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Habari za Dar es Salaam No.34   "Ilha de Mocambique" ― モザンビーク島 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 今回はタンザニアではなく、南の隣国モザンビークの話。正月休みを利用して行って来た。タンザニアに定住しだして20年、アフリカに最初に旅をしたのが1975年だから、今年で30年目になる。これはまたモザンビークの独立30周年になるのだが、実は今回が初めてのモザンビーク入り。 タンザニアに定住すると、なかなか他の国には行けず、行っていない国が多いのだが、初めての国というのはなかなか行く前からちょっと興奮する。久しぶりの新しい国、アフリカ15カ国目。

📷 イーリャの教会  なぜモザンビークに長いこと行かなかったかというと、独立直後から南ア支援の反乱軍との内戦が続き、地雷があちこちに埋設されていたこと、そして旧宗主国がポルトガルという言葉の関係が挙げられる。が内戦も終了して12年経過し、アンゴラと違って旧反政府軍も政党として選挙に参加して3回も経つし、安定して来たといわれる。日本のJICA事務所も出来、協力隊員も活動を始めている。

 今回行ったのは、タンザニアから一番近いモザンビーク北部の海岸にある、モザンビーク島(イーリャ)という世界遺産にも指定された古い街。ポルトガル人の占領前からアラブ人などのインド洋交易の南縁を占め、スワヒリ都市国家のひとつと言えるかもしれない港町である。また北部はモザンビークの解放闘争、内戦の戦火を逃れてタンザニアに難民として流れた人が多いから、スワヒリ語が少しは通じるのではないか、またマコンデ彫刻で知られるマコンデ人は、ルヴマ川を挟んでタンザニア・モザンビーク国境地帯に分布するのだが、タンザニアのマコンデ彫刻はかなり商業的になっているから、もし素朴なモザンビークの彫刻が見られたら楽しいという野心一杯の旅だった。

 イーリャは10世紀の頃から歴史に登場するが、それ以前から西インド洋の季節風貿易の環の中で、貿易商人たちの居留地があったことは想像に難くない。アラブ・ムスリム系の支配者が、キルワ(タンザニア)のスルタンの支配下で、ジンバブウェ~ソファラから来る金・象牙の貿易を握っていたと思われる。伝説上の建国者の名前、Moussa bin Mbikiからモザンビークの名が生まれたといわれる(未確認)。

 1498年3月のヴァスコ・ダ・ガマの来航がイーリャの運命を変えた。ポルトガルによるインド洋貿易支配・略奪の16~17世紀には、イーリャはモンバサ(ケニア)と並び、インド(ゴア)航路の要路として栄えた。現在残るサンセバスチャン要塞やサンパオロ宮殿も、この時代に建設され、オランダやオマーン・アラブの攻撃に耐えた。今なお天水(雨水)を溜めるための樋、水路、溜池が維持され、水不足の付近の住民が利用している。

📷 サンセバスチャン要塞  19世紀末まで、イーリャにはポルトガル領東アフリカの総督府が置かれていたが、スエズ運河の開通(1868年)によりその重要性が薄れ、1898年ロレンソマルケス(現在のマプト)にその地位を奪われ、更に1951年にすぐ北のナカラに深水港が建設されると、港としての存在も薄くなり、単なる地方都市に転落した。1975年の独立の伴うポルトガル人の脱出帰国も相俟って、往時の栄光を失い、寂れた町になった。独立~1992年まで続いた内戦の最中には、本土からの難民で人口は膨れ上がることになる。

 1991年ユネスコの世界遺産に指定され、1997年1,100万ドルの予算が付き、町の補修事業が始まった。サンパオロ宮殿やストーンタウン(旧中心街)の一部ではきれいに補修が終わり、サンセバスチャン要塞の補修にも日本政府から2億円の予算が付いたというのが、町の人からの情報である。

 町を歩いてみると、イーリャ北半のストーンタウンは確かにきれいに補修された家並みもあるが、そこかしこに珊瑚石が剥落して崩れた廃墟も見られ、かつてはあった様子の道路の舗装もないに等しく、まだまだ復興途上の感がする。頭にバケツを載せて水を運ぶ女たちの行き交う姿に水不足を感じる。ストーンタウンにある旅行者用のレストランも4軒、土産物屋も3軒しかなく、それも閉まっている時間が長く、開いてても客は私たちだけだったり、品薄だったりして、閑散としている。

 ストーンタウンは気だるい眠ったような町だが、島の南半のマクティタウンには人が多い。女子供老人たちだけでなく、若い男たちも非常に多い。これは内戦の影響で、独立時7,000人ほどの人口が、内戦中には25,000人まで膨れ上がり、現在は15,000人ほど(数字は推定)だそうだが、前述のようにストーンタウンには空家が目立つのに対し、マクティタウンには家々がぎっしり軒を接している。 

📷 イーリャのストーンタウン  ガイドブックには、「ポルトガル風に、アラブ風、インド風、アフリカ風が混ざり合った街並み」と書かれている。ポルトガルに行ったことのない身としては、どれがポルトガル風かは分からないのだが、インド人、アラブ人の姿も少なく、はっきりインド風、アラビア風といえるのは少なかった(ヒンドゥー寺院やモスクはある)。ただそれらを受け入れたスワヒリ風というのがないことはない。ザンジバルを見慣れている目にはやや物足りない狭い通りや、外に縁側の出た民家の作りなどである。ザンジバル・ドアというにはおこがましい簡素な彫のドアを「スワヒリ風」と称していたが、おそらく需要も職人もいなかったのではないか…。ストーンタウンにはザンジバルのような3層、4層の建物はない。土地が広くゆったりしているといえばそうだが、それだけの富の蓄積も誇示もなかったのだろう。敢えて言えばかつて行ったコモロのストーンタウンの街並みを髣髴させる。  

 目に付くのは、赤、黄、緑、水色といった派手な色に塗られている建物。漁村も色とりどりで南国を感じさせる風景で、女性の服装も派手、開放的で、ザンジバルと違って目を楽しませる。混血の度合いも多いように感じられた。

 この土地の人々がどの程度生業に就いているのだろうか?おそらく産業は漁業、観光業、建設業(補修関連)、及びプチビジネスだろうが、どれも大勢の人を雇用するには至っていないだろう。目に見える観光業では、ホテル、ゲストハウスのベッド数は150~200くらいだそうで、それが生み出す雇用も150~200人ほどだと聞いた。閑散とした土産物屋を見ていても、まだまだである。

 「世界遺産」のプロジェクトが軌道に乗り、日本を始め各国の援助が入り、ストーンタウンがきれいに再生され、空家が埋まり、観光客が大勢来るようになって、町が賑やかになれば解決するのか?観光業というのはある面寄生的なものであって、その恩沢を受ける者は、アフリカ諸国の場合は外国人投資者であることが多い。その場合、土地の若者たちからは、しつこい物売り、ガイドや浮き草的稼業を生み出すことになる。世界遺産が完全なる遺跡であったり、あるいは現代に活きているものならよし、イーリャのように死に掛けていたとまではいかないが、眠っていた町を目覚めさせる場合は、その土地の人々が歩む道程が難しいと感じた今回の旅だった。

     モザンビーク情報は、下記にもあります。

モザンビーク

(2005年2月1日)

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