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Habari za Dar es Salaam No.69   "The Sea of Coelacanth" ― シーラカンスのいる海 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 新年、明けましておめでとうございます。  2008年が皆様にとって、世界の人びとにとって、平和で豊かな年となりますよう、祈念いたします。

📷 冷凍庫の中のシーラカンス  新年の話題にふさわしいか、珍しいお話をしたい。生ける化石シーラカンスがタンザニアの海で生きている話である。

 シーラカンスは1938年南アで見つかり、3億8千万年の昔から存在してきた生ける化石として有名になった。その後、インド洋の小国コモロを中心に、マダガスカル、モザンビークなどの西インド洋で発見されてきたが、1997年インドネシアのスラウェシ島沖でも見つかって話題となった。このインドネシアのシーラカンスはDNA分析の結果、別種の扱いになっているらしい。

 2001年にケニアでも見つかり、タンザニアでは2003年南部のキルワ沖で見つかったのが初めである。翌2004年8月タンガとパンガニの間にあるキゴンベ村の漁師さんの網にシーラカンスが何回もかかって大騒ぎになった。その後2007年末までに、タンザニアで漁獲されたシーラカンスは報告されているだけで、30尾以上あり、そのほとんどはタンガで見つかっている(残り3尾は南部のキルワとリンディ)。日本では東工大にタンザニアのシーラカンスの2尾が標本として輸入されている。南部リンディのものはコモロなどの種と共通し、タンガのそれは少し違うというのが、DNA分析で分かりつつあるらしい。

📷 海から見たキゴンベ村  漁獲されたと書いたが、シーラカンスは国際的に保護されている(ワシントン条約付属書Ⅰ指定)ので、狙って漁獲したわけではない。他の魚を狙ってかけた刺し網にかかってきたのだ。他の魚というのは特定は出来ないが、深度70~100mまで網を下ろし、サメなどを狙っているようだ。

 キゴンベ村で最初に漁獲したトゥウェ・サイディ(Tuwe Said)さんは2004年8月23日の朝に、初めてシーラカンスを見たという。前夜下ろしておいた網を2隻の小舟で引き上げた。まるで見かけない魚を見て、Chewa(はたはた?)に似ているけど違うなと気味悪く思い、最初は捨てようかと思ったという。同僚のジュンベ・コンボ(Jumbe Kombo)さんに言われて、とりあえず陸に揚げ、1尾を皆と一緒に食べてみたという。その前年南部のキルワでシーラカンスが見つかっていたこともあり、タンザニア水産研究所(TAFIRI)がシーラカンスを見つけたら報告を呼びかけるポスターを作って宣伝をしていたこともあり、タンガ海岸部保護開発計画に連絡したところ、担当官が駆けつけ、シーラカンスと確認されたという。 

 トゥウェさんはその後の1週間くらいで10尾のシーラカンスを揚げた。もしかすると世界で最も多くシーラカンスを漁獲した漁師さんかもしれない(インドネシアやコモロにもそういう漁師さんはいるかもしれないが)。トゥウェさんがシーラカンスを揚げた小舟(ンガラワと呼ばれる小型のダウ船)は、今はキスクーク(Kisukuku)号と命名されている。Kisukukuというのはスワヒリ語で「化石」を意味する言葉らしい。つまりシーラカンスを表す単語はなかったわけだから、誰か(科学者か役人か)がシーラカンスの呼び名として考えた言葉だろう。今では、シーラカンスをスワヒリ語風に訛って「シリカンテス」なんていう呼び方も通用している。

 トゥウェさん以外にもシーラカンスを漁獲した漁師さんはキゴンベ村だけで10人近くに上る。キゴンベ村だけではなく、近くの村でも揚がっているが、圧倒的にキゴンベ村の沖での漁獲数が多い。また、調べてみると1972年にキゴンベ村でシーラカンスと思われる魚を漁獲した漁師さんが現れた。また、1994年ころにも似たような魚を漁獲した記憶がある。もしその記憶が正しければ、シーラカンスはずっとタンガの沖合いに生息してきたことになる。

📷 アクアマリンふくしまのシーラカンス調査船 今年9~10月にかけて大がかりな調査が行われた。シーラカンス保護・調査の南アを中心に日本なども参加して調査隊が組織され、タンガの沖の海の潮流、温度、海草、さんご礁の状態などを調べた。南アからそのための調査船がチャーターされ、研究者が乗り込み、南アからモザンビーク、マダガスカル、コモロと調査を続けながら北上し、ザンジバル海峡、ペンバ海峡(タンガの沖)に達した。

 日本からの調査隊はアクアマリンふくしま(AMF)という水族館から来ている。この隊は2006年にインドネシアのシーラカンスの撮影に成功した実績を持つ(世界で2番目)。彼らはROVという深海を動き回るカメラを下ろし、シーラカンスがいそうな洞穴を見つけると、その周りをぐるっと周って、光る目を探す。シーラカンスの目はグリーン・アイといって、きらっと光るのを探すらしい。

 インドネシアでも撮影に成功した鷹のような鋭い目をもった隊長さんは、初めての場所、インドネシアと違い潮流も激しいタンガの沖合いで苦労されたが、夜間航海に乗り出して、見つけてしまった!God Handのような人だ。その後AMFの隊は4回9尾の撮影に成功した。ただ撮影に成功した場所は、キゴンベ村の沖ではなく、その北のカランゲ島の南東の沖合いであった。

📷 キゴンベ村から海を望む  キゴンベ村は人口2,500人くらいの小さな村だが、豊かな感じがする。周りをギリシア人の持つ広大なサイザル麻のプランテーションに囲まれているが、村人はそのプランテーションには行かずに海に出る。漁業主体の村で、自給用の小さな畑を耕し、他には商業、公務員(学校の先生など)もいる。

 この小さい村がシーラカンス村として脚光を浴びている。村ではシーラカンスが獲れた区域(さんご礁の外海)を自主的に禁漁区にして、シーラカンス保護に努めると共に、村にシーラカンス研究センターを設置し、その海を海上公園として観光客を呼ぼうという計画がある。恐らくこの計画は村が自主的にやったというより、タンガ州政府、外国人研究者の意見を聞いて決めたことだと思う。シーラカンスのように深海にいて見ることが出来ない魚を観光の目玉に出来るかという疑問はあるが、この3年間、公式には村の漁師さんはその禁漁区に出漁していないという。 

 ただ、その禁漁区にしたさんご礁の外海は、内海の魚が取れなくなって仕方なしに出漁した経緯もあり、村の漁獲高は禁漁以前の半分以下3分の一程度に落ちてしまっているという。そうすると漁師さんの生活を直撃することになる。実際、網元ではなくて、ボートをもたない漁師さんは、毎日出漁して、その漁獲の中から網元にボート代を支払うわけだが、私たちが見ている日々の中で、漁獲が1尾、0尾という漁師さんもいて、食べるものにも困るようだった。村の食料品店から、米や豆を借りてしのぎ、大漁のときに返すらしい。また他人の網の補修(繕い)で、小銭を稼ぐという。海上公園化、観光化は全く進んでおらず、このまま放置されれば生活困難は深まるだろう。

📷 シーラカンスを獲ったキゴンベ村の漁師トゥウェさん一家  トゥウェさんには8人の子ども(男7人、女1人)がいるが、子どもに漁師は継がせないと断言する。収入が当てにならないし、将来がないと言う。トゥウェさん自身は勉強が嫌いで小学校6年中退で、お母さんの故郷のこのキゴンベ村で漁師になった。私が「勉強が嫌いな子どももいるだろうし、その子が漁師になりたいといったらどうする?」と訊いても、「絶対に許さない」と語気強く言う。トゥウェさん自身は、シーラカンスの恩恵とは思えないが、網元で、若者に漁をさせながら、自分は魚の仲買人も兼ねていて、少しは羽振りがいいようだが、子どもたち8人全員を中学校以上にやるとなると、学費は大変だ。今ザンジバルの中学校4年である長男は「大学に行って法律をやりたい」と言っていた。

 シーラカンスが生き残った海は、豊かな生態系が残されているのだとしたら、その海が続くように祈りたい。そしてそこで生計を営む漁師さんたちが、環境保護の名目で生活を奪われることなく、共存していけたらと願う。

 この取材の結果は今月(2008年1月16日)放映される予定である。あまりネタばらしはよそう。乞う、ご期待!

(2008年1月1日)

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