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Habari za Dar es Salaam No.60   "A Boy in the Postcard" ― 書評『絵はがきにされた少年』 ―

更新日:2020年7月2日

根本 利通(ねもととしみち)

 今回は、藤原章生著『絵はがきにされた少年』(集英社, 2005)を紹介したい。この本は同年第3回開高健ノンフィクション賞を受賞している。著者は毎日新聞記者。1995年~2001年にかけて、駐南ア・ヨハネスブルグ、アフリカ特派員を務めた。本書はその間の記録・エッセイである。

 この本のことはひょんなきっかけで知った。映画「ダーウィンの悪夢」が絡んでいる。昨年12月14日、この映画の日本公開を前に、毎日新聞夕刊の「記者の目」というコラムに藤原氏の文章が載った。「ダーウィンの悪夢」を紹介する文章だった。その末尾に「私は監督の目線に共感する」とあったので、私はメールで反論を送った。「あの映画にタンザニアの一般民衆に対する共感を感じられません。押し付けがましい家父長主義と、ヨーロッパ人観衆に対するセンセーショナリズムを感じます。」と。

 すぐに返事はなかったのだが、2月になってメールが届き、私の反論を紹介したいと言われたので承諾し、2月20日の藤原氏の夕刊ワイド「なぜ今アフリカ」という記事の一部に載った。私の批判の本線からはやや外れた引用だったが、それは藤原氏の文章なのでとやかくいうことではない。という経緯で藤原氏の経歴を調べ、毎日のアフリカ特派員時代のエッセイが賞をもらっていることが分かり、ジャーナリストのアフリカ民衆への目線を知りたいと思い、購入した次第である。


本書の構成は以下の通りである。 第1部 奇妙な国へようこそ  1章 あるカメラマンの死  2章 どうして僕たち歩いているの  3章 嘘と謝罪と、たったひとりの物語  4章 何かを所有するリスク 第2部 語られない言葉  1章 絵はがきにされた少年  2章 老鉱夫の勲章  3章 混血とダイヤモンド  4章 語らない人、語られない歴史 第3部 砂のよう,風のように  1章 ゲバラが植えつけた種  2章 「お前は自分のことしか考えていない」   3章 ガブリエル老の孤独

 第1部は著者が駐在した南アでの出来事を書いてある。1章は「ハゲワシと少女」の写真でピュリッツァー賞を受賞した後、「カメラで撮る前になぜ少女を救おうとしなかったのか」といった批判を受けて自殺したとされる南ア出身のカメラマンのケビン・カーターが麻薬で死ぬ様を追う。語るのは同僚だったモザンビーク生まれの白人ジョアオ・シルバ。アフリカ生まれのヨーロッパ人は、ヨーロッパ人なのか、アフリカ人なのか?という問いが重なる。

 2章ではダーバンの海岸を7歳の息子さんと歩く著者が登場する。息子さんの問いに答えるのは難しい。「差別は認めない」と公言する両親を持つ私たちの子どもたちも、ダルエスサラームでダラダラという公共バスにはなかなか乗りたがらない。夫が日本人、妻がタンザニア人の子どもたちは、母親からバスに乗ることを禁止されている。もちろん日本から来た2~3年の滞在の日本人夫婦の子どもたちはいうまでもない。日本からの大学生やバックパッカーで来た旅行者たちは自然に乗っているというのに、ダルエスサラームで生まれたり、あるいは育った子どもたちは公共バスに乗る経験をほとんど持たない。その社会の中にある階級感、差別感は自然の内に子どもたちに根付いていく。そしてその人たちの経験が「旅行ではなく生活していたんだから…」と重みを持ってしまうことすらある。

 3章は、1994年マンデラ政権が誕生する直前にホームランドで起こった、白人右翼襲撃者が黒人警官に射殺された事件。その黒人警官が真実和解委員会で証言し、それを見つめる被害者の妻。黒人警官は免責されるのだが、同じ社会に隣り合って住んでいて、決して交じり合わぬ世界が存在しているのだろうか。


アンゴラの村に住むダ・シルベラ氏(右)

 4章はヨハネスブルグ周辺のとんでもない治安の悪さの現実に触れる。長い期間反アパルトヘイト運動に参加していた私にとって、南アは行ったことがなく、またしばらく行きたいと思っていない国なのだが、この奇妙なおどろおどろしい国を作り出したのは誰なのか?他のアフリカの国を旅すると感じる安らぎというのはなのだろうかと思う。

 第2部では南ア周辺の国々に生きる人々を描く。具体的にはレソト、スワジランド、アンゴラでの話である。これらの国々以外でもモザンビーク、ボツワナ、ナミビア、ジンバブウェ、ザンビア、マラウィという南部アフリカ諸国は、地域大国である南アへの出稼ぎという形で長い間結び付けられていた。いわば従属国のような形で、地域の経済大国である南アに出稼ぎに行き、アパルトヘイト政権下で差別されていた南アの黒人よりさらに搾取される対象、無権利の労働者として働いてきた周辺国の労働者が定年となり、年金もないまま故郷に帰国している。その老人たちがとつとつと語る言葉、語らないことを聞こうとする。

 1章ではこの本の表題となった話が語られる。レソトの老英語教師タキジ氏が「絵はがきにされた少年」だった。1934年、11歳だったタキジ少年は、クリケット遊びをしていたところ、たまたま通りかかった白人に写真を撮られた。11年後、首都マセルの店で額に入った自分の写真に出っくわす。裸のアフリカ人少年がクリケットをしている写真が絵はがきになって売られており、絵柄を気に入ったその店の主人が引き伸ばして額に入れていたのだ。タキジ青年は、翌日借金して南アに出かけ、まだ売られていた絵はがきを見つけ、やはり引き伸ばしてもらって持ち帰り、家宝として半世紀以上保存してきたというわけだ。

 この話のおまけとしてコンゴでエボラ熱のことを調査した現地の高校の校長さんが、『アウトブレイク』などのベストセラー本、映画にすらなったことも知らず、自分の細かに調査した原稿を本にすることを夢見る挿話がある。写真、ビデオを撮られることを嫌がるタンザニアの地方の人たちは多い。撮影を拒否されるか、「ヨーロッパに持って帰って大金にするんだろう、金を寄越せよ」と食ってかかる人もいる。テレビの撮影のコーディネートでいくとぶつかる嫌な場面だ。ヨーロッパに持っていって、金に換えるほど楽な商売ではないが、日本のテレビクルーもそれで金を稼いでいることは事実だし、そして写される人に比べるとはるかに多い金をそれで稼いでいる。


語らない人、ニャウォ氏(スワジランド)

 撮影され放映されたテレビ番組を、タンザニアに送ってもらい関係者に配布する作業はするが、地方の農村の人たちまでは行き渡らない。ダルエスサラームの役人の家のビデオで止まる可能性が高い。タキジさんは絵はがきにされた自分を見ることが出来たが、21世紀になっても被写体とされる「可哀想なアフリカ人」は自分たちがどう写され、どう報道されているかを知ることは少ないだろう。情報による搾取というのを考えてしまう。カメラマンもジャーナリストも誰に向かって発信しているのか?それはその情報を必要としている=金銭価値を認めてくれる人たち相手だけだろうか?「タンザニアの貧しい人たちに見てもらいたい」という映画作家は本気でしゃべっているのだろうか。

 2章ではレソトから南ア金山への出稼ぎ鉱夫の話。南アでの外国人鉱山労働者はアングロ・アメリカンにとって搾取の対象だったろうが、レソト出身で南アの鉱山に30年以上出稼ぎし、チームリーダーまで出世したマタディさんは、自分の人生に誇りを感じ、「現代の奴隷制」というような見方を強く否定する。息子も今南アの金鉱山で働いている。

 3章ではアンゴラ内戦とダイヤモンドの結びつきを追う。UNITAと政府軍との争奪で無人に近くなった村でダ・シルベラ老に会ったことから、彼の個人史に興味を持つ。シルベラ老は4分の3ポルトガル人というカブリートと呼ばれる混血だった。1975年のポルトガルの革命、アンゴラの独立とそれに伴う混乱の中、父と弟妹達はポルトガルに逃げ、シルベラさんは内戦の中を生き抜く。その糧は密輸ダイヤモンドだ。ポルトガル人とアフリカの付き合いは半端ではないのだ…。

 4章ではスワジランドから出稼ぎだった老人とその息子の話。1928年スワジランドで生まれたニャウォ氏は、20歳を過ぎたころ、ヨハネスブルグに出稼ぎに行く。おりからアパルトヘイト諸法が施行され、それに対しアフリカ人の抗議行動が盛んになっていくころだ。南アの黒人に代わり外国人の「おとなしい」労働者が職場を得ていく。ニャウォ氏は結婚し、子どもが生まれ、やがてソウェトに小さな家を買い、1976年のソウェト蜂起には息子が参加し、その息子をスワジランドに送り返し…という歴史が語られる。1988年定年で引退し、故郷の村に戻るが、子供たちの多くは南アで生活している。著者は語る。「言葉を残すこと、記録することが歴史であるなら、あえて言葉を残さない歴史があってもいい」(P. 177)

 第3部の1章と3章ではルワンダ大虐殺にまつわる話が語られる。チェ・ゲバラの東アフリカにおける足跡が追ううちに、ルワンダとの接点を見出す。ゲバラが1965年にコンゴ動乱にキューバのゲリラを率いて参加したことは知られている。コンゴ革命から南アのアパルトヘイト政権打倒を目指し、コンゴ人を訓練しようとした。当時ダルエスサラームで亡命生活を送っていたローラン・カビラ(コンゴ民主共和国の前大統領で現大統領の父)と提携し、東コンゴに入る。約半年の滞在で、戦闘意欲の欠けるコンゴ人に失望していく中で、少しましなルワンダ人部隊に出会う。1959年のフツ革命で亡命していたツチ人の部隊である。1959年のキューバ革命でバティスタ政権を追ったゲバラが、ルワンダのツチ王制派と組む皮肉。それはともかく、ゲバラはアフリカ革命に絶望し、アフリカ大陸を去る。


ザンビア北部の村

 ゲバラとかすかな接点を持ったルワンダ・ツチ人亡命グループだが、1994年に政権の奪還を果たす。その過程でルワンダ大虐殺が起こる。この原因を簡潔に説明することは、南アのアパルトヘイトのように色の違いでくっきりした「善悪」を語ることのようには出来ない絶望感に浸る。この長い期間の度重なる虐殺事件を生き延びたガブリエル老人は語る。「殺し合い。それは風のようにやってくる。雪のようには来ない」(P.243)

 第3部の2章がこの本のメインかもしれないと思う。著者の想いが吐露されているように感じられ、少なくとも私は共感を持って読むことが出来た。  「対象についての知識がないほど、『助けなくては』というメッセージは響きやすい」(P.215)

 私自身がアフリカ大陸に対し「助けたい」とか「可哀想だ」と意識を持ったことがないし、アフリカに対して興味を持った入り口ではなかった(大自然・野生動物でもなかったが)ので、「援助・支援」という観点には違和感が抜けない。「貧困・飢餓・内戦で可哀想な人たち」という発想にもあまり馴染めない。

 アフリカ大陸に住む人々の大多数の抱える貧困・困難に対して「何かをしたい」と思うのは善意だろう。ただ、不特定無数の人々に対する「支援」を入り口にしてしまうと、対等な関係は作れないし、また一般の民衆の顔は見えてこない。タンザニアで生活すると、目の前の人々の困難はいやというほど見えてしまう。ただ個々人で出来る援助なんてしれている。また援助をすることで相手の人間との関係は微妙なものとなり、その重圧で生活の精神的な負担は増えてくる。いかに援助をしないで済ませるか、お互い隣人として特別扱いせず、されず、かつ助け合いの輪を維持できるかというのは、日々の課題である。

                                       (写真は同書、藤原章生氏の撮影のもの)

(2007年4月1日)


ダルエスサラーム物価情報(2007年4月)US$1=Tsh1,260シリング

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