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Habari za Dar es Salaam No.61   "Swahili Coast-Pangani" ― スワヒリ海岸・パンガニ ―

根本 利通(ねもととしみち)

 今年の大雨季の雨量は多いようだ。年末年始の小雨季からあまり途切れず、1~2月は例年小乾季になるのだが、空模様が重たいまま大雨季に突入した。3月中もよく降り、4月上旬のイースター休暇の際は少し止まったが、またその後かなり強い雨がダルエスサラームでは続いている。昨年の大雨季は雨量が少なく、雨季明けの6月からすぐ計画停電が始まりショックだったが、今年はそういうことはない(少なくとも雨が少なかったからという言い訳は出来ない)状況なのは嬉しい。もっとも農作物への影響はそんなに単純ではなく、長雨で困るものをあるのだろう、野菜の値段は下がらない。

 大雨季の最中、パンガニに出かけた。タンガの南50kmにあるパンガニには、ビーチ・リゾートとして発展しつつあり、ビーチには行ったことが2回あったが、パンガニの町自体に行くのは初めてだ。スワヒリ都市としては存在が比較的薄いせいもあるが、念願を果たした気分だった。

📷 パンガニの古い建物  ダルエスサラームを朝7時に出発する。朝小雨がぱらついたが、その後は天候に恵まれた。途中で人を拾ったり、セゲラというモシ、アルーシャへの分岐点で休憩したが、12時前にはタンガに着いてしまう。順調な旅。タンガの老舗ムコンゲ・ホテルでは大勢の会議をやっていて、食事はやや難点があった。その後、パンガニに向かって南下する。今回はタンガ~パンガニ間の漁村の調査という目的があり、街道から中に入ったり出たり。途中でトンゴニ(Tongoni)という遺跡の看板を見かけるが、帰りに寄ろうと先を急いだ。結果復路は別の道を抜けたので、トンゴニには寄らず仕舞い。バガモヨでいえばカオレ遺跡のような小さな14~15世紀の都市国家の遺跡で、モスク跡などが残っているはずだ。

 パンガニの町は小さく静かで活気がない。訊くと町自体にはわずか4,000人くらいしかいないと言う。2002年の国勢調査では約8,000人であるから、そうは急激に減らないとは思う。今回の漁村調査の対象であったパンガニの北20kmにあるキゴンベ(Kigombe)村はなかなか活気があり人口10,000人と言い、国勢調査の5,600人より増えているようである。これは彼我の町と村との勢いの差なのだと思う。

 パンガニの町はパンガニ川の河口の両側に開けた町である。中心は川の北岸にあり、現在のタンガ州パンガニ県の県庁所在地である。パンガニ県単独で国会議員を選出する選挙区を構成し、県庁には国会議員の部屋もある。ただし、県全体でも人口は5万人程度だろう。

📷 パンガニ川と対岸  現存するパンガニの町は、19世紀初めにしか遡らない。1810年にアラブ人によって作られた屋敷が、ドイツ植民地時代の役所(Boma)となり、そして現在の県庁になっている。入り口の扉にはザンジバル・ドアのように、文様とコーランの言葉が刻まれている。二階以上はドイツ人の建て増しだそうだが、1回の12本の柱はアラブ人によって作られた。ガイドに言わせると、「1本1本に奴隷を埋め込んだから、200年経った今でもひび割れすらしない」とのこと。到底真実とは思えないのだが。

 県庁のすぐ先にパンガニ川の渡し場(フェリー)があり、その河口寄りに波止場がある。波止場といってもダウ船が3席も停まればいっぱいのようだ。波止場には倉庫があり、主要商品であるココヤシが積まれており、トラックが出入りして下ろしたり積み込んだりしている。倉庫の隣は昔は郵便局、その隣はモスク。逆の隣には元奴隷倉庫と呼ばれる古い建物が崩れ落ちそうに立っていた。

 波止場から中に一筋入ると、旧奴隷市場跡と言われる空き地があり、そこに1961年12月9日の日付(つまりタンガニーカ独立の日)を刻んだ演台があり、隷従と自由を記念するために、この場所を空き地にしておくように決められたという。サッカーグランドを取るにはやや狭い感じだが、サッカーのゴールの枠組みは一つ立っていた。

📷 パンガニ波止場  さらに中に入ると、1階部分が店で、2階が住居部分になっていてバルコニーのある古い建物や、元ホテルだった建物が、今は使われないまま残っている。インディア・ストリートと言われた商店街にも、今はインド人はいない。皆、タンガかダルエスサラームへ移動してしまったのだろう。バガモヨをさらに小さく寂れさせた感じである。

 パンガニを支えた産業は、19世紀は奴隷貿易だったようだ。ドイツの植民地時代の初期に、抵抗者として立ったアラブ人のアブシリは、パンガニを根拠地とした奴隷貿易業者だったとされる。「文化観光」というプログラムも始まっており、外国人旅行者に1時間半ほど歩いて、パンガニの町の歴史を説明している。ザンジバルやバガモヨでもそうだが、アラブ人=奴隷貿易業者というステレオタイプの説明がまかり通っているのが気になったが。

 その後は、近隣のココヤシ、そしてサイザル麻のプランテーション、漁業が主力で、農業はキャッサバ、稲を含め自給的な産業に過ぎない。パンガニ川の河口近くには、インド洋から海水が満潮時には遡るから、マングローブの林が出来ている。県庁の近くの川沿いには、ヤシガニを養殖して売るプロジェクトも始まっていた。

📷 パンガニ・奴隷倉庫  現在のパンガニはというとビーチリゾートとして発展しつつある。北岸にも南岸にもそれぞれ数軒のビーチリゾートが並んでいる。オーナーはタンザニア生まれで紅茶のプランテーションをいくつか周り、また南ア生活も長かったイギリス人一家とか、元デンマークのボランティアでアフリカ生活の長い夫とそのアメリカ人の妻とか白人が多く、あるいはタンガ、アルーシャ在住のインド人などである。  ドイツ人の若いカップルは、2年間ドイツと往復しながらお金を貯めて、ダイビングセンター兼簡素なビーチバンガローをこの夏から始めると張り切っていた。世界で知られざるビーチリゾートのベスト10に入る、と豪語していた。「知られざる」というのがみそだろう。キルワでもそうだったが、タンザニアでビーチリゾートを経営する個人(ザンジバルには大資本が入っているが)は、ヨーロッパ人でアフリカ生活の長い年配者が多いと思っていたが、このドイツ人カップルのように半年はドイツで働いて金を貯め、残りの半年でリゾート建設しようという発想はどこから来ているのだろうか。

 ヨーロッパ人経営者にとっては、海岸の環境を守ることに関心が強い。パンガニ川の河口の沖にあるウミガメの産卵地であるマジウェ島が次第に海水面下に沈下するようになり、砂州と化しつつある。産卵に帰ってくるウミガメが卵を産みつけても、海水に覆われるために卵が腐って孵化しない。ヨーロッパ人たちはその島を守るための植林などの提案をしているが、タンザニアの州政府の反応が鈍いとこぼしていた。タンザニア州政府の役人たちは、産みつけられたウミガメの卵を、海水に覆われないより高い場所に動かす努力をしているようだ。その場合、孵ったウミガメが数十年後(?)戻って来る場所の記憶はどうなるのだろうか?私には全く分からない。

📷 パンガニ・ボマ  タンガとパンガニの沖合いの海には、「泳ぐ化石」が2004年から獲れるようになってきた。州政府に報告されているだけで、2年間で30尾以上獲れている。報告されずに食べられてものも多いだろうから、かなりの数が漁獲されているようだ。これは突然獲れるようになったわけではなく、漁法の変化、特に網を深く入れるようになったかららしいが、70~150mの深さで獲れるらしい。獲れるということで乱獲してしまえば、あっという間に資源はなくなるのか、あるいはかなり豊富な資源なのか、調査は始まったばかりである。ただ、豊かな環境を守ってきたからこそ獲れるのだろうから、むやみに脚光を浴びない方がいいのかもしれないと思ったりもする。同じように泳ぐ化石が見つかったインドネシアの海では、闇の業者がもう動いているという。

 観光という外部の人間を連れてくる産業が始まると所詮環境は変化する、多くの場合は悪化するものなのかもしれない。マハレやゴンベのチンパンジーやルワンダのゴリラなども、研究者の聖域であった時代はともかく、人類の遺産として公開しようとすると、そして保護のために地元の人間に利益をもたらそうとすると、「コントロールされた観光」という命題が起きてくる。世界中どこにでもある課題なのだろうが、本当に素晴らしい場所は他人には教えないのがいいのだろうかと旅行業者らしからぬ思いを持つことになる。

(2007年5月1日)

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