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Habari za Dar es Salaam No.37   "Bomani Afariki Dunia" ― ボマニ氏の死去 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 4月1日朝、ポール・ボマニ氏がダルエスサラームの病院で亡くなった。80歳。自宅でテレビを見ていて意識を失い、3月25日から入院中であった。死因は脳溢血とされる。4月3日日曜に学長であったダルエスサラーム大学の教会でミサ、その後自宅に遺体は移され告別を受けた。4月4日ムワンザに遺体は運ばれ、ニャマガナ・スタジアムで市民の告別を受けた後、カプリポイント墓地に葬られた。ダルエスサラーム、ムワンザ共、ムカパ大統領が参列し、国葬ではないが丁重に独立の闘士を見送った。 残り少ないニエレレ世代の政治家が逝った。

📷  新聞発表によるボマニ氏の履歴は以下の通り。未亡人と9人の子供を残した。

1925年 マラ州ムソマIkizu生まれ(1月1日)。父はSeventh Day Adventist Missionの牧師であった。 1939年 Nassa S.D.A. School入学  1945年 Ikizu S.D.A.Secondary and Teachers Training School入学 1950年 レイク州綿花栽培者協会委員長 1952年 スクマ同盟委員長 1954年 立法評議会(Legco)委員任命、Loughborough College(UK)入学 1955年 ビクトリア協同組合連合会社総支配人 1958年 Rammage憲法改革委員会委員 1960年 国会議員、協同組合天然資源大臣(自治政府) 1961年 Ian Macleod憲法委員会委員、国会議員、協同組合天然資源大臣(独立政府) 1962年 大蔵大臣 1964年 大蔵経済問題大臣 1965年 経済問題開発企画大臣、通産鉱業大臣 1968年 EAC創立条約のための Phillip委員会委員 1972年 駐アメリカ(兼メキシコ)大使(~83年) 1976年 John Hopkins University(USA) MA(International Relations) 1983年 天然資源鉱業大臣 1984年 土地天然資源観光住宅大臣 1986年 農業市場大臣 1988年 労働社会福祉大臣 1989年 地方政府市場協同組合共同体開発大臣 1990年 大統領府国務大臣政策調整遂行担当 1992年 タンザニア醸造公社(TBL)会長、タンザニア蒸留会社(TDL)会長 1993年 ダルエスサラーム大学学長

   私がボマニ氏に会ったのは2回ある。1999年に吉田昌夫氏(中部大学教授=当時)がインタビューを申し込んだ際の、下交渉にご自宅に伺った。もう1回はその2~3年後、ダルエスサラームのホテルでのパーティーで偶然再会した。どちらの機会でも健康そうで、明瞭に意見を述べておられた記憶がある。

 吉田昌夫氏によるインタビューは、1999年8月1日にご自宅で実現した。私は列席していなかったが、吉田氏による録音記録があるので、その内容を読むことが出来る。インタビューの内容は、吉田氏の興味であった、タンガニーカ独立以前のボマニ氏が協同組合で果たした役割、及びそれがタンガニーカ独立運動に占める比重といったものだ。

 ボマニ氏は、タンザニア最大の民族であるスクマ人の、最大の商品作物である綿花の協同組合のリーダーとして名を挙げた。当時50人以上いたスクマ人の伝統的首長が、ややもすると植民地政府の代弁人になるのを、説得・調整し、最終的にはその影響力を無力化していった。1940年代、ウガンダのジンジャにある綿紡績工場の仲買人(アジア人)が、スクマ農民の文盲、計算が出来ないことにつけこみ、買い付けで大幅な量目のごまかし、低価格での買い付けで、農民を搾取することに対する農民の組織化、組合運動のリーダーとして、ウガンダを含むビクトリア湖地方で活躍し、当時のボマニ氏はKishamapanda(開拓者、道を伐り拓く者という感じだろうか?)と呼ばれた。また当時やや停滞していたタンガニーカ・アフリカ人協会(TAA)の運動に新風を吹き込み、政治運動化し、 政党であるTANUの創設に大きく貢献した。

📷

 独立後も、各省大臣を歴任した。専門の協同組合担当はもちろん、天然資源鉱業大臣として、それまで外国人に独占されていた、金やタンザナイトなどの鉱産物の小規模開発への道を拓いた。また1972年~83年の長きにわたり、駐アメリカ大使を務めた時代は、「ニエレレ第三世界外交」が華やかなりし時で、当時解放戦争を闘っていた、ギニア・ビサウ、モザンビーク、アンゴラ、ジンバブウェ、ナミビア、南アフリカの「自由戦士の」の代理人として活躍、またともすれば対立しがちなアメリカとの調整役を務め、ニエレレのまさしく右腕だった。

 ただこの期間は、タンザニア本国では、「ウジャマー政策」の遂行期でもあり、集村化に伴い、協同組合の改編(従来の組合の廃止)が行われ、 翼賛的な協同組合は求心力を失い、官僚化し、ボマニ氏が心血を注いで育てたスクマ地域の綿花協同組合も失われ、生産量が停滞どころか低下するに至った。ニエレレ本人の「質素、倹約」の性向は評価しつつ、風土に馴染まない中国型の人民公社方式の導入には疑問を表明している。

 独立以前の時代、ニエレレを身近で知る人がまた一人逝った。タンザニアの現代史の再構成が急がれると思う。

 合掌。

 追記:吉田昌夫氏によるインタビュー内容の一部を参照させていただいた。

(2005年5月1日)

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