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Habari za Dar es Salaam No.56   "Swahili Coast-Kilwa" ― スワヒリ海岸・キルワ ―

根本 利通(ねもととしみち)

 久しぶりにキルワに行ってきた。キルワは私にとって30年前(1976年1月)に初めて訪れ、卒論にその歴史を書いた懐かしい場所だ。言ってみれば私がタンザニアに住み着くようになった原点のような場所である。私にとってのアフリカの原風景は、キルワ・キシワニのフスニ・クブワの塔楼の上から眺めたコバルトブルーの海とマングローブの緑だ。その後ダウ船の貿易の歴史を調査するために、しばらく滞在したこともある。

 キルワ遺跡はユネスコの世界遺産に指定されてはいるが、維持補修が貧弱で、またダルエスサラーム~キルワ間の道路も名うての悪路で大雨季には交通は途絶し、マラリアの多い気候でもあり、観光客が気楽に訪れにくかった。最近は道路も少しよくなり、ルフィジ川に橋が架かり、外国人による観光開発が進んでいるようで、気になって4年ぶりの訪問である。車はランクルを使った。週末を利用して2泊3日のサファリである。以前は片道10~14時間(途中にあるルフィジ川のフェリーの渡河にどのくらい時間がかかるかによって、大きく異なる)と言っていた道路を本当に6時間以内で走れるのかというのが楽しみだ。小雨季に入っていたし、スタッフのAlexは「本当に行けるのか?」と心配していたが。

📷 フスニ・クブワ遺跡から見る海とマングローブ  ダルエスサラームからキルワ・マソコまで約330km。10年ほど前まではその間舗装されていたのはダルエスサラームからキビティまでの120kmだけで、それも穴がたくさん開いた舗装道路という厄介な代物で、下手するとタイヤがバーストするので、減速して迂回しながら走る。ルフィジ川には橋はなく、老朽化した小型のフェリーで川を渡す。大型トラックやバスが乗ると、6台くらいしか渡せないから、すごく時間がかかるし、またよく壊れるから、川畔で1泊ということもよくあった。川を渡った南側は海岸沿いの砂地になるので、少しでも雨が降るとよくスタックした。330kmを10時間以上かかる道だった。

 今回は往路は5時間半、復路は雨に降られたが6時間で走った。ダルエスサラームからキビティまでの舗装道路は補修というか、再建設されていて100kmほどは完全な舗装道路。キビティの直前の20kmほどが現在タンザニア政府直営で建設中で、古い舗装道路を剥がしている。ルフィジ川にはクウェートなどの資金で長い立派な橋が架けられていた。ベンジャミン・ムカパ橋と名付けられていた。橋を渡りきりしばらくすると舗装が途切れる。65kmほど砂地の道を行く。これが従来の道路だ。しかしソマンガという村からまた立派な舗装道路になる。これを建設したのは中国の会社だが、「あまりに仕事がいいので、建設大臣が自分の出身地のブコバに連れて行ったから、完成していない」とキルワ出身の運転手は言っていた。さらに日本の協力隊、タンザニアの建設会社が作った舗装道路がキルワ・マソコまで続いている。

 ナングルクルの交差点(まっすぐ行くとリンディ、ムトワラへ向かう)を左折し、キビンジの町へ下りる。昔はキビンジからマソコへの道が本道だったが、今はシンギノという村からマソコへの道が本道(舗装道路)となり、キビンジへの道は支道で、昔ながらの悪い道。ココヤシやマンゴーの大木が道をおおい、下にはバナナ、キャッサバ、カシューナッツが植えられ、緑が瑞々しい。ただこの周辺のココヤシは病気が流行り、実を余りつけないという。カシューナッツの価格が少し持ち直しているが、残りの現金収入は魚だという。

📷 マクタニ宮殿  キビンジの町は22年ぶりだと思う。かなり寂れていた。30年前に泊まったゲストハウスはかろうじて営業していたが、食堂も2軒くらいしかなかった。ドイツの植民地時代の役所(ボマ)も半ば崩れ落ちていた。他にも古い(19世紀?)建物にも欠落が目立つ。ザンジバル風の木彫のドアも残り少ない。30年前初めて訪れた際には、アラブ人の店で美少女が店番をしていた記憶があるが今は、アラブ人、インド人は姿を消しているようだ。

 キビンジの町は18~19世紀の奴隷貿易の積出港として栄えた。ドイツの植民地時代にも県の役所が置かれ、第一次世界大戦でも英独の攻防戦が行われた。しかし、独立後、外洋船の港がマソコに建設されると、県庁所在地もマソコに移され次第に重要度を失っていく。県の病院だけは依然キビンジにあるが、それ以外の主要役所、空港もマソコに移された。

 マソコの町は、30年前はまだ新興の未整備の町という印象が強く、小さなゲストハウスが数軒あっただけだったが、今はゲストハウスは数多く、それ以外に外国人観光客を当て込んだ中級のビーチリゾートが3軒ある。そのオーナーは南ア人、ドイツ人、デンマーク人だそうだ。世界遺産であるキルワ遺跡と、フィッシングが売り物である。私も老後はキルワに住んでみたいと思ってもいたが、ヨーロッパ人のビーチ志向には負ける。キルワは白砂のビーチは限られていて、もう外国人に占拠されていた。

📷 大モスク  キルワ・キシワニ遺跡のことに少し触れよう。キシワニというのは「島の」という意味で、キルワ・マソコ(これは「市場のある」という意味)の対岸にある小島に残された遺跡である。モーターボートで10分ほど、マシュアという小型のダウ船でも順風に乗れば15分くらいで着いてしまう。周囲22kmほどの小島で、現在の人口は700人ほどだという。主食用にキャッサバ、モロコシなどを栽培しているが主要産業は漁業である。

 キシワニにいつごろから人間が住み着いたかは不明である。どんなに遅くとも9世紀だが、おそらくそれよりかなり前から住民はいただろう。都市国家としての体裁を整えたのがいつかというのもややハッキリしないのだが、建国伝説では10世紀ころ、ペルシアのシーラーズからやってきた人間が島を覆うだけの布で島を買い取ったと言われる。キシワニにあった都市国家の最盛期は13~15世紀。特にイブン・バトゥータが訪れた14世紀前半といわれる。当時南部のジンバブウェから産出し、モザンビークのソファラから船積みされた金がアラビア、ペルシア、インド方面に輸出される、その航路を押さえ、関税徴収で栄えていたといわれる。金だけではなく、インド洋交易の主要産品、象牙、犀角、べっこう、皮革、奴隷などが輸出され、綿布、ビーズ、鉄製品などが輸入されていた。当時の島の人口が8,000~10,000人と推定され、独自の貨幣(コイン)を持っていた。その当時の宮殿の跡がフスニ・クブワであり、最大の遺跡である。スルタン一家の居住区、浴場、応接間、商取引所、モスクなどがあったと見られる。また大モスクもこの当時の東アフリカ様式の遺産である。

 16世紀に入り、ポルトガルがインド洋航路に進出するようになると、様相は変わり、キルワも一時期ポルトガルに占拠される。海岸に大きく建つゲレザは、一番最初はポルトガルにより建築された要塞である。ポルトガルによる占拠は長く続かず、キルワ・スルタンの復権、オマーン・アラブの進出、フランス人による奴隷貿易(現在のモーリシャス、レユニオンへ)など、時代の変遷を受ける。ゲレザの近くに立つマクタニ宮殿は17~18世紀に使用されたものだ。オマーン・アラブがマスカットからザンジバルにその本拠を移したその年(1840年)に、キルワのスルタンの王朝は姿を消す。そしてキルワ地方の中心もキビンジに移った。

📷 ゲレザとガイドのジャミーラさん  キシワニ遺跡がユネスコの世界遺産に指定されたのは1981年のことだが、私が最初に訪れた1976年は非常に悲惨な保存状況だった。フスニ・クブワ、フスニ・ンドゴは叢に埋もれていたし、大モスク、小モスクも丸いドームから剥落が起きていた。キシワニ遺跡の保存が本格化したしたのは、ユネスコ事務局長に日本人外交官が当選したころからだろう。フランスが主体で日本も一部参加した補修計画が進められ、補修・保存に努力した。現在、その努力の跡が見られ、大小のモスクのドームの剥落は押さえられ、また主要な遺跡には説明の碑が立っている。

 このユネスコによる補修は2年間にわたり、フランスのNGOから派遣された若い職人が島に住み込んで行ったそうだ。コンクリートを使わず、キルワ地域で入手できる石灰、サンゴ、木材を利用し、出来るだけオリジナルに近い形にしようとした。ただ石灰を半年土の中に寝かせて補強するという技術を知らなかったと、島の長老たちに批判されたそうだ。それはともあれ、地域の人間を雇い、補修の技術を伝えようとした。片や、日本はお金だけ出し桟橋を作る(結局作られていない)ということで存在感はなかった。この補修に関する状況はキシワニに住み込んで人類学の調査をしていた名古屋大学の中村亮さんに教わっていたが、今回その補修の結果を見ることが出来た。

 世界遺産にはキルワ・キシワニだけでなく、南隣のソンゴ・ムナラ島にある遺跡も含まれる。やはり14~15世紀の都市国家の遺跡であり、マングローブ林の道をたどった奥にある。今回は訪問しなかったので、どの程度の保存状況かは分からない。前回(1992年)には、キシワニと同じく悲惨な状態だった。 

 今回キシワニを案内してくれたのはジャミーラさんという若い(20代半ば)女性ガイドである。彼女はキルワ・キビンジよりやや内陸部に入った地区の出身である。中学校卒業後、観光学校へ行き、ガイドの資格を取った後、2年半前にドイツ人が経営を始めたリゾートに就職した。普段は中堅幹部としてそのレストランで働き、キシワニへ行くお客さんにはガイドとしてついて行く。かなりよく勉強している様子がうかがわれた。以前は島の長老がそのままガイドとして付いて来ていたが、受け入れ態勢も少しずつ整ってきたということだろうか。

 今回平和なキルワということで油断したか、夜窓から手を伸ばしてバッグを盗るという古典的なやり口で、デジカメを盗まれた。ルフィジ川の橋や、キルワ・キビンジの町の写真を紹介できないのが残念だ。

(2006年12月1日)

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