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  • 相澤

Habari za Dar es Salaam No.70   "In Search of a Nation" ― 紹介『ある国家の創成』 ―

更新日:2020年7月2日

根本 利通(ねもととしみち)

 今回は、Gregory H. Maddox & James L. Giblin編『In Search of a Nation』(Eastern Africa Studies, 2005)を紹介したい。この本は一昨年本屋で見かけて、手持ちのお金がなくて見送って、翌週買いに行って逃した苦い記憶がある。タンザニアではその昔(1980年代)、店で品物を見つけたらその場で買わないと、物は再び見つからないという常識があった。そのころ、その感覚で買占めをやって自分の家に大量の貯蔵を誇った日本人もいた。ガソリンすらガレージに貯蔵する時代だった。それは余分な回想である。


 本書の構成は以下の通りである。   第1章 序章  第Ⅰ部 政治と知識   第2章 社会的に作られた知識-サンバー王室宗教儀式の再構成   第3章 Kingalu Mwana Shahaと19世紀東部タンザニアにおける政治的指導性  第Ⅱ部 植民地タンガニーカにおける政治、文化、反抗   第4章 植民地による国境とアフリカ民族主義-カゲラ突起の場合   第5章 新伝統主義による間接支配、政治とタンザニアにおける創成の限界   第6章 植民地時代のゴゴの語られる権力-MvumiのMazengo   第7章 マヘンゲ県における部族的過去とナショナリズムの政治-1940~60年   第8章 20世紀アフリカの記憶の風景   第9章 植民地時代のンジョンベにおける家族と国家のいくつかの複雑性   第10章 地区、地方、全国-1950年代の南部ルクワ  第Ⅲ部 国家と不服従   第11章 鎖のもっとも弱い部分を破る-TANUと植民地当局   第12章 植民地時代ザンジバルにおける新聞検閲-Al-Falaqに対する治安裁判   第13章 想像する世代-ザンジバル民族主義におけるウンマ党青年部   第14章 タンガニーカ複数政党時代の野党小史-1958~64年  第Ⅳ部 国家再考 第15章 アフリカ民族主義のジェンダー化-タンガニーカ(タンザニア)の場合の再検証   第16章 「世界」と「地域」家族の狭間で-独立タンザニアでの学校歴史教育の失われた鎖   第17章 Jack-of-Alls-ArtsかUstadhiか?-タンザニアにおける文化生産の詩

   執筆者は16名。現在在籍する大学は、アメリカ13名、イギリス2名、タンザニア1名。タンザニア人学者は2名のようだ。女性は3名。全ての章を詳説するような力はないので、私が通読して興味を持った章だけを紹介する。

 本書の目的は序章に編者が述べている。つまりタンザニアを含めたアフリカ諸国のナショナリズム、あるいは民族国家というのは、「共同体幻想」だとか「西欧から輸入された概念」だろかいう批判はあるものの、1999年に亡くなったタンザニアの「国父」ジュリアス・ニエレレの葬儀の様子(表紙写真)を挙げながら、実体があるものとなっている現実を指摘する。その上で、19世紀後半の植民地当初の各民族の様子、イギリスによる間接支配の導入とそれによる変化、反抗を経て、独立闘争の過程を描き、独立後の変化に触れ、タンザニアという国家の創成の過程を論じようとする。

  第2章はタンガ州西部のサンバーの王室の宗教儀礼。

 第3章は19世紀半ばモロゴロから海岸部にかけて勢威を振るったKingalu mwana Shana(1788?~1872)を口承、文献記録から追う。当時モロゴロ州は内陸部からバガモヨ経由でザンジバルに向かう(象牙、奴隷)キャラバンの通過ルートとして、そのキャラバンに食料を提供する中継地として、他の地域との関係を強めつつあった。Kingaluというのはウルグル山地とウカミ平原に広がるルグル人(Uluguru/Ukami)の中のベナ(Bena)氏族の雨乞いの呪術師の称号だとされる。Kingalu mwana ShahaはKingaluとしては6代目もしくは7代目とされるが、その称号は母方から来ており、自身はバガモヨ生まれのションビ(Shomvi)人の父の血を引いており、Shenekambiという父方の氏族の称号も併せ持っていたと思われる。婚姻と戦争によって勢力を広げていったKingalu mwana Shahaは、内陸のウルグル山地に本拠を移す。Kingaluとしては最初にムスリムとなったと思われ、当時のザンジバルのスルタンとも親しい付き合いをする。北方から進入し、現在のモロゴロの町を造ったといわれるジグア(Zigua)人のKisabengoとの対立の調停に、ザンジバルのスルタンを立ち会わせたという伝承もある。19世紀の半ば、現在のコースト州とモロゴロ州がザンジバルを経由して世界経済に結び付けられて行く過程が浮かび上がる。

 第4章は、1885~6年のベルリン会議でのアフリカ分割による人工的な国境線と現在の独立国家との関係を、カゲラ突起(Kagera Salient)の例を挙げて論じる。カゲラ突起というのは、1978年にウガンダのイディ・アミンが占有を宣言して、タンザニアに侵入して起こったカゲラ戦争の係争地である。地図にオレンジ色で記された、南緯1度以南、カゲラ川の北岸の土地である。面積は約660平方マイル。


 このカゲラ突起は1890年のイギリスとドイツとの協定で、ドイツ領東アフリカ(その後のタンガニーカ、現在のタンザニア)領とされたのだが、当時ガンダ(現在のウガンダ)王国の南端ブッドゥ地区であった。ガンダ王国はここからさらに南のハヤ人の首長国に貢納を迫っていたとされる。カゲラ川は蛇行して最後ビクトリア湖に流れ込む(白ナイルの源流とみなされている)が、その河口は南緯1度のやや北側で現在のウガンダ領に入る。南緯1度線とその河口までのウガンダ領をカゲラ・トライアングルといい面積は15平方マイル。カゲラ突起とトライアングルとの交換が何度が議論されたが、面積は狭くても戦略的に重要な河口(トライアングル)を押さえたイギリス側が手放さず、交渉は不調に終わった。第一次大戦後、国境の南北は共にイギリスのものになったが、お互いの総督が譲らず(カゲラ突起の豊かな森林資源が見直されていたのかも)、また1925年にはガンダ王国のカバカ(王)から国際連盟に提訴されたが、ハヤ人首長は反発し、動かされないまま両国の独立を迎える。

 アミンはケニアに対しても旧東部州の返還を要求し、緊張をもたらしたが、所詮国内を暴力的に押さえているその不満へのはけ口としてカゲラ突起占領を狙ったのだというのが一般的な解釈であり、その後タンザニア軍がカンパラまで進撃し、アミンは亡命を余儀なくされ、ミルトン・オボテが復活することになったのはよく知られる。

 さて、ここでアミンの相手となった、ニエレレはパンアフリカにストとして有名だが、ベルリン会議でのアフリカ分割をどう評価しているのか?この帝国主義列強による恣意的な分割、引かれた国境線を維持することで、独立アフリカ諸国の安定があり、民族の分布を無視した国境線を尊重して、国民国家を形成するしかないのだろうか。ソマリアなどは代表例だが、国境をまたぐ民族の例は枚挙に暇がない。民族は変動するという立場に立てばいいのだろうか。モザンビークのマコンデ人とタンザニアのマコンデ人は違う民族になっていくのだろうか。世界中いたるところにあり、例えばパレスチナ問題とか、イラクとクウェートとの国境紛争とか、欧米列強、特にイギリスが恣意に引いた国境線というのを当座尊重せざるを得ないというのは、気の遠くなるような諦観につながる。

 第8章では、モハメッド・フセイン・ブユミ(Mohammed Hussein Buyume)という無名のタンザニア人に触れながら、20世紀前半~独立までを生きた同時代のアフリカ人の風景を論じる。ケニヤッタやンクルマが登場する。

 ブユミは1893年、タンガで生まれた。ただし生粋のタンザニア人ではなく、19世紀末のエミンパシャ救援隊として来たヌビア人の子どもだったようである。成人したブユミは第一次大戦はドイツ軍に従ってイギリス軍と戦う。戦後1919年、彼はドイツに移住する。1921~37年、べルリンのフンボルト大学で、大学者ディートリッヒ・ウェスターマンの助手としてスワヒリ語の講師を務める。その間にドイツ人女性と結婚し、2~3人の子どもをもうけた。しかし、ナチズムの台頭と共に、まず大学の職を失い、ついでドイツ国籍を奪われ、その結果ドイツ人女性と結婚した罪を問われ、強制収容所に入れられ、1943年ころ消息を断った。

 それだけでも数奇な人生というか、映画の題材になりそうな話なのだが、あまり多くの記録はないようだ。この章の著者(ケニア人か?)は、同時代のケニヤッタ(1890年ころ生まれ)やンクルマ(1909年生まれ)、サンゴール(1906年生まれ)の人生と重ねてみる。特に宗主国の大学で、アフリカの言語学の教員となり、その国の白人女性と結婚したという共通点の多いケニヤッタと比較する。どちらも宗主国の教授に利用されたことは同じだが、ケニヤッタは建国の父となり、ブユミは無名のまま消えた。戦勝国に学んだか、第三帝国のドイツに移住したかの違いもあるだろう。 


 第Ⅲ部は独立前後のタンガニーカとザンジバルの政治闘争を描く。

 第11章はTANU(タンガニーカ・アフリカ人民族同盟)と植民地当局との闘争を描く。イギリスの植民地当局側からの植民地政策の変遷が中心である。第二次大戦後も、「西アフリカは進んでいるが、東中央アフリカは遅れていて、その中でもタンガニーカは遅れているから、自治政府(独立国ではない!)の樹立は1970年代後半だろう」とみなす植民地当局と、「アフリカ人の国としての早期独立」を目指すTANUを率いるニエレレとの駆け引きの中で、卓抜した指導者であったニエレレの姿が浮かび上がる。

 第14章は、短命であった独立前後(1958~64年)のタンガニーカの複数政党時代を描く。TANUに対し少数政党であったUTP(統一タンガニーカ党)、ANC(アフリカ人民族会議)、AMNUT(タンガニーカ全ムスリム国民連合)の小史である。多人種協調主義という名目で実質白人の権益維持を狙ったUTP、多人種を許容しようとするニエレレに反発して純アフリカ人主義を主張して分裂したANC、差別されてきたムスリムの権利を主張しようとしたAMNUTなどの反対派がほとんど支持を広げられずに、TANUに収斂されていく過程を記す。1962年の第1回大統領選挙で、ニエレレがANCの候補者に得票率98%を超える圧勝で、ANCは解体、TANUにはブライスソン、ジャマルというニエレレの盟友であった非アフリカ人が入党する。1964年1月に起こった軍の反乱事件で露呈した揺籃期の弱体な国家に、一党制が導入されるのは必然の流れであったのかもしれない。1992年に再度複数政党制が導入され、その後3回の総選挙を経ているが、TANUの後進であるCCMに対抗する有力な野党が依然生まれていないのも、この初期複数政党制の記憶があるからかもしれない。

 第12~13章は独立前のザンジバルの闘争史である。  第12章では1954年にAl-Falaqというアラブ人協会の機関紙が、植民地当局に対する扇動の罪で治安裁判に掛けられた事件を対象に、当時の独立運動を検証する。Al-Falaqは裕福なアラブ人社会の機関紙であったが、第二次大戦後の植民地解放闘争の盛り上がり、若い子弟が海外留学などで交流を積むにつれ、反植民地闘争が先鋭化していく。アラブ人の民族主義に対して、アフリカ人民衆は冷ややかな目で見ていたと思われるが、この裁判の中で頭角を現したアル・バルワニによる、アラブ民族主義政党ザンジバル国民党(ZNP)の結成につながっていく。

 第13章では、そのアラブ人の民族主義政党ZNPの青年部として活躍し、海外の影響を受け、社会主義的傾向をもったアブドゥルラフマン・モハメッド(通称バブ)に率いられて分派したウンマ党の青年部が、1964年のザンジバル革命で果たした役割を検証する。1957年ロンドン留学中に社会主義の洗礼を受けたバブは、ザンジバルに帰国してZNPの書記長になる。ZNPが唯一多人種協調、反植民地を掲げていたからである。バブはYOU(青年自身同盟)を組織し、新聞を発行し、啓蒙に乗り出す。当時のベルギー領コンゴやアルジェリアの闘争を伝え、ブラスバンドを作り、献血運動、自前の救急車、識字運動に乗り出す。明らかに新しい世代の運動であった。バブたちの世代における社会主義思想と、上の世代のZNP富裕層の保守的思想には当然亀裂が入り、イギリス植民地当局がバブを扇動の罪で1962年に投獄した際に、その対応を巡ってZNPの世代間闘争が始まり、結局バブたち若い世代はZNPを去り、ウンマ党を結成する。そして独立、1964年のザンジバル革命でASP(アフロシラジ党)青年部が暴力革命に訴えると、ウンマ党は協力する形になり、ASPに合流し、バブはザンジバル人民共和国の外相に就任する。その後の革命の展開、タンガニーカとの連合、カルメ・ザンジバル大統領の暗殺、バブの投獄・亡命と続いていくのだが、依然明らかにされない闇が残っている。1991年に亡命から戻ったバブの証言もあるが、これもどこまで真実を語っているか、疑いは残る。ザンジバル革命とその後のカルメ独裁時代はなんだったのか?今観光開発で賑わって見えるように見えるザンジバルで、総選挙の度に繰り返される熾烈な対決、流血事件の起源は何なのか?タンザニアに残したニエレレの遺産と、ザンジバルの現実の乖離を感じてしまう。

 第15~17章では、独立後タンザニアという国家が形成されていく様子を、ジェンダー、歴史教育、文化政策という比較的目立たない観点から見て行く。ザンジバルの学校教育の中で、約20年間歴史教育が意図的に行われなかったのははぜだろうか。

 2007年末のケニアの大統領選挙とその後の展開は痛々しい。1995年のザンジバルの総選挙との共通点もあるが、やはりケニアとタンザニア(本土)とを比べてしまう。日本のマスコミが依然として「部族対立」という解釈を止めないのは、旧態依然、不勉強という感もするが、ケニアにはそういう根っこが残っていたのかとも思ったりする。一方で、タンザニア国家という故ニエレレ大統領の残した遺産を思ってしまうのは、タンザニアびいきなのだろうか。

(2008年2月1日)


ダルエスサラーム物価情報(2008年2月)US$1=Tsh1,170シリング

・バス/1乗り/Tsh250~Tsh350・新聞(朝刊英字紙)/1部/Tsh500・ガソリン/1リットル/Tsh1,520・米/1kg/Tsh1,200・たまねぎ/1kg/Tsh800・砂糖/1kg/Tsh1,000・ウンガ/1kg/Tsh700・牛肉(ステーキ)/1kg/Tsh4,000・卵/トレイ/Tsh4,700・パン/1斤/Tsh600

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