対だったとされる。そして1973年10月1日のニエレレの演説へとつながっていった。

 ドドマという町の起源であるが、ドイツ植民地時代以前のキャラバン貿易時代まで遡るのか調べてみたのだが、簡単にはわからなかった。探検家スタンリーや商人ティップ・ティプの記録を読んでも、ゴゴ人の地域(Ugogo)とは出てくるが、ドドマという固有名詞は出てこないようだ。そのキャラバン・ルートをほぼたどってドイツの植民地支配は進んだ。1890年にドドマはドイツ軍の駐屯地として始まったようだ(1907年説もあるが、これは鉄道建設に伴うもの)。この時代に中央鉄道は建設され、1907年にダルエスサラーム~モロゴロ間が開通し、マジマジの反乱の影響でいったん停止されていたが、1908年から再開され、1910年にドドマに到達した。1912年にはドドマは地区の行政中心地となったようだ。(Mnyampala著『The Gogo:History,Customs and Traditions』は未読である。)

 今回のドドマへの首都機能の移転には「ニエレレの夢の実現」という表現がたびたび使われる。ドドマの大統領官邸があるチャムウィノ村をニエレレが訪れたのは1969年5月だった。当時のTANU青年部のキャンプを訪れ、ブドウ栽培の進展を視察したのだという。その時「バッタではなくイナゴのように生きよう」と集住を村人に勧めたという。村人たちはニエレレの呼びかけに応え、ウジャマー村を建設し始める。ニエレレは1971年からそれに参加し、自分の家のためのレンガを焼き、水道敷設用の溝を掘り、村人と一緒に働いた。1971年7月10日、チャムウィノ・イクル(大統領官邸)村が公式に開村し、ニエレレはそこに3か月暮らした。つまり、チャムウィノ村はニエレレが自ら建設に参加したウジャマー村だったのだ。当時1,060人だった村びとが、今は11,000人を超えるという。マグフリ大統領が近い将来移り住む大統領官邸のある村で、大勢の移住を前に既にある水問題が悩みの種らしい。

 やや本筋からそれるが、ドドマへという選択をしたニエレレの脳裏に、タンガニーカ独立運動で果たしたドドマの役割があったかどうか。TANUの前身にあたるAA(アフリカ人協会)は、1927年ころダルエスサラームで結成されたが、それに次ぐ支部は1933年ドドマで結成されたとされる。ドドマ支部の活動は活発で、コンドア、ムプワプワに支部を開設し、ザンジバルのAAにも積極的な働きかけをし、ダルエスサラームと並んで本部と称された。また1939年にダルエスサラームに先駆けてドドマで結成された「アフリカ人料理人・洗濯人・家内使用人協会」は、アフリカ人の民間人の労働者組合としては最初のものであった。1945年にドドマでAAの全国大会が開かれたが、政治的議題が論議され、不活発なダルエスサラーム本部に代わってドドマに本部移転をすることが決定されたという。この時移転していればというのは歴史の綾だろう。1961年の独立時のニエレレの最初の内閣にドドマ出身のルシンデが大臣でいたし、7代目首相となったマリチェラもドドマ出身である。ドドマには政治的な風土があるのである。

ドドマ市の繁華街(2016年)

 そういう観点から、9月21日付『The Citizen』の「ニエレレをドドマに恋に落ちさせた忘れられた首長」という記事も興味を引く。ドドマ市南方50㎞のムヴミ・マクル(Mvumi Makulu)村のマゼンゴ・チャルラ首長の話である。記事によればマゼンゴ首長は1862~1967年の106年の生涯で、84年間首長であり、ゴゴ人社会の最高首長であったという(植民地化以前のゴゴ人社会に最高首長が存在したかは疑問で、小さな首長社会のゆるやかな連合体であったろうと思われる)。植民地化以前の探検家時代から首長であったということだ。マゼンゴ首長は1930年代にゴゴの女性に病院での出産を奨励したという。マゼンゴ首長がニエレレと会ったのは1950年代初め、ニエレレ初代内閣の大臣となったルシンデの紹介らしい。その後友情(と言っても年齢的に父子関係のようなものか)を育み、1955年にはニエレレはマゼンゴ首長にTANU加入を勧めに来たという。1964年に訪れたニエレレは、マゼンゴ首長に村の名前(本来はMvumi Ikuluだった)をもらって、新しい大統領官邸の名前をIkuluと付けたいと頼み、首長は快諾し、村の名前をMakuluと改名したということである。ほんまかいなというエピソードである。またニエレレが常に携行していた杖のエピソードも触れられている。「ニエレレがドドマをドドマを選んだのは国の中央にあるからだけじゃない」という主張のようだ。

 ドドマへの首都移転計画を決めてから、そのマスタープランはカナダの会社に依頼した。1976年に完成したこの最初のマスタープラン(その後何回か書き直されたらしい)のプランナーは、平均的な米国の郊外の新都市開発型のプランナーで、ニエレレの思い描いた「ウジャマーから発展した地方都市」構想とはあまり相容れなかったらしい。しかし、40年後の今のドドマにその最初のマスタープランは影響を残しているという。その後、1986年、2010年などの新たなマスタープランが作成されているらしい。1996年に立法機能(国会)は移転を済ませている。

 ドドマ市の人口の変化(増加)をみてみよう。1978年、1988年、2002年、2012年の国勢調査の数字である。この間、15.9万→20.4万→32.3万→41.1万人と増えている。年間の人口増加率でいうと、2.5%→3.3%→2.5%である。タンザニア(本土)全体の人口増加率は、2.8%→2.9%→2.7%であったから、似たような増加率である。ちなみに、その間のダルエスサラームの人口と増加率は、85.2万(8.2%)→136.1万(4.8%)→248.7万(4.3%)→436.5万(5.6%)であったから、首都と新首都の落差は歴然としている。

 ドドマ市が、まだ都市(City)のステータスがないことも話題になった。タンザニア(本土)で現在、Cityとされているのは、ダルエスサラーム以外にはムワンザ、アルーシャ、ムベヤ、タンガの合計5都市である。ドドマは依然Municipalのステータスらしい。Cityの資格が人口は25万人以上らしいから、条件は満たしているのだが、実質の都市化率が低いためだろうか。国勢調査では人口を「都市部」と「農村部」に分類している。2002年までは「混在」というカテゴリーもあったのだが、2012年はカテゴリーは2つになった。その都市化率を見てみると、ダルエスサラーム(436万人、100%)、ムワンザ(71万人、100%)、アルーシャ(42万人、100%)、ムベヤ(39万人、100%)、タンガ(27万人、81%)ときて、ドドマは41万人ながら52%に過ぎない。

新首都のサービス機能 『The Daily News』2016年7月28日号  ドドマ市と一緒に次にCityとなるといわれるモシ市は18万人、100%だった。さらに、モロゴロ(32万人、97%)、ソンゲア(20万人、100%)、イリンガ(15万人、100%)などは都市化率が高い。ドドマに近いのはシンギダ(15万人、57%)、スンバワンガ(21万人、59%)で、タボラ(23万人、71%)にも共通項がある。つまり都市区域が広く、農村部人口を多く抱え込んでいるということだろう。人口増加率も全国平均に近く、「首都へ」と若者が目指す状態にはここ40年ほどはなかったということだ。都会化が進んでいないということは、ニエレレが抱いた「農村部を食い物にしない調和した自給自足的な地方都市」という夢に近いのかもしれないが、そのため、高層ビルの建設には規制があるようである。

 ドドマの町や移転構想の歴史はさておき、ドドマに本気で首都を移すのかと思うと、まず気になるのは水の問題である。ドドマは半乾燥地域である。年間の平均降水量が500~600㎜程度で、タンザニアでほぼ唯一のブドウの産地として知られる。現在の人口50万人。現在ダルエスサラームに住んでいる国家公務員・準公務員(12万人といわれる)の大多数とその家族が移動するとして、25~30万人くらいだろうか。全官庁が移転したら、外国の大使館や援助機関も移転するだろう。倍増する人口の水需要を賄うことは可能なのか。地下水が豊富だという。しかし皆が井戸を掘って汲み上げたら、塩分が濃くなるだろう。またヴィクトリア湖から用水路を引くとぶち上げる政治家もいるが、環境に対する影響は考えているのだろうか。

 2012年の国勢調査による、ドドマ州の世帯(人口208万人)の水利用の比率である。屋内の水道(10.4%)、庭先の水道(6.1%)、共同水道(26.9%)、近代的井戸(5.7%)、衛生処理した井戸(3.9%)、従来の井戸(30.7%)、衛生処理した泉(0.6%)、泉(4.7%)、川・沼(5.1%)、瓶入り(0.2%)、給水車(0.3%)、雨水(0.3%)、荷車の買い水(5.1%)となっている。現在、ドドマの水需要は5000万リットルとされているが、供給は3200万リットルだという。

 そして最大の障害は、もちろん予算面の裏付けがないことである。7月1日から始まった2016/7年度予算には計上されておらず、7月23日になって唐突に出てきたという感じがする。1973年段階の首都移転の費用見込みを見てみよう。そのために設立されたCDA(首都開発公団)が移転作業を担い、1976年から10年計画で移転を完了させることになっていた予算は37億1千万シリング(当時5億3000万USドル)、10年分割で毎年CDAに3億7100万シリング割り当てられるはずだったが、さまざまな経済的要因が重なり、1978~9年のカゲラ戦争がとどめとなって失敗した。今回の移転の費用見積もりはどのくらいなのだろうか?ある試算では5億8290万ドルと出ていて、40年前と近似しているが根拠のある数字なのだろうか。

 移転する官公庁・公社の公務員だけでなく、大使館や国連・海外の援助組織の人びとを収容するオフィス・住居。その家族の学校(一部は国際学校)、商店。道路、交通網、電力、そして水…。ドドマ州の干ばつの多さ、貧困の問題など山積みしている。ドドマ州の貧困は農業適地が少ないということもあり、ほかの地域の出身者からは「ドドマの人間は…」と否定的な評価の発言を聞くこともままある。2014年の一人当たりのGDPを見てみると、ドドマ州のそれは111万シリング(=$671)で、全国平均の172万シリング(=$1,041)の3分の2しかない。ちなみにトップはダルエスサラーム州の280万シリング(=$1,688)で、ドドマ州は21州(当時)のなんと17番目であった。

建設中の首相官邸 『Mwananchi』2016年9月3日号  7月24日以降、ドドマへの移転に関しての新聞記事を時系列で並べてみよう。7月28日から「Kuelekea Dodoma」という連載を毎日ずっと載せている(いつまで続くのだろうか)『Mwananchi』の記事を中心としている。大風呂敷とか宣伝、見込みが多いと思われるが、タンザニアで話題となっている事象の記録と思っていただきたい(日付は報道された日付である)。

 7月26日 マジャリワ首相、9月中にドドマに転居すること、         ほかの大臣も続くことを期待すると表明。  7月27日 首相はCDA、ドドマ州知事に移転計画を2週間         以内に提出することを指示。ティゼバ農牧水         産相が2週間以内に転居することを表明。  7月29日 警察が本部を来月ドドマに移転するとを表明。  7月30日 「移転を拒否する公務員は解雇する。ダルエス        にある政府ビルは売却する」とマグフリ大統領が声明。

 8月1日 野党第一党CHADEMAのボエ議長が、政府の動きを「急ぎすぎ」と批判。  8月3日 ドドマ市が市内道路の補修を開始。  8月5日 ルギンバナ・ドドマ州知事が「準備は80%完成している」と表明。  8月6日 ドドマ市はごみのポイ捨てに50,000シリングの罰金を科すと発表。ムラギリCDA総裁は、官庁街・        公務員住宅・商業街を市の中心から離れたイフムワ、ブギリ地区の12,000haを用意すると声明。  8月7日 実業家サボド、ドドマへの50億ドルの投資の報道を否定。  8月9日 ゴゴ人の首長が「ゴゴ人の歴史・慣習を尊重する」ように要請。首相の住居予定地のミリムワには、        彼らの雨乞いの儀礼のためのチムリの井戸があるとのこと。  8月14日 ドドマ出身の国会議員のマヴンデ首相府副大臣(雇用・青年担当)はドドマ州の貧困のイメージを一掃        するためにこの好機を利用したいと発言。

 8月19日 ムハガマ首相府大臣(雇用青年障がい者担当)は、移転の予算不足について、大臣・公務員の移転が        進めばその旅行手当で賄えると発言。        ニンディ全国土地利用計画委員会総裁は、ドドマの土地利用マスタープランの尊重を呼び掛けた。  8月23日 ドドマ市は市内のオープンスペースや庭園の改善・美化を始めた。  8月24日 国会の投資社会資本委員会で、「現在進行中のドドマ空港と新たな国際空港建設を並行してやるの         はどうか」と疑問が呈された。  8月25日 全国住宅公団(NHC)は600億シリングをかけて、ドドマ市だけでなくドドマ州全体で1年以内に1,000軒         の家を建設すると発表した。  8月26日 ムハガマ首相府大臣は、その副大臣と一緒に、首相に先立ちドドマに移転すると表明。  8月28日 国会のインフラストラクチャー委員会で、昨年の総選挙で落選した元議員が議員宿舎に居座り、         また貸ししているという批判が出る。  8月29日 ドドマ大学の建物を4つの省庁(経済産業投資省、教育科学技術省、法務省、大統領府公務員庁)が         借用の予定と発表される。  8月30日 運輸庁(SUMATRA)は「ネズミ」と呼ばれる小型バスに免許を新規発行しないと発表する。         現在1,300台のダラダラのうち、980台が「ネズミ」だという。

ドドマ駅(2016年)

 9月1日 ドイツと中国の投資で、ドドマに5つ星        ホテル、ダルエスサラームとドドマを結        ぶ有料高速道路が建設され、その        費用は5億ドルという情報が流される。  9月2日 首相府副大臣は現存する4つの市場        に加え、チャンゴンベに新市場を建設        すると表明。        野党CHADEMAは本部をドドマに移転        する計画はないと声明。  9月4日 ドドマ市に隣接するバヒ、チャムウィノ、        コングワ県で、住居・商業区のための        測量が開始されると発表。  9月7日 キグワンガラ厚生副大臣は、急増する        人口対策に、ドドマ大学にある昨年末        オープンしたばかりのベンジャミン・ムカパ・ウルトラモダン病院の機材改善検討を発表。  9月8日 マジャリワ首相夫妻が新居の進行状況を視察。  9月16日 ドドマ州の干ばつ対策のため、遺伝子組み換え種子の導入を訴える農学者の報道。  9月17日 マジャリワ首相が国会で移転計画を発表した。   第1段階(2016年9月~2017年2月)首相、全大臣、全次官、全副次官がドドマに移動。                         全省庁が1~2の局を移動させる。   第2段階(2017年3月~8月)2017/8年度予算に基づき、職員の移動。   第3段階(2017年9月~2018年2月)より多くの職員の移動   第4段階(2018年3月~8月)より多くの職員の移動   第5段階(2018年9月~2020年2月)より多くの職員の移動   第6段階(2020年3月~6月)大統領と大統領府の移動    イフムワ地区に2万haの土地を確保してある。  9月20日 ドドマ空港拡張工事終わる。  9月24日 CDAが測量を開始する前に、慌てて土地を売るものは後悔するだろうとドドマ市が警告。  9月25日 市場の貸店舗の賃貸料が3~5倍にアップされたという報道。  9月30日 マジャリワ首相が公式に移転。住居の完成度は75%ということだが、大丈夫だろうか。

 難問は山積みしているが、マグフリ大統領の実行力で移転は進むとみる向きが多い。もうすでにドドマの土地は高騰しているという。政府の目論み通りの公務員の移転が進み、それに伴い商人も移住してくると、食費を含めた生活費も大幅にアップすることだろう。それが近代都市化のいたし方のない趨勢であるとすれば、ニエレレの夢とは違ってくるだろう。ドドマ先住のゴゴの人びとたちの居心地が悪くならないような変化であればいいと思う。また首都機能が出ていくダルエスサラームがどう変容するか。ダルエスサラームのインフラへの投資のペースがダウンし、また渋滞が緩和されればいいと住民としては期待しているけど、そう目に見えるような変化は時間がかかるだろう。ダルエスサラームに利権を持っている政治家・高級官僚・実業家たちはどう動くのだろうか。

☆参照文献☆  ・『The Citizen』2016年7月24日、26日、28日、31日、8月3日、5~7日、19日、9月1日、7日、17日、21日号  ・『Mwananchi』2016年7月24日、27日、29日、8月1日、3日、5~7日、9日、13~14日、19日、23~26日、28~30日            9月1~2日、4日、7~8日、16~17日、20日、24~25日、30日号  ・『The Daily News』2016年7月24日~31日、9月30日号  ・鶴田格「東アフリカ半乾燥地における農耕―牧畜複合に関する史的考察」(『近畿大学農学部紀要』、2011年)  ・川端正久『アフリカ人の覚醒―タンガニーカ民族主義の形成』(法律文化社、2002年)  ・M.F.Hill "Permanent Way" Vol.2(East African Railways and Harbours,1957)  ・John Iliffe "A Modern History of Tanganyika" (Cambridge University Press,1979)  ・"National Accounts of Tanzania Mainland-2014" (National Bureau of Statistics)

(2016年10月1日)

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