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Habari za Dar es Salaam No.51   "African Underclass" ― ダルエスサラームの都市化と犯罪 ―

更新日:2020年7月2日

根本 利通(ねもととしみち)

 ダルエスサラームは私が初めて訪れた1975年も、そして独立以前から、タンザニア随一の大都会だった。社会主義時代は、大都市といっても、隣国のケニアのナイロビと比べると、なんとなく古ぼけた田舎町の雰囲気も持ち、街中に人が住み、何年経ってもあまり変わらなかった。「ダルエスサラームのいいところは、10年経っても同じ場所に同じ店があることさ」と言われていた。2000年代に入り、古い建物が壊され、新しいビジネスビルが建てられるという再開発が進み、様相が変わりつつある。人口も2002年の国勢調査では250万人だが、実際に把握されていない流入人口、一時滞在人口を入れると350万人はいると思われる。

 さて、植民地時代のダルエスサラーム市の発展とそれに伴う犯罪の増加を分析した本が出た。Andrew Burton著「African Underclass - Urbanisation, Crime & Colonial Order in Dar es Salaam」(2005年刊、The British Institute in Eastern Africa)で、Eastern African Studiesのシリーズの一冊である。仮に訳せば「アフリカ人下層階級ーダルエスサラームにおける都市化、犯罪と植民地秩序」となるだろうか。この本の内容を、現在のダルエスサラームの状況と重ねながら、紹介したい。

 ダルエスサラームという町が造られたのは、1860年代に遡る。対岸のザンジバルのスルタンが夏の離宮と、大陸側の運営拠点として建設したようだ。正確な統計はもちろんないのだが、1867年の人口は900人、1887年には3,000~5,000人と推定されている。1891年にドイツ領東アフリカの首都がバガモヨからダルエスサラームに移されて、ドイツ人植民地官僚、インド人商人などが移住し、タンガニーカの首都として発展していくことになる。

 さて、前記の「アフリカ人下層階級」の記述を追ってみよう。構成は4つに分かれていて、序章と1章が導入部分、第一部(2~5章)「アフリカ人の都市化と植民地政策‐1919~46年」、第二部(6~9章)「植民地時代のダルエスサラームの犯罪‐1919~61年」、第三部(10~12章、結章)「都市化と植民地秩序‐1947~61年」となっている。 

 序章はおもしろい。「Wahuni」というスワヒリ語の言葉の起源から入る。私は1984年からダルエスサラームに住むようになり、最初の2年間はダルエスサラーム大学内で生活していたが「あいつはmhuniだ」という言葉をよく聞いた。mhuniは単数、wahuniは複数である。同じエリート大学生(男性)同士の軽口の交換だから、あいつは「遊び人」だとか「浮気者」「女たらし」とかいった感覚だった。その表現が女子学生に向けられるとかなりきつい差別表現になる。さらにそれが一般の人たち(労働者たち)の会話で、特に金が絡んだりすると「口が軽い」「嘘つき」「信用が置けない」「詐欺師」という範疇まで入ってくる。決して愛すべきお調子者という感覚ではない。

 この本で扱われる「Wahuni」という言葉は1910年代に遡るらしい。Ngoma ya Kihuniというグループが1911年にダルエスサラームの郊外に存在したらしい。言語学的な語源研究は私の任ではないが、「未婚の=身持ちの固まらない若者たち」というのが本来の定義なのではないか。植民地時代の大都市ダルエスサラームに登場した職のない若者たちを、「居候」「浮浪者」「怠け者」と呼んでいたころよりも、さらに1930~40年代の植民地当局の記録には「厄介者」「与太者」「小悪党」という感じで現れる。ダルエスサラームの都市化、人口の増加とともに、このWahuniが次第に増加し、それを取り締まり「故郷の村に送り返そう」という植民地当局とWahuniたちとの戦いの歴史がこの本の骨組みになっている。


ダルエスサラーム市の人口の増加  独立の4~3年前の1957~58年、このWahuniたちをダルエスサラームから追放する(故郷の村に送り返す)動きが最高潮に達した。毎年記録に残るだけで2,000人以上の人間が判決を受け、ダルエスサラームから追放されている。1957年当時のダルエスサラームのアフリカ人人口は、国勢調査では93,363人だから、その2%を超える人間が毎年追放されていることになる。これはかなりな数字だ。もっとも追放される人間は「非合法居住者」と見なされた人物だから、国勢調査に把握されているとは限らない。追放の根拠となったのは1944年制定の「望ましくない原住民の移転条例」である。1953年には「原住民(Natives)」という言葉は「人物(Persons)」と変わったが、本質は同じで、植民地当局から見て「望ましくない」と見なされた人物はダルエスサラームから追放されるのである。この本の表紙の写真は1955年にこの条例で追放された人物である。

 どういう人物が「望ましくない」かというと、無職である者、働いてはいても定職ではない(臨時雇用)者、正規の職業に就いていない者、過去数年税金を払った証明がない者、各5年の内4年間はダルエスサラームに住んだという証明がない者、日没から夜明けまで無灯火で歩いている者…、などなどは全て追放の対象になる。つまり、植民地政府が必要と見なしている正規の職業に雇用されている者以外は、ダルエスサラームに住む権利がないということだ。これを読むとすぐ思い浮かぶのは、悪名高かったアパルトヘイト時代の南アのパス法、そしてローデシアの法律、植民地ケニアのKipande制度といった、植民地(あるいは白人少数派)政権が認めた者以外のアフリカ人は都市には住まわせないという考えだ。ものすごく単純化して言えば、「都市は白人のためにあるのだから、白人に役立たないアフリカ人は都市に住むな」ということだ。これはイギリス流の思想なのだろうか。イギリス統治下の東中央アフリカの都市の「流入規制」の関しての会議ももたれた記録がある。(1958年Ndola会議)

 いや、少し先回りしてしまったようだ。本書の叙述に添って、第一次大戦後、タンガニーカの統治をドイツからイギリスが引き継いだ(奪い取った)ころから見てみよう。1916年、ダルエスサラームはイギリスに占領されたが、1920年に都市条例が発布され、ダルエスサラーム統治の青写真が出る。ダルエスサラームは当時3つのゾーンに分けられ、Ⅰ(ヨーロッパ人)、Ⅱ(インド人)、Ⅲ(アフリカ人)と居住区が分けられた。ゾーンⅠは現在の官庁街、シービュー、ウパンガなどで、市域の拡大とともにオイスターベイも入ってくる。 ゾーンⅡは中央商業街である。ゾーンⅢはカリアコーであり、人口の増加とともに、ゲレザニ、ケコ、イララと西へ拡大し、その後マゴメニ、キノンドーニの方向にも広がっていく。ゾーンⅡとゾーンⅢの間に中立ゾーンと呼ばれる空白地帯があり、そこは現在のムナジモジャ公園に当たる。

 都市に就職、現金収入を求めて農村部から若者が流入してくるのは、世界中どこでも見られたことである。産業革命後のヨーロッパや日本の歴史の中でも見られた。ただアフリカの植民都市の場合は、多少様相が異なるようだ。ダルエスサラームは19世紀半ば過ぎは小さな漁村で、原住民がいたとすれば、ションビ、ザラモといった人々だったろう。ダルエスサラームがドイツ領東アフリカ、そしてイギリス委任統治領タンガニーカの首都となり、人口の増加はグラフに示された通りだが、流入してくる人口の多くは周辺部分の、現在のコースト州が多く、次いでリンディ州、モロゴロ州といった地域になる。ダルエスサラーム周辺に元から住んでいたザラモ人が1931年から1957年の国勢調査を通じ32~36%の人口を占めトップである。2番手はコースト州南部からリンディ州北部にまたがるルフィジ人で9%から7%程度。モロゴロ州のルグル人が1931年には0.4%しかいなかったのに、1957年には6.0%を占め3番手にのしあがっている。それに反し、比率が減少しているのは、マニエマ、ヤオといったダルエスサラームからは遠方の出身で長距離キャラバンを担当した民族、あるいはその商品だった奴隷からの解放された者の子孫たちである。

 ダルエスサラームは昔からの都会ではなかったので、東京における「江戸っ子」のような存在は、少なくとも植民地時代にはかなり少なかったはずだ。つまり先祖代々、祖父母からダルエスサラーム生まれという家族は非常に少なかったはずだ。流入してくる人たちも、ダルエスサラームに定住しようと思ってくるのではなく、ザラモやルフィジといったダルエスサラームの近隣の後背地から来る人々は「農閑期の出稼ぎ」という感覚であったろう。つまり乾季に現金収入を求めてダルエスサラームにやってきて、また雨季には村へ戻っていくパターンである。イギリス人植民地官僚の下の中間官僚、商人はインド系の移民が占め、初等教育を受けたアフリカ人(現在のタンザニア生まれとは限らず、ケニア、ウガンダはもちろん遠く南アやスーダン出身者もいる)が下級官僚を占め出したころだ。アフリカ人のほとんどは短期間の非熟練労働者(家内労働者、港湾労働者など)として存在し、故郷の村との紐帯を強く持ち、帰属意識をダルエスサラームには持っていなかった。


ダルエスサラーム駅  では、Wahuniと呼ばれる若者たちはどうやって登場したのだろう。村出身者の職を持っている親戚・知人を頼って居候からはじめ、最初は非正規の仕事で、うまく正規の就職にありつけば故郷から家族を呼んで住み着こうとした人たちもいただろう。ただ、故郷を逃げ出した若者たちも多かったようだ。比較的年配者が「税金を払うために現金収入を求めて」ダルエスサラームに来るのに対し、税金を逃れてダルエスサラームに来た若者も多かったようだ。また税金を払うために来たつもりでも、帰らなくなったものもいただろう。さらに、農村の因習的な長老、親の束縛を逃れ「自由」を求めてきた若者、夫の暴力から逃げてきた女たちも多かったようだ。第二次世界大戦に従軍した帰還兵士たちが、わずかな除隊金をすぐ使い果たして、農村に帰らず都市に住み着こうとした例も多い。総じて「都市の空気が自由にする」のか、若者の比率、特に10代の親のいない子どもたちの比率が高く、彼らは教育をほとんど受けていないから就職口はほとんどなく、ダルエスサラームで浮浪者のような生活を送ることが多くなる。

 都市の流動性を計る一つの目安として男女比の数字を使うことがある。つまり男性の比率が高ければ高いほど、出稼ぎ率が高いということになる。1931年のダルエスサラームは206(女性100に対する男性の数字)であり、同じ時期のナイロビが400を超えていたようだから定住率はそこそこあるといえる。ローデシアのソールズベリ(現在のジンバブウェのハラレ)は1,660くらいだったようだから、比較の対象にもならない。ちなみに1957年のダルエスサラームは136、2002年の国勢調査では102(全国平均96)である。

 植民地当局は浮浪性の高い若者たちの流入を防ぐために、「旅行証明書」のような一種のパスを義務付けたりしたが有効性が薄かった。またダルエスサラームの統治に非ヨーロッパ人のトップにアラブ系のLiwaliを置き、その下に3~4人のWakiliを置き、司法機能をもたせ、さらに地区毎にMajumbeといわれる町会長のような存在(ダルエスサラーム全体で24~28人)に、その地区の住民の監視、流入の管理をさせようとした。その町会長が警察と組んで、不法居住者の取り締まり、ダルエスサラーム退去に関わることになる。もちろん取り締まられる側もただ手をこまねいているわけではなく、インド人の商店街で衝突が起きたり、職業的な強盗団が形成され、郊外に巣食ったりして、犯罪が増えていく。

 植民地当局も流入規制だけではなく、季節労働者の町から定住したアフリカ人の町の形成も計るのだが、大戦間期は大恐慌以降の不景気で投資も滞り、就職口も増えず、賃金も停滞したまま、アフリカ人地区の住居やインフラの整備も進まなかった。第二次大戦後の投資、建設、商業ブームの中で、1947年、50年の港湾労働者のストが起こる。いったんストが始まると、失業者の大群(Wahuni)が加わり大騒動になり、軍隊まで出動しての鎮圧となった。必要な生計費を常に下回っていた公定最低賃金の改定や、アフリカ人住居区にモデル住宅の建設を始め、ブグルニ、チャゴンベ、キゴゴ、ミコロショーニといった地区が発展する。ローン方式で住居建設を進め、アフリカ人の家主、大家を作り出す方向に進んだ。また、アフリカ人地区の小学校の建設も遅々とはしているが進んだ。1956年の調査では、ダルエスサラーム生まれの人口が30%、6年以上ダルエスサラームに住んでいる人口が55%に達し、定住率が高まっている。「ダルエスサラームっ子」が生まれているわけだ。

 その一方で、「望ましくない人物」の追放は1957~58年に最高潮に達する。都市の人口の増加に就職口が追いつかない。1956年に37,000人の労働者がいたが、その一方で推定20,000人の失業者がいた。この背景には、キリマンジャロ州やカゲラ州のような換金作物のある州と違って東部州(コースト、モロゴロなど)農村の相対的な貧困もあるだろう。警察と町会長が組んで偵察し、朝9時に仕事に行っていない者を一斉逮捕し、税金未納、住所不定、無職などと認定されれば、判決を受け、ダルエスサラームから追放される。路上生活者はもちろん、親戚知人の家に居候している者も容赦されない。ダルエスサラームの都市人口の10%がこの捜査で捕まり、2%は追放されるというのが1950年代の後半のダルエスサラームの一面であった。


植民地時代の建物  1950年代後半といえば、TANUを中心として独立運動が盛んになっていく過程で、民族主義者からはこの植民地当局の施策・弾圧は当然非難の対象になった。が、一方で教育を受けたアフリカ人インテリ層には、Wahuni層と一線を画し、強制送還を支持する態度があったと著者は主張する。

 著者は結章で結論ではなく、独立後の展開に触れている。独立後、公定最低賃金を2倍にしても、職を創出できるわけはなく、1967年のアルーシャ宣言後のウジャマー政策、その中で「Nguvu Kazi」で都市の乞食などを農村へ送り強制労働させたこと、現在のマチンガ(露天行商人)と官憲の追いかけっこなどに触れ、現在ダルエスサラームに住んでいる著者らしい観点から、植民地時代から政権側の対応は変わっていないと主張する。その主張・解釈には留保したいが、「望ましくない人物の移転条例」は今なお有効なのだろうか?今でも身分証明書(Kitambulisho)を携帯していない若者が夜歩いていると、警官に不審尋問され、反抗的な態度を取ると捕まることがある。これは警官の小遣い稼ぎの面はあるが、根拠となる条例は残っているのではないか。

 私は1975~76年の間、ダルエスサラームには6ヶ月くらい滞在していた。最初はホテル、ゲストハウスに泊まっていたが、長くいたのは今はなきドライブイン・シネマの裏手のミコロショーニというザンジバル人亡命者とマコンデ人(これもモザンビークからの亡命者)の多い地域だった。めったに来ないバスを使って街中まで往復していたが、ときどき1時間弱くらいで歩いて帰ったこともあった。酔って星空を見ながらゆらゆらのったり帰ったこともある。平和な時代だった。そのころWahuniという言葉を聞いたことがなかった(これは気がつかなかっただけだと思う)。

 当時の街中はインド人街というか、1階が店で、2階以上が住居になっている下駄履き住宅が多く、街中に多くの人たちが住んでいた。私も短期間だが、インド人のアパートに下宿していたことがある。当時のインド人はお金があっても郊外の一軒家住宅には住まず、古い下駄履き住宅やアパートに固まって住んでいた。それはウガンダではアミンが威張っていた時代だから、安全保障の意味からだったのかもしれない。ただインド人街には、独特の匂いが流れ、深夜歩いても老若男女が夕涼みをしていて平和だった。

 2000年代に入って再開発が急激に進むと、街中も大きく変わっている。夜は怖くてのほほんとは歩けないようになった。カリアコーにもよほどの用事がない限り、足を向けなくなった。ナイロビのようになって欲しくないと、感傷に浸る暇はないほどの勢いなのだが、古き街の住民、特に植民地時代を知っている老人はなんと言うだろうか。都市化が進めば人間は悪くなり、物騒になるという一般化ではない、アフリカの植民都市の問題がダルエスサラームにも顕著に出てきたように思われる。1940年代に「ダルエスサラームの都市化が進みすぎた」と記録した植民地官僚は21世紀の今のダルエスサラームをなんと表現するだろうか。

(2006年7月7日)


ダルエスサラーム物価情報(2006年7月)US$1=Tsh1,258シリング

・バス/1乗り/Tsh200~Tsh300・新聞(朝刊英字紙)/1部/Tsh400・ガソリン/1リットル/Tsh1,460・米/1kg/Tsh1,200・たまねぎ/1kg/Tsh800・砂糖/1kg/Tsh1,000・ウンガ/1kg/Tsh550・牛肉(ステーキ)/1kg/Tsh3,300・卵/トレイ/Tsh3,500・パン/1斤/Tsh300

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