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Habari za Dar es Salaam No.63   "Rwanda" ― ルワンダ紀行 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 この6月に知人を訪ねてルワンダに行ってきた。紀行と称しても実際は2泊3日、それもキガリとキヴ湖しか、それもちらっとしか見ていないので、あくまでも通りすがりの外来者の感想というものである。

 ルワンダというと、日本で有名なのはマウンテンゴリラの生息地ということと、1994年のあの事件だろう。どちらも映画になっている(「霧の中のゴリラ」と「ホテル・ルワンダ」)。1994年のあの事件を、あの事件という呼び方はふさわしくないのかもしれない。ただホロコーストに匹敵するような事件を、アフリカ人が加害者となって起こしたということを、私は整理しきれていない。「人間性」という問題なのか、それとも…。私は「部族主義」という発想を採らないのだが、南アのアパルトヘイトに反対する視点からアフリカとの関わりを選んだ人間にとって、かなり重たい問題である。私は歴史の観点から考えたいのだが、最近は世界史を学ばない風潮が強くなっていて、こういう事件も次第に風化してしまいそうだ。

📷 丘の多い町キガリ  さて、6月のキガリというのはかなり涼しい。出発前日ダルエスサラームで涼しいなと感じて、これならキガリは寒いんじゃないかと慌てて羽織るものを探した。キガリ空港に降り立つと、ひんやりと快適な気候だった。

 キガリというのは丘の中に作られた街だ。ここが中心街というのはあるようだが、目抜き通りを歩けば何となく街の雰囲気が分かるというようには出来ていないようだ。ダルエスサラームやナイロビとは違う。カンパラの街にはやはり2日しか滞在しなかったから、即断は出来ないが、カンパラよりも拡散しているように感じた。カンパラはガンダ王国の王都だったが、キガリはそうではなかったはずで、植民地の都合なのだろうか、不勉強で分からない。

 1994年当時は30万人の人口だったという。それがあの事件で半数の15万人になったという。それもすごいし、また今は100万人を超えただろうと聞くとため息が出てしまう。人間の死というのは消費されるものなのだろうか…。表面上は平和で、そこそこきれいで落ち着いた街である。

 街中のほとんどの道路が舗装されているのにも、ダルエスサラームから来た身としては驚かされた。ダルエスサラームは幹線道路を一つ脇に入ると、街の中心街のすぐ外であれ、埃っぽい凸凹道路になる。ただ、丘の多いキガリの街を一望できる場所に連れて行ってくれと運転手に頼んだら、丘の頂上近くに連れて行ってくれ、その道はさすがに未舗装だったが、御殿のような邸宅があり、成功者の家だそうだ。高みに住みたがるのか…

📷 キガリの中心街  キガリから日帰りで遠出をした。ルワンダは小さい国だから、キガリから2~3時間も走ると国境に到達する。郊外に伸びる道路はほとんど舗装されている。1994年の事件以降に、外国の援助で舗装されたのだろうか?幹線道路はほぼ完全舗装らしく、快適に飛ばせるようだが、丘が多く上り下り、くねくねと曲がっているので、タンザニアのように140kmで飛ばすことは出来ない。聞くと制限速度60kmで、スピード違反の罰金は$100相当だという。3時間のドライブの間に、交通警官には5~6回出会った。遠目にも分かる蛍光色の緑色のゼッケンを着ているから、タンザニアのようにカーブの先とか、出来るだけ見えないところに隠れていれ、違反者を引っ掛けようという姿勢はないようだ。フェアといえばフェア、権力的といえば高圧的。

 途中は道路から見える丘の連なり、大雨季の後で緑色が豊かで、丘の斜面には細かく段々畑が開墾されている。主食のバナナが多く、後はキャッサバ、豆類が多く、とうもろこしは意外に少ないようだ。緑は多いが森は少ない。ところどころの村で市が立っている。食料品の交換が主体のようだ。もっとも感じるのは人口の多さ。途中止まって小用を足そうと思っても、どこからともなく子どもたちが出てくる。だいたい見渡す限り人家のない場所なんてないのだ。丘のてっぺんにも人家が見える。途中でギタラマという町を通り過ぎる。教会へ向かうサインのある分岐点で、たくさんの女子どもたちがバスを待っている。確かその教会では逃げ込んだ人たちに手榴弾を投げ込んだのではなかったか…。1959年のフツ革命もここで始まったのではなかったか…

 ルワンダの観光はほとんどがマウンテンゴリラ観光だろう。キガリの街中にはゴリラの名前をつけたホテル、旅行社がたくさんある。そして遠く離れてキヴ湖はゴリラ観光に次ぐ2番目の観光地候補だろう。(大虐殺観光は数えない)キヴ湖はコンゴとの国境にある大地溝帯が作った湖だ。北畔の町ギセンニィはコンゴのゴマ、南畔の町シャンググはコンゴのブカヴの町と国境で接する。共にコンゴ内戦、ルワンダ内戦の際には、難民が大量に通過したことで有名になった町だ。今もコンゴからの密輸の取り締まりが厳しいというし、コンゴに逃げ込んだルワンダ旧政府軍の残党も活動しているので緊張しているのでなかなか行けない。

 私が連れて行ってもらったのは、湖の中間というか、コンゴとは国境を接していないキブイェという町。小さな町だが、ルワンダ観光局の宣伝パンフによく使われているキヴ湖に浮かぶ島々の写真はここのもの。私たちもボートで島に渡り、ビールを飲んで帰ってきた。島には新婚旅行らしいルワンダ人カップルが遊んでいて、帰りは私たちがチャーターしたボートで、対岸(本土)側にある教会のホステルに戻った。新婚旅行(?)で行く観光地にしてはややしょぼかったが、でもそういうカップルを見かけたのが新鮮だったし、また私たちのボートに断りもなく乗り込んだのにはホッとした。教会のホステルの方が、私たちが昼食を摂ったホテルより立派そうに見えた。昼食を摂ったホテルは、白人客がほとんどで、年配者の避暑地といった趣でフランス語の世界だった。 

📷 急斜面まで切り開いた農村風景  たった2日いただけでは、ルワンダの人々の国民性を論じることは無理だ。ただタンザニアとの比較というか、感じたことを述べたい。真面目だなというこが第一印象だ。おとなしいともいえる。タンザニアやケニアに慣れた人間としては、アフリカ人がこんなにおとなしくていいのかと思った。私の知人もタンザニアで長く仕事をしていた人だったから、最初は戸惑い、なんとなく窮屈な思いをしたらしい。

 ルワンダの面積は2万6千平方キロ。タンザニアは94万5千平方キロだから、36分の一に過ぎない。タンザニア本土の州の数が21だから、言ってみれば州くらいの大きさ。ドイツ領東アフリカになった時、ルワンダ、ブルンジも含まれていたから、第一次大戦でドイツが敗北しなければ、ルワンダ、ブルンジはタンザニアの一部になっていたかもしれないと勝手に夢想する。ただ人口は860万人を超え、タンザニアの4分の一近い。人口密度はアフリカ内で最高だという。隣のブルンジと並び豊富な降水量、肥沃な国土、稠密な人口。度重なる内戦、虐殺にも関わらず増え続ける人口…。

 現在はRPFのカガメ大統領が絶対的な権限を握り、国内を押さえている。国営テレビでも繰り返し「大虐殺」を想起させている。政府批判のマスコミはないらしい。あの忌まわしい事件を再び起こさせないために…。ホテル・ルワンダのモデルになった、ホテル・ミル・コリンズもきれいに改装され、豊かそうな滞在客がプールサイドでおしゃべりをしている。

 現在の政府の主力は、ウガンダ、ケニア、南アなどに亡命していた人々が多いから、英語がかなり流通している。古い看板は、フランス語と、キニャルワンダ語が並列しているが、最近の看板は英語が多くなっている。スワヒリ語もかなり通じる。コンゴ・スワヒリ語が主体だが、ケニア帰りの人たちも使っているから混ざっている。フランスが1994年の事件の後押しをしていたという疑いは消えていないし、一方でフランスがカガメ大統領以下のRPFを1994年の大統領機撃墜事件の黒幕として訴追する姿勢を見せてから、断交したままになっている。東アフリカ共同体にも加盟したし、フランス語圏から離脱するのは間違いないだろうと思った。

📷 キヴ湖  おまけのエピソードを一つ。ケニア航空キガリ支店での話である。私はダルエスサラームからナイロビ経由でキガリを往復した。航空会社はケニア航空である。マイレージでためた無料航空券(ただし税金$148は払った)である。往路は問題なく、キガリに着いてケニア航空のオフィスに念のためリコンファームに行った。小奇麗なオフィスにカウンターが4つ、ただ座っている女性は2名のみ。番号札を取って待つこと1時間、割り込みはないが、一人ひとりにかかる時間が長い。1時間で終わったのは4人だけ。カウンターに3人目の若い女性が座り、「リコンファームの人」と言うので先着順で私が座る。単純なリコンファームに10分。プリントアウトをもらって席を立ち、念のために見ると、ナイロビ→ダルエスサラームのフライトが変更になっていて、キガリ→ナイロビのフライトでは間に合わない。そこでカウンターの女性に「これでは乗り継げない。なぜこんなことになったのか?どうしたらいい?」と訊いたら、「私は知らない。それがシステムにあるあんたの予約だ」と即答された。さすがに怒りました。

 そのカウンターの女性では埒が開かないと思ったので、「マネージャーに会わせろ」と言ったらすんなり会えて、その人も女性(このケニア航空のオフィスにいたスタッフ5人は全員女性だった)。説明を求めたら初めて、私の乗り継ぎ便(ナイロビ→ダルエスサラーム)はフライトキャンセルになったことを知らされた。善後策を訊いたら、予定通り帰るのならナイロビ1泊になるけど、私の航空券は無料航空券だからケニア航空は宿泊を負担しないという。ダルエスサラームに日曜日中に帰りたい私は、「じゃぁどうしたらいい」と訊くと、日曜日の早朝に出るルワンダ航空のフライトをお金($245)を払って飛ぶしかないという。どちらかを選べと言われたので、日曜日のナイロビ→ダルエスサラームの便を保証してもらい、ルワンダ航空でなくなく片道航空券を購入した。

 日曜日の午前中に知人が、あの事件の「記念館」に連れて行ってくれる計画だったが、それを捨てて日曜日早朝にキガリを出発、ナイロビに着き、乗り継ぎ便のカウンターに行ったら、私の名前はないという。文句を言ったら「キガリに帰って文句を言え」と言われた。その後3時間並び続け何とか搭乗券を確保したが、その間何度呼び戻されたか…。またダルエスサラームのケニア航空に使わなかった航空券の空港税の払い戻しを求めたが、回答はない。ケニア航空の問題なのか、ルワンダ人の人材が失われたのか…

 追加情報もあります。

 ☆追記:6月14日に発表されたタンザニアの新年度予算を今回は論じようと思っていたが、ドドマでの国会論議でどんどん変わっていくので、整理し切れなかった。この欄の更新が遅れたことをお詫びします。

(2007年7月7日)

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