• 白川

Habari za Dar es Salaam No.68   "Morocco" ― モロッコ紀行 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 今回は、またタンザニアを離れて、モロッコの旅を記す。旅と言っても、タンザニアで知り合った友人を訪ねての旅である。その友人はもう2年以上前からモロッコのタンジェ(通称タンジール)に仕事で行っているのだが、そのタンジェがジブラルタル海峡のたもとの街という魅力に惹かれたこと、古いイスラーム都市(メディナ)を見たいということが目的の旅だった。

 旅行業を生業にしていると、なかなか自分自身がまとまって休暇をとって旅行することが出来ない。旅心を忘れてしまってはいけないと思い、せめて2週間ほどメールの届かない日々を過ごしたいと思うのだが、今回も11日間がやっとだった。モロッコにいる友人Kさんが赴任して何回も航空券の予約はしたのだが、その度にキャンセルし、うかうかするとKさんの任期の3年が終わってしまう、というせっぱつまった旅でもあった。

📷 タンジェからジブラルタル海峡を望む  まずモロッコにさほど憧れていたわけではないことを告白しておこう。ヨーロッパ人が期待するようなエキゾティシズムを手軽に味わえそうなモロッコやチュニジアといった国々には、強烈な憧れは持っていなかった。古いイスラーム都市といえば、ダマスカス(シリア)やサナア(イェメン)の方に想いが強いのが正直なところである。

 今回は知人のKさんがタンジェにいたということが大きい。ジブラルタル海峡を南から渡りたい、というのが長年の望みだったからだ。ヨーロッパ人の旅行者のように北(アルへシラスなど)からタンジェに渡るのではなく、アラブ人が南から渡ったように、ジブラルタル(ジャバル・アル・ターリク)を見たいと思っていたのだ。

 タンジェに到着した翌朝、すぐ海峡を渡った。アルへシラスへではなく、最短のタリファに渡るスピードボート(公称35分、実際は60分ほどかかった)に乗った。簡単に渡れると思っていたが、モロッコ側でもスペイン側でも一悶着あった。詳細は省くがモロッコからEUへの出稼ぎ・密航の入り口になっているのだろう。写真はタンジェの郊外9kmにあるマラバタ岬から、スペインのタリファの町を眺めている。まさに指呼の間にある感じで、もっとも短い所では14kmしかないというから、渡りたい、渡ろうと思う人間がいるのは当然だし、実際にモロッコ人をはじめとするフランス語圏西アフリカからの密航者、それを巡る事故は絶えないようだ。海峡を隔てた向こう側には、テレビが伝える別の世界が広がっていると見えるのだろう。モロッコは失業率が高く、男はなかなか(30歳を超えるまで)結婚できず、また歳入に占める海外送金の割合もかなり高いという。

📷 アンダルシア風のティトゥアン   モロッコの地中海沿岸とイベリア半島はそんなにかけ離れた世界だったのだろうか?フェニキア人、ローマ人の角逐、ゲルマン民族の移動、アラブ人の侵入、レコンキスタといった歴史をひも解くまでもなく、かなり密接で交流の深かった地域だろうと思う。私はグラナダ、コルドバ、セビリヤといったアンダルシア地方に行ったことがない、というか今回アルへシラス日帰り旅行が、初めてのスペイン体験だったから、なんとも言えないのだが、そもそもアンダルースの語源自体がアラビア語だし、相互の影響・関連性を見てみたいという思いはあった。

 1492年のグラナダ陥落後、逃げて来たムスリムたちによって造られた「アンダルシア風のメディナ」というのは惹句だろう。ティトゥアン、シェフシャウエンというタンジェから50km、100km南の町はそういった売りである。こじんまりとしたメディナ、白を基調として、アクセントに青(シェフシャウエン)、黄(ティトゥアン)を入れたきれいな街づくりである。観光資源としては有望だが、果たして町の人たちの主要な収入が観光でいいのだろうか。シェフシャウエンのような小さな街にヨーロッパ人とガイドが溢れているように見えるとそう思ってしまうのだが、ティトゥアンのスーク(市場)には活気があり、活きた街だった。

 レコンキスタというのはイベリア半島でポルトガルとスペインを生み出し、大航海時代を引き出した原動力だったのだろうが、宗教的非寛容をばねにしていたのだろう。この当時(11~15世紀)、イスラーム世界とヨーロッパ・キリスト教世界が存在し、かつ対立していたのだろうか?検証もせずにそうは思えないとは言えないのだが、スペインのアンダルシア地方を歩いてから、感じをつかんでみたいと思う。だいたい今回旅して、モロッコ人と外国人の区別もあまりつかなかった。アラビア語で会話していればモロッコ人だろうが、またいかにもアラブといった濃い顔の人や衣装で判断のつく人も多いが、ホテルや観光業に従事しているモロッコ人は、服装は完全にモダンな洋装(表現が古い?)だし、金髪の女性もけっこういて、流暢なフランス語をしゃべっているのを聞くと、戸惑うことが多かった。深いアラブ世界だったオマーンではこんなことはなかったし、観光客の多いエジプトでもこういう戸惑いはなかったように思う。

 モロッコの多くの町に存在するメラーという地区も、宗教的寛容非寛容を考えさせる。メラーというのはユダヤ人街で、各地にシナゴーグ、ユダヤ人墓地は存在したのだが、イスラエル建国後はほとんど移住してしまった。ただレコンキスタから逃げたのはムスリムだけでなく、ユダヤ教徒もそうだったのだ。

📷 フェズのメディナ  さて、世界最大の迷路と謳われるフェズのメディナを歩いてみた。地元に住んでいるKさんにタンジェ、シェフシャウエン、ティトゥアンのメディナを案内してもらったから、足慣らしは済んでいるし、方向感覚にも自信がある‥。ただ32年前、ザンジバルのストーンタウン(サハラ以南のアフリカでは最大のメディナだというが、本当だろうか)をマスターするのに3日間もかかったから、そしてそのときには曲がりなりにもスワヒリ語を片言はしゃべれていたから‥少しは緊張して歩き出す。

 最初はメインのタラー・ケビーラ通りを下りて、カラウィーン・モスク周辺まで行き、タラー・セギーラ通りを戻ってくるというのをやってみる。昼下がりだったので人通りもさほど多くなく、アッタリーン・スークを通り過ぎ、サファリーン広場まで出て、引き返してみた。意外と簡単!昼食を摂ろうとレストランに入ると、日本人の団体客がいたのにはビックリしたけど。  それから2日間、さほど精力的にではなくのんびりと歩き回った。買い物に興味がないので、店を冷やかすことはなく、ただフォンドォクとかキサリアとかハマームを覗こうとする。非ムスリムはモスク、マドラサ、廟などの中に入れない(入りづらい)ので、外から覗くだけだけど。ネジャリーン広場では、一種のキャラバン・サライのような建物が、私設博物館になっているものの中に入れた。メディナの中は香辛料とか、荷物を運ぶロバの糞尿の匂いが混じり合い、気だるい感じで、なんとなく疲れてくる。冬のせいか、朝はカフェなどを除いて遅く、夕方は17:30を過ぎるともう暗くなるから、18:30ころには半数以上の店が閉めていた。

 ギッサ門で城壁の外に出て、マリーン朝の墓地まで登る。登りきってフェズのメディナを見下ろすと、その巨大さがよく分かった。大モスク(カラウィーン・モスク)を中心に、街がどんどん広がっていったのだろうと思う。モロッコの町、メディナには、大モスクだけでなく、多くのモスクがある。その中に入れなかったので、よくは分からないのだが、モロッコのモスク、マドラサなどの建造物には丸(ドーム)型は少なく、四角が基本で、ミナレットなどもその特徴が見える。もちろん、ミフラーブや門などにアーチは存在するけれども、四角いものが多いというのが街歩きの印象だった。

📷 フェズのカラウィーン・モスク  メクネスもフェズから1時間ほどタンジェの方に戻った地点にある古都だ。この街も世界遺産。ただここはフェズやマラケシュのようにメディナが世界遺産なのではなく、「古都」が世界遺産。現在の王様につながる17世紀に始まるアラウィー朝のムーレイ・イスマイルが首都を置いた、その時の建造物が主要な遺産である。 

 ムーレイ・イスマイルの廟が目玉だろう。四面に彫られたモザイクが美しい。ただその廟の外から続く通称「風の道」もこんなもんかと思う。マンスール門も含めてやや拍子抜けの感もあった。

 メクネスは郊外のムーレイ・イドリスの町、ヴォルビリス遺跡への観光拠点でもある。ムーレイ・イドリスまで27km、ヴォルビリスはそこから3kmほどだから、車をチャーターすると半日で周れる(300ディルハム)。ヴォルビリス遺跡に着いた時、生憎の大雨となってしまった。11月はモロッコは雨季だと聞いていたから、そのような(寒さ対策の)準備をして行ったのだが、タンジェ、ティトゥアン、フェズと周っている時には、夜半の小雨はあったものの、ほとんど乾いていて、農村部も小麦用の犂耕はしてあっても、播種は済んでいなかった。友人のKさんも牧草が専門だから、いつ播けるのかと気を揉んでいた。王様主導で街の大モスクで「雨乞い」の祈りが行われていた。

 だからモロッコの農耕のためには恵みの雨だったが、野外の遺跡の中で降り込められ、傘なんか役に立たないほどずぶ濡れになって風邪を引いてしまった。だから、このヴォルビリス遺跡はちゃんと見ていないのだが、もともと遺跡、つまり現在人が住んでおらず活きていない町にはあまり興味がないので、そそくさと退却した。そして興味のあったムーレイ・イドリスの町も、静かな感じのいい町だったが、風邪をひきそうだったので、短時間で通過したのみだった。

📷 メクネスのムーレイ・イスマイル廟  モロッコは圧倒的にムスリムの国で、エジプトと違いモスクの中には非ムスリムは入れないことが多い。かといって敬虔なイスラーム色の強い世界かというと、そういう感じもしない。フランス人を中心とした観光客が多いせいもあるだろうが、旅しやすい国であるという印象はあった。オフシーズンのせいか、日本語で話かけてくる人間は多かったけど、煩い、しつこいこともなかった。

 モロッコは王様がいる国だというのも実感した旅だった。紙幣に3代の王様の肖像があることもそうだが、主要都市には、王宮があった。今回行った町では、タンジェ、ティトゥアン、フェズ、メクネスがそうだった。メディナに入ったすぐの場所、あるいはすぐ外に広大な敷地を持っている。首都のラバトはもちろん、マラケシュにも王宮はあるはずだ。フェズに滞在していた時、王様が来ているのか、赤いモロッコ国旗がたくさんはためき、警官の姿が多かった。王宮の周辺の歩道は歩けず、反対側の歩道を日に当たりながら遠回りさせられた。日本の皇室の御用邸がどのくらいあるのかは知らないが、モロッコ王室の巡幸がどのくらいあるのか、あるいは王室のサイズ(人数)はどのくらいなのかと思った。アラブ世界でも今王室が残っているのは、サウディアラビアやクウェート、オーマンなど湾岸諸国に限られているが、モロッコ王室は特殊な存在なのだろうか。

 今回の旅は遠い昔にかじったアラビア語やフランス語がほとんど役に立たず、「土地の人たちとのコミュニケーションを持たない」建物と街の様子を眺める旅だった。準備不足も否めない。モロッコ最大の観光地であるマラケシュには行っていない。次回があるかどうか分からないが、その時は妻と訪ねたいものだと思っている。 

 この旅の予習に使った本は、今村文明著「迷宮都市モロッコを歩く」(NTT出版1998年)であった。ヴェネツィアなどの都市計画の著書がある陣内秀信氏のお弟子さんの建築設計家で、モロッコには1990~93年青年海外協力隊員として赴任していた時の記録である。建築という面からイスラーム都市を眺めるのは面白いようだ。この本を持ってフェズのメディナを歩いた。

 またウェブサイトの情報としては、

「モロッコ旅のまよいかた」を頻繁に参照させていただいた。このHPの管理人さんは「モロッコ語指差し会話帳」の著者でもあり、モロッコの人たちへの視点や旅のあり方を再考させていただいた。記してお礼申し上げます。

(2007年12月1日)



☆モロッコ写真集☆

(0) ジブラルタル。スペインのアルへシラスからタンジェに向かって船出すると、左側に見える。18世紀から交通の要所(防衛上)としてイギリスが手放さない(スペインの返還要求に応じていない)。またモロッコ側のセウタ、メリリャはスペインが手放していない(モロッコの返還要求に応じていない)。711年アラブ軍を率いたターリク将軍が、この海峡を渡ってイベリア半島に攻め込んだ。ジャバル・アル・ターリク(ターリクの山)がジブラルタルの語源と言うのは有名な話。📷 (1) タンジェの港脇の街並み。20世紀前半は国際管理都市とされ、フランス、スペイン、イギリス、ドイツなどがそれぞれの租界を持っていた。港から出た海岸沿いの通りに残っている古い建物はそのころの面影を残す。📷 (2) タンジェからティトゥアン経由で、約100km南下したところに小さな町がある。シェフシャウエン(通称シャウエン)で、15世紀末のグラナダ陥落後、アンダルシアのムスリムが逃げ込んできたという。20世紀前半はスペイン領になっていたこともあり、アンダルシア風のメディナが売りで、白が基本で青をアクセントにした街並みがメルヘンチックで女性の人気がある。ただ近郊の農村が貧しく大麻の栽培が盛んで、それを目指すヨーロッパ人の若者も多いと聞いた。📷 (3) ティトゥアンのメディナはシェフシャウエンのそれと同じくアンダルシアから逃げてきたムスリム主体に造られていて、アンダルシア風と言われる。世界遺産になっている。丘(カスバ)に登って眺めると、シェフシャウエンより大規模なのが分かる。📷 (4) フェズの旧メディナ(フェズ・エル・バリ)は世界遺産になっているが、その入り口に当たる最大のブージュールド門。メディナの外側から見るとモスクのミナレット(尖塔)が見え、また名物の「水売りおじさん」が見えるだろうか?(赤い衣装)📷 (5) フェズの新メディナ(フェズ・エル・ジェディド)の一角にあるメラー(ユダヤ人地区)。貴金属細工店が多い。かつて15世紀以降、モロッコの大きな都市にはメラーが存在したが、イスラエル建国後多くは移住してしまい、住人もほとんどアラブ人となり、見た目には区別がつかなくなった。📷 (6) フェズ・エル・バリは間を流れるフェズ川で西のカラウィーン地区と、東のアンダルース地区に分けられる。アンダルース地区の中心のアンダルース・モスクはアンダルシア出身者のために建てられたという。この地区に入ると観光客も土産物屋も少なくなる。📷 (7) フェズのメディナの目抜き通りの喧騒、人込みはすごいが、ちょっと横道にそれると、袋小路になる住宅区は静けさが漂っている。子どもたちが遊んでいたり、ときどき女たちが通り過ぎる。📷 (8) メクネスのランドマークになるマンスール門。メディナと王宮の地区を分けている。「北アフリカでもっとも美しい」と言われているようだが、期待したほど感動しなかった。馬の糞尿の匂いが漂っていたからだろうか。📷 (9) メクネスのメディナはフェズに比べると小さく分かりやすいはずなのだが‥、迷ってしまった。小道の奥に見えるのはグラン(大)モスクのミナレットなのだが、近づくとそこら辺はスークになっており、距離感覚を失い、すぐ隣にあるはずのブー・イナイア・マドラサにたどりつけなかった。📷 (10)ローマ時代の遺跡、ヴォルビリス。世界遺産に指定されている。メクネスの郊外30kmの所にあり、ムーレイ・イドリスの町のすぐ近く。この遺跡に着いたとたんに大雨に降り込められ、びしょ濡れになり、粘土質の道に靴を取られ、往生した。あまりきちんと保存する意欲がないように感じたのは、たまたまか?📷

(11) ムーレイ・イドリスの町。モロッコ最古の王朝イドリス朝の始まった場所。二つの丘にへばりつくように町がある。丘の上からの遠景が定番である。雨のせいもあり、出歩く人の少ない静かな町だった。ここで初めてしつこいガイドと会い、喧嘩になった。ヴォルビリスでずぶ濡れになった直後だったから、私に余裕がなかったからかもしれない。📷

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