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Habari za Dar es Salaam No.58   "Islamic Cairo" ― カイロ紀行(イスラーム地区)―

根本 利通(ねもととしみち)

 2005年の正月に家族でモザンビークに行き、昨年の正月にはウガンダに行ってみた。ウガンダではジンジャで白ナイルの源流を訪ねてみた。今年はその続きで、ナイルの河口を訪ねてエジプトに行った。正確に言うと河口までは行っていなくてカイロなのだが、そこは負けてください。

 エジプトは初めてだったので、ピラミッドはもちろん、アブシンベル、アスワン、ルクソールと高名な観光地を回ったが、この小文ではカイロのことにしぼって書こう。 とりわけカイロが世界の中心であった13~15世紀のころのカイロの街について。

📷 イブントゥルーン・モスク  カイロの町の起源は、アラブ・イスラーム勢力のエジプト侵入に発する。当時、エジプトを支配していたビザンティン帝国の勢力を追い詰め、バビロン城を攻め落としたのが641年。その攻城戦の際に、バビロン城の外に作った野営地から、フスタートという名前のカイロの町が始まったとされる。その軍司令官アムルの名前を採ったアムル・モスクがアフリカ大陸最古のモスクとして造られた。当初は簡素なものだったろうが、その後増築が繰り返されて大きくなり、現在も使われているモスクである。オールドカイロ地区という、コプト教徒の多い地区に残っており、シナゴーグも近くにあるなど、宗教的にも入り組んだものを感じさせる。このモスクの後背地にフスタートがあり、十字軍戦争時代に焼き払われてしまったという。

 正統カリフ時代、ウマイヤ朝時代、アッバス朝時代と流れて、エジプトに地方独立政権が生まれる。トゥールン朝(868~905年)である。その創始者アフマド・イブン・トゥールンによって879年に建立されたモスクのミナレット(尖塔)に登ってみる。この地区はカターイ地区と言われ、前記フスタート地区とと後述するカーヒラ地区の中間にあり、現在カイロのイスラーム地区という場合、その南西端にあたる。らせん状の階段を登ると、イスラーム地区が見渡せ、様々な形状のミナレットを持つモスクが散在する中、かなり古そうな建物に住む人々の暮らしが覗ける。

 ファーティマ朝時代(969~1171年)になると、アズハル・モスクが建てられ(970年)、イスラームの学問所として現在のアズハル大学に連なるマドラサが始まる(988年)。イスラーム世界最古の大学、最高学府である。もう30数年も昔のことになるが、高校で世界史の授業の中で、アズハル大学のことを学んだ。当時、アラブ世界の歴史なんてさほど教えられていなかったから、今思うと特記物かもしれない。純粋に理科系の優等生がそれを「ある筈と覚えてアズハルにひっくり返せばいいんだな」と暗記していたことを思い出した。昔から憧れていた念願のモスクだったが、あっけないほど簡単にモスクの中まで案内してもらった。大学は隣接した場所にあり見学させてはもらえないのだが、ひんやりとした広いモスクの中で、いろいろな肌をした若者たちが思い思いの場所で横座りしながら、読書に勤しんでいた。案内人はかなり奥まで見せてくれ、説明してくれた。もちろん喜捨の要求も強かったが…。

📷 アズハル・モスク  ファーティマ朝時代に現在のカイロ・イスラーム地区が成立した。カーヒラ(Al-Qahira)と呼ばれる地区に首都を造営したファーティマ朝は、スンナ派のアッバス朝カリフに対し、はっきり対抗したシーア派のカリフだった。この時代にカイロはすでに100万人の人口を抱えていたという。バグダードがアッバス朝の凋落と共に下降傾向に入り、イスラーム世界の重心がダマスカスやカイロに分散し始めていた。

 この時代の建造物の一つである、ハーキム・モスクを作ったカリフ・アル・ハーキム(996~1021年)は数々の奇行で知られているが、そのモスクも数奇な運命をたどったらしい。牢獄、厩舎、城砦などに転用され、20世紀になって再びモスクとして蘇った。古い外装だが、中庭を覗くとタイルはぴかぴかで、人々は当たり前のように平和そうな気配で、忽然と丘に消え、蘇ると予言されていたハーキムの人生を重ね合わせ、ちょっとした感慨に浸る。ハーキム・モスクのすぐ北側には、旧カイロ市の北境となる城壁が連なり、大きなフトゥーフ門、ナスル門がある。

 アイユーブ朝時代(1171~1250年)の遺跡としては、シタデルの外壁だろう。サラーフ・アッディーンが十字軍との戦争に備えて作った城壁。12世紀の建造物である城壁と塔がかなり残っている。700年以上にわたってカイロ支配の中枢として機能した。カイロのランドマークといえるムハンマド・アリー・モスクはイスタンブールのブルーモスクをまねて1857年に完成したものだから、時代は違う。オスマン朝時代初期(16世紀)のスレイマン・パシャ・モスクもある。

 マムルーク朝時代(1250~1517年)にはカイロは世界の中心として栄えた。当時世界最強でユーラシアで猛威を振るっていたモンゴル軍の分遣隊をパレスティナで破って、エジプトの独立を守ったのもマムルーク朝である。大航海時代が始まる前で、インド洋~紅海経由でもたらされる香辛料などの東方の物資を、地中海経由でヨーロッパと交易し栄えた。この時代の建物は結構残っているのだが、大きいのはスルタン・ハッサン・モスク。シタデルの丘の麓にある14世紀前半創建のマムルーク朝全盛期の巨大な正確に言うとマドラサ(学校)で、内装も豪華だ。80メートルを超えるミナレットに登る元気はなかった。

📷 ズウェーラ門  現在残っているカイロのイスラーム地区の核になる部分は、北はフトゥーフ門から南はズウェーラ門(1092年創建)を結ぶ地区。南北にムイッズ通りが通っているがその周辺だろう。南のズウェーラ門から歩き出すと、その周辺は観光客相手ではないスーク(市場)が連なり、衣類、家庭用品、果物などを混然と売っていてカラフルである。アズハル地区の北には、ハーン・ハリーリという有名な土産物屋街があり、貴金属(金銀製品)、絨毯などを観光客相手に売っている。店も路地も小奇麗に整備されていて、観光客が休むカフェテリア、レストランもある。

 ハーン・ハリーリからさらに北上すると、道の状態は悪くなり、両脇には水タバコ用品、皿などの実用品を売る店、古いマドラサ、サビール・クッターブという下が共同井戸で上がコーラン学校という建物などが点在する。12世紀にサラーフ・アッディーンが黒人奴隷兵を殲滅したバイナル・カスラインはこの辺りだろう。歩きにくい道をさらに北上するとハーキム・モスクの前を抜けてフトゥーフ門で、現代の喧騒の大通りに出る。

 マムルークというのはトルコ人やスラブ人といった白人系の購入奴隷のことを指す。黒人系の奴隷はザンジュと言われた時代もあったが(9世紀のザンジュの乱)、アビード、スーダンと呼ばれ、エジプトに成立した王朝の軍事力のマムルークに次ぐ主要な部分を成していた。マムルークは東方イスラーム世界から購入奴隷として連れて来られた少年が多かったようだ。イスラーム、学問、軍事訓練を受けた後、奴隷身分から解放され、スルタンあるいはアミール(軍司令官)の軍隊に編入される。イスラーム世界で長く軍事の中心を担った存在だが、マムルーク朝はその元奴隷の軍人が、トップであるスルタンまで上り詰めた時代である。奴隷だった人間が、軍人としての実力でのし上がり、選挙などでスルタンになっていくというのは、キリスト教世界の奴隷のあり方とは違う。

 マムルーク朝は1517年にオスマン・トルコによって滅ぼされ、アッバス朝のカリフはイスタンブールに連れ去られる。その後エジプトはオスマン・トルコの一部分になり、世界の中心からは外れる。18世紀末に有名なナポレオンの侵入があり、19世紀初めにはムハンマド・アリー朝が成立し、1952年の革命まで存続するわけだが、この時代はスエズ運河の開削などに象徴されるようにヨーロッパ列強とのせめぎ合いの時代となる。

📷 ムイッズ通り  中世のカイロの街の栄華はともかくとして、カイロは現在でもアフリカ最大、そして中東最大の都会である。夜間着陸しようとする飛行機の窓から、カイロの街を眺めるとどこまでも続く光の波に目を奪われる。ダルエスサラームは300万都市であり、電気のないタンザニアの田舎の村から出てくるとトンでもない大都会に見えるものだ。でも、空港に着き、カイロの街の中心を目指すと、ダルエスサラームとは比べ物にならない広がりを持った大都会だというのが実感できる。ギザなどの郊外を含めると1,700万人とも2,000万人ともいう人口を抱えているようで、世界有数の大都会なのだ。

 エジプトは大観光地である。ギザのピラミッドはもちろん、考古学博物館なども大勢の外国人がつめかけるし、日本語の流暢なエジプト人ガイドの引き連れた観光団にも、カイロのみならずアブシンベル、アスワン、ルクソールで毎日2~3組は遭遇した。韓国人、台湾人の団体も多かった。年季のいった大観光地なのだろう(私はローマとかアテネに行ったことがない)。土地の人々も慣れているから、もちろん観光客相手の客引きは多いけど、言われるほどしつこくないし、一般の人々は外国人がいることに大概無関心である、と言うのは言い過ぎとしても、タンザニアにいるほど外国人であることを意識せずにいられるのは楽だった。

 カイロの街で楽だったのは夜遅くまでのんびり歩けること。初日24時過ぎにホテルに着いたのだが、ホテルの前のオープンカフェには人が多く、大通りには映画がはねた後と思われる人の群れ、それも子供連れが多かった。その日はコプト教のクリスマス(国の休日)の前夜だったからとも思ったが、それ以外の晩も遅くまで家族連れ、女連れのウィンドウショッピングは大勢見られた。タンザニアが比較的平和な国だと思っていた私には新たな発見だった。 

 もっとも全く平和だと言うことではない。カイロの街や観光地には、常に治安警察、観光警察の制服姿が目立った。観光警察は観光客の便宜を図るということなのだろうが、それにしても多く、小遣い稼ぎをしているのもいる。治安警察はある時は盾と銃を構えていたり、装甲車が駐車してあったり、のんびり歩いているとギクッとすることがある。これはイスラーム原理主義による1997年のテロ事件の後遺症というか、観光国として最大の外貨獲得資源を何が何でも守るという姿勢の現われだろう。それにしても警官の数の多さにはうんざりする。若者の失業対策かという気もした。

 アラブ随一の大国として、エジプト人は誇り高いように感じた。石油資源をほとんど持たない国として、かつて「アラブの大義」を掲げ、イスラエルと4回も戦った国として、エジプトは行く先を求めているのかもしれない。近代化のためには外資を導入しないといけないのだろうが、国民の3割を抱える大都会カイロの、それも中心街しか見なかった一観光客としては迂闊なことを言うのは避けたい。ほとんど砂漠の地方は貧しいのだろうか…ナイルの恵みを見ながら、思いを馳せた。

   エジプト情報は、下記にもあります。 エジプト  またカイロには日系旅行社Nile Melody ナイルメロディがあり、親切に相談に乗ってくれます。

(2007年2月1日)

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