• 白川

Habari za Dar es Salaam No.52   "Citizens of the Sea" ― 海の市民たち ―

根本 利通(ねもととしみち)

 この7月14日~23日の間、ザンジバルで開かれた「ザンジバル国際映画祭(Zanzibar International Film Fair」を覗いて来た。今年で9回目であるが、今まで見る機会がなかった。正式名称は国際映画祭だから、映画上映が中心で、セネガルやモロッコ、ケニア、アンゴラ、タンザニア、南ア、エジプト、イラン、インドなどの作品が出品され、公式プログラムに依れば、参加作品は長編17、ドキュメンタリー39、短編29、アニメ6作品を数え、さらに「Out of Africa」など67作品が上映され、多彩なラインナップになっている。

 また副題に「ダウ諸国祭り(Festival of the Dhow Countries)」とあるように、インド洋西海域のいわゆる「ダウ諸国」が参加し、この地域の音楽、演劇、美術などの公演・展示もあり、またこの地域の交流・歴史に関するシンポジウムも開かれ、報告書も出る。今年のメインテーマは「Sails of History:Citizens of the Sea」であった。主題は「帆船の歴史」ではないし、「歴史の帆」ではおかしいし、なんと訳したらいいのだろう、副題は「海の住人」かなと思って参加したのだが、主催者はもっと深い寓意を込めていたようだ。

📷 ダウ船=ジャハージ  ダウ船と総称される帆船は、紀元前の昔からインド、ペルシア、アラビアとアフリカ大陸東岸を含む範囲のインド洋西海域を結ぶ交通手段として、海は隔てるものではなくつなぐものとして存在することを証明する主役となってきた。20世紀以降、動力船に押され、海上輸送の主役からは姿を少しずつ消したが、今なお各地の沿岸航海では重要な位置を占めている。昨年も「季節風と人の移動」というテーマで、例えばインド洋西海域のアフリカ人の存在(移動と展開)に触れている。

 「アフリカ人の移動」といった場合は、大西洋における奴隷貿易がまず思い浮かぶが、インド洋においても奴隷貿易の影響は残されている。ペルシア湾岸におけるオイルブーム以前の、真珠採り、塩田開発、デーツ(ナツメヤシ)プランテーションには、アフリカから強制的に連れられてきた労働力の存在は欠かせなかったし、またそれを運んだダウ船のクルーにもアフリカ人のクルー(奴隷的存在)がいた。現在、オマーン、ドバイ、イェメンなどのアラビア半島諸国には間違いなくアフリカ系の住民、文化があるし、さらにイランやインドの西海岸にもいることが知られている。

 インド洋西海域におけるダウ船の貿易を簡単に説明すると、紀元前の昔から季節風を利用した貿易であった。インド西岸、ペルシア、アラビアから見ると11月~3月に吹く北東季節風に乗って東アフリカ海岸(ソマリア、ケニア、タンザニア、モザンビーク北部)にやってきて、5月~9月に反転して南西季節風に乗って還って行くというパターンであった。南西季節風は強いので、特に7~8月は荒れるので海の閉鎖期と言われ、ダウ船は修理に入った。今でも7~8月のダルエスサラーム~ザンジバル間のフェリー、特にザンジバルからダルエスサラームに向う場合は海が荒れて酔う人が多い。

 この貿易で移動した商品は、東アフリカへは綿布、ビーズ、鉄器、干魚、サメ、ギー(バター油)、逆に東アフリカからは、象牙、犀角、鼈甲、金、皮革、マングローブ材、ココヤシ、香辛料、奴隷などである。もちろん時代によって変遷はあるし、奴隷が主要な商品となったのは18世紀後半~19世紀だけだと言ってもいい。長い時代主役になってきたのは金と象牙だっただろう。

📷 ザンジバルのダウ船  ヨーロッパ勢力がインド洋に大きく登場した19世紀になると、前半はマスカット~ザンジバルを結ぶオマーンの海上帝国による奴隷貿易が盛んに行われ、産業革命期に入り奴隷労働から賃金労働に転換するイギリスの、海軍による奴隷貿易の鎮圧運動が登場する。その経緯は「人道的キリスト教によるアラブ・イスラムの奴隷貿易鎮圧」宣伝に詳しいから省くとして、19世紀後半ザンジバルの奴隷市場が閉鎖される(1873年)以降にダウ船によって運ばれたのは、象牙、クローブ(丁子)そしてマングローブ材が主要商品である。

 東アフリカからのマングローブ材のアラビア半島、ペルシア湾岸への輸出はまだ詳細には解明されていないが、砂漠気候の森林の乏しいアラビア半島にとっては、東アフリカのマングローブ材は安くて有用な建築材料として、極めて長い間輸出され続けた。1960年代にアラビア半島がオイル・ブームに突入し、マングローブ材を使った伝統的な家屋が作られなくなっても、建築現場の足場材としての需要はしばらく続いた。タンザニア随一の大河であるルフィジ川河口の広がる大湿地帯は今なおマングローブが密集して生えているが、大雨季にアラビア半島から到来していたダウ船(ムテペなど)は河口から増水を利用して遡上し、そこからは小型のダウ船(マシュアなど)で切り出したマングローブ材を積み込んだと言われる。マングローブの切り出しには、現在のケニアのラム島周辺のバジューンと呼ばれる人々が専門職としてタンザニアにも出稼ぎをしていたらしい。ペンバ島にも小さなマングローブ地帯があるが、そこにもバジューンの末裔は住んでいるらしい。ケニアのラム島周辺のマングローブ林は、乱伐がたたって小さくなっていると聞く。私自身は1976年、ラム島、マンダ島のマングローブ林は豊かだったという記憶があるが、遠い昔のことなのだろうか。このザンジバルのダウ船を主役としたマングローブ材の輸出の歴史は、Erik Gilbert著『Dhows & Colonial Economy of Zanzibar:1860-1970』(East African Studies)の中に描かれている。

 Gilbertは、奴隷貿易鎮圧後のザンジバルにおけるダウ船による貿易を、植民地当局(イギリス)が公的な経済統計からは外れた、インフォーマルなものとして捉え、インド、ペルシア湾岸、アラビア半島への長距離貿易、またペンバ島とウングジャ島間のクローブ、乗客輸送も、ザンジバルと大陸(タンガニーカ、ケニア)との間の物資の輸送も、ダウ船ではなく汽船(動力船)でまかなおうと、ダウ船の利用に様々な制約を設けようとした例を挙げている。それは19世紀後半から、1964年のザンジバル革命まで一貫して続くのだが、波止場のないペンバ島の港の地理的条件や、廉価な商品を運ぶためにはコストの安いダウ船は生き延びていく。特に第二次大戦時に、汽船の軍への徴発、石油不足はダウ船貿易に大きな命を与えた。20世紀になっても長距離貿易の15~30%の貨物を運び続けた。

 ダウ船による貿易をインフォーマルな部門に押し込めようとする、植民地当局の努力はしょせん、植民地支配が表面的であったことを示していると思う。ダウ船による貿易は、ザンジバルやスワヒリ海岸がインド洋西海域の世界にしっかり組み込まれてきたことを示している。1964年のザンジバル革命による突然で暴力的な断絶までは…。

 その後の展開はザンジバルをインド洋西海域の世界から切り離し、アフリカ大陸の中に閉じ込めようとしたかに見える時代もあった。ここでは詳しく触れないが、ザンジバルが観光立国だけではない生き方を選べるのではないかと考えさせるヒントが隠されていると思う。

📷 ダウ船=マシュア  インド洋というのは太平洋、大西洋と違って、住民の移動が始まった大洋だと言っていい。インドネシア、マレーシアから帆船に乗って、マダガスカルへ移住が行われたのは紀元6~8世紀のことだといわれているが、その帆船を再現して潮流に乗って航海したドキュメンタリー映画『Braving the Cape』(2005年、南ア)も、このシンポジウム、映画祭で上映された。それをアングロサクソンの自己満足というのは容易いが、正直あまり感動しない映画だった。インドネシアのボロブドゥールから始まり、セイシェル、マダガスカル、ケープを回航してガーナまで行くのだが、マレー系の人々が何を求めて西へマダガスカルへ向ったのかを想像させる部分が少なかった。

 さて、ZIFFの公式カタログにこういう文章がある。

   "現代の中心の課題は、市民権をどう理解するかということである。これは生来の、あるいは帰化によって、あるいは他の何らかの法的手段で得られるものだろうか?これはある特定の国の範囲内で、生き、そして一定の自由を行使するための限定された権利なのか?これは「外国人(Alien)」の存在を補強するためのものなのか?これは特権、もしくは責任の条件なのか?その教義は包括的なのか排外的なのか?そしてこれはひっくるめて、所有への人間の固有の欲求に帰せられるものなのか?"

   "海、大洋はあまりにもやっかいで誰も所有できず、自由の空間としての地位を保っている。数百年にわたるインド洋の文化・社会・経済的交流の独特で今なお続く結果として、様々な例の中全てを含みこむようなスワヒリ文化と言葉がある。これは新しい実体で、文字通りあるいは比ゆとしての海の市民たちの誕生である。"

📷 ダウ船シンポジウム  グローバリズムという風潮(流行と言ってもいい)に対抗する軸のヒントがここにあるような気がする。ヒントは一つではないのだが、自分がこだわってきたダウ船の貿易の歴史の中で見つかるのなら幸いなことだ。

 これはおまけの感想だが、歴史シンポジウムに参加してみて、EnglishのNative Speakerというのは厄介なものだと思った。シンポジウム参加者には白人の比較的年配者が多く、彼らがイギリス人、アメリカ人、オーストラリア人とは限らず、他のヨーロッパ人で母語は違う人も混じっていたのかもしれないが、シンポジウムの共通語は英語である。他の参加者もタンザニア人、インド(系)人などがほとんどで、東洋系は私一人だったから仕方ないが、オーストラリアの学者さんが早口の英語でレジュメも写真も用意せず、原稿をそのまま読み上げる配慮のなさには参った。質問者たちには問題ないのだろうが、私の英語能力では到底ついていけず、議論も断片しか分からなかった。

 2年ほど前に、ダルエスサラーム大学でダルエスサラーム市の発展についての歴史のシンポジウムがあったが、その際も米英の学者の発表に私はついていけず、日本人の発表者は途中からスワヒリ語に切り替えてしまったのが印象的だったが、本当につらい。これがグローバル化の世界の趨勢であり、ましてやタンザニアはイギリスの植民地だったから当然なのだろうが、私の能力ではこなせない。歴史資料の分析などの処理能力が違うから勝負にならないかなと思う。もちろんそんなことを言っていては進まないので、次代の人に託すしかないのだが、EnglishのNative speakerというのは、英語をしゃべらない人が今なお世界の圧倒的多数だということをどの程度理解して、歴史認識を語っているのだろう…、彼らの見える世界は狭いに違いない、違う角度から歴史を見ないといけないと、ごまめの歯ぎしりのように感じた日でもあった。

(2006年8月1日)

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