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Habari za Dar es Salaam No.32   "Charles Zawose" ― 追悼 チャールス・ザウォセ ―

根本 利通(ねもととしみち)

📷 10月25日に悲報が届いた。チャールズ・ザウォセが公演先のスウェーデンで急死したという知らせである。享年34歳。ムゼー・フクウェ・ザウォセの死から(2003年12月30日)→ザウォセ<追悼>、1年も経たない内の連続の死である。ザウォセ一族、CHIBITE楽団は大黒柱を続けて失った。

 チャールスは一般にはムゼーの息子と紹介されているが、実際にはムゼーの兄の子で、早くして父を失ったチャールスは、ムゼーの子供として育った。ムゼーがチウテ、ムクワマという日本でCD録音をしたトリオを続けて失った1992年以降、音楽活動を再開した際にパートナーとして選んだのが若きチャールスであった。

📷  最初のチャールスのデビュー舞台では、明らかなムゼーとの力量差が感じられ、その表情の乏しさ=緊張感が痛々しかったが、その後ムゼーに連れられ、海外公演も繰り返し、日本でも3回公演、昨年の公演ではムゼーに代わって座長を務め、ムゼー亡き後の音楽的大黒柱、ムゼーの衣鉢を継ぐものと衆目が一致していた。

 今年は6月ころから体調を崩し、6月の「あいのり」の撮影、8月にやったオルタナティブ・ツアーでの公演でも、主役を演じず脇役に徹するなどやや元気がないのが気になったが、10月になってスウェーデンに予定通り行くとあいさつに来た時は元気そうで、安心して送り出したのだったが…

 スウェーデンでは体調を崩し、1回公演しただけで入院、3日後に退院したが、やはり本調子ではなく、タンザニアに向かう途中空港で倒れ、入院その日に亡くなったと言う。

 「遺体を送り返すから」という連絡を受け、葬儀の準備を気にしたのが、10月25日。ところがいつまでも遺体は搬送されず、11月に入ってから(おそらく10日以上経っていただろう)「搬送費用は負担できないから、駐スウェーデン大使館に任せた。搬送費用は600万シリングほどかかるから、それを送金すれば搬送する。なければスウェーデンで埋葬」と言う連絡が入り、大騒ぎになった。

📷  相談を受けた私は「誰か代表を送って荼毘に伏し、遺骨と遺品を回収してくれば。そのくらいの費用は何とかなるだろう」と答えたのだが、荼毘に付すという習慣のないタンザニアのこと、遺族はもちろん、周囲のタンザニア人にも一顧だにされなかった。 

 その後は駐タンザニア・スウェーデン大使館に、招聘元のKompani Raande/Vo(責任者はLena Josefssonという女性)との契約書の内容、特に旅行保険は招聘元として掛けてあるはずで、その中から本国への遺体搬送費用は賄えるはず、もし保険を掛けていないとなったら、それは法的にどうなのかという責任の追求を行ったが反応は鈍かった。招聘元とも連絡がつかず(公演を続けているようだ)、スウェーデン人への不信が募っていく。 

 一方で、故ムゼーの教え子、チャールスの教え子の日本人に連絡を取り、事情を説明し香典という名目の寄付を募り始めた。遺体搬送がかなわぬまでも、せめて遺族の代表を送り、スウェーデンの埋葬に立ち合わせ、遺品を回収するためである。が、やはり遺体を故国に持ち帰りたいという遺族の願いを、タンザニアのマスコミを通して世間に訴え、スウェーデン大使館、タンザニア外務省を動かす運動もした。

📷  いろいろ紆余曲折はあり、細かく記さないが、チャールスの遺体は11月29日故国に帰り、30日葬儀が営まれ、ムゼーの墓の隣に葬られた。この間感じたのは日本人、スウェーデン人、タンザニア人のメンタリティーの違いである。ともすれば諦めそうな遺族や私たちを励ましてくれたのは、専らムゼーとチャールスに踊りやイリンバとを 学んだ、音楽家・舞踏家集団である。改めて感謝したいと思う。なおスウェーデンの招聘元は結局遺体搬送費用を一切負担しなかった。

 今後のCHIBITEはどうなるかは予測はつかない。ただムゼーが嘱目していた長女タブは踊り、イリンバ、太鼓なんでもこなすマルチ・プレーヤーだし、太鼓のムサフィリやイリンバのアンドレア、踊りのエステリ、ペンド、チークなど有望な若手は多い。 何せ生まれた時から音の中で育ってきた子供たちである。

 バガモヨへ「タンザニアの伝統音楽をやろう!」という、日本人の若者への呼びかけを始めようと思う。ザウォセの家に泊まって1週間、太鼓でもイリンバでも踊りでも、集中特訓、それがCHIBITEの若者を励ますことになればと思う次第である。→CHIBITEツアー


(2004年12月1日)

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