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Habari za Dar es Salaam No.71   "Waziri Mkuu alijiuzulu" ― 首相の辞任と新内閣 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 2月8日に、アルーシャにあるA to Zという工場で開所式が行われた。正確に言うとその工場内でのオリセット蚊帳工場の開所式であった。住友化学のライセンス生産で、マラリア対策の薬を塗付した蚊帳の工場である。住友化学にとっては大きな企業の社会貢献の宣伝の場で、UNDP(国連開発計画)のプロジェクトで、キクウェッテ大統領をはじめ、各国の大使が参列して盛大に行われる予定で、日本から撮影部隊も来ていた。余談ではあるが、2月18日にはアメリカのブッシュも訪問した。ブッシュはアメリカの資金で、マラリア対策のこのオリセット蚊帳を配布すると声明したようだ。

📷  ところがその前日(7日)にタンザニアに激震の走るような事件が起こり、大統領は参列どころではなくなり、代わりに副大統領がテープカットを行った。日本の元サッカー選手超有名人も途中参加したようだ。 

 さて、7日に起こった大事件とは、エドワード・ロワッサ首相の辞任である。それもスキャンダルにまみれた不名誉の辞任である。8日は新首相の指名を行ったので、大統領は開所式どころではなかったのだ。

 ロワッサ首相はキクウェッテ大統領の盟友ともいうべき存在で、2005年の大統領選挙の際には自身は指名を求めず、キクウェッテの運動資金の大きな部分をまかなったという。キクウェッテが大統領となった時に、ロワッサを首相に指名したのは、ほぼ大方の予想通りだった。ただ、ロワッサは過去土地大臣だった時にも、金銭スキャンダルを噂されたことがあり、常にきな臭さがつきまとってきただけに、意外とみる向きもなかったとはいえない。

 ロワッサの略歴をたどってみよう。2月9日付け「Daily News」による。1953年アルーシャ州モンドゥリ県生まれのマサイ人。ダルエスサラーム大学文社会学部卒。英国バース大学修士。CCM青年部(VIJANA)のメンバーとして頭角を現し(キクウェッテ大統領やアンナ・マキンダ国会副議長と同時期)、1985年「青年枠」で国会議員になる。この時期(1988~1990年)、ムウィニ大統領の任命で、アルーシャ国際会議場(AICC)総裁を務める。

 1990年、ムウィニ第二期政権で首相府法律国会担当大臣となり、93年には土地大臣となる。1995年にキクウェッテと共に、CCMの大統領指名に名乗りを上げた。このころはキクウェッテと並ぶ、青年の星であった。ただ、キクウェッテが最終選挙で、ムカパに次ぐ第二位の得票を占めたのに対し、ロワッサは予備選もしくは幹部会(NEC)の審査で落とされたと思う(記憶が定かではない)。その後、やや不遇ではあったが、無任所国務大臣、水大臣などを務め、中央政界から完全に姿を消すことはなかった。そして2005年盟友キクウェッテの大統領就任に伴い、首相に指名される。独立後9代目の首相である。その後、キクウェッテと並び、フットワークの軽い首相として好評だった‥、と見えた。

📷 今回のロワッサが辞職したのは「Richmond疑惑」による。2006年の大停電にまつわるスキャンダルである。2005年の降水量の不足、イララ変電所の事故などで、キクウェッテ政権の発足時(2005年12月末)から、電力事情は悪かった。2006年には週7日1日12時間の計画停電の体制になった。つまり毎日昼間は電気がないのだ。圧倒的な得票で大統領に選ばれた国民人気の高いキクウェッテにとって、電力問題を何とかするのは急務の課題だったと言える。水力不足に対応するためには火力発電ということになる。

 急場をしのぐために火力発電機を緊急輸入することになり、TANESCO(タンザニア電力会社)がRichmond開発会社と100メガワット(MW)の発電機購入の契約を結んだのが、2006年6月23日だった。2ヶ月後には最初の40MWの発電機が到着するはずだったが遅れ、その間ソンゴソンゴの天然ガスを使った発電機が壊れたりして電力事情はさらに悪化し、電力配給の制限は住宅地から工場にも及んだ。キクウェッテ大統領は10月にエネルギー大臣などを配置転換した。結局、最初の発電機の到着が10月21日、2台目が10月30日に到着したが、その発電機を全国の配電網に接続することが12月まで出来ずに、RichmondとTANESCOの非難合戦となった。そしてRichmondは契約を、アラブ首長国連邦登録の多国籍会社に譲渡して、姿を消してしまう。その後の調査では、Richmondはアメリカ合州国登録の会社だが、所在地には会社はなく、ペーパー・カンパニーだということが分かり、大騒ぎになった。

 2007年1月から国会での真相究明を議員たちが要求し始め、4月の国会で論議された。5月にPCCB(汚職対策局)の調査報告が出て、「Richmondが落札した過程に不審なことはない」となった。しかし国会議員たちはそれでは収まらず、10月に全国調達統制局から「入札の過程に法律違反の疑いがあり」という報告が出ると、11月には与野党議員による特別調査委員会を設置した。特別委員会は12月31日、調査報告を国会議長に提出した。

 そして2008年2月2日エネルギー相が、エネルギー電力法案の改定案(電気代の値上げ)を国会に上程するや、議員たちはRichmondo疑惑の究明を要求して、法案審議を拒み、国会議長のアメリカ外遊を止めさせ、特別調査委員会の報告公表を要求し、2月6日に報告が国会に出され、その中でロワッサの息子が契約の中で果たした役割が浮かび上がったという経緯である。この入札にはRichmondを始め8社の入札があり、TANESCOが設定した30項目の基準のうち、Richmondは13項目しかクリアできず、入札した8社の中では最低ランクだったことも明らかになった。

 翌7日、ただちにロワッサは辞表をキクウェッテ大統領に提出した。そして国会で辞意を表明した際に、特別調査委員会の報告は「公正さを欠いた」と批判した。つまりロワッサ自身の意見を訊かなかったのは不公正であるということである。ただ首相という権力者を査問することが果たして可能だったかどうかは私には分からない。

 ただ、英語紙、スワヒリ語紙数紙を並べて読むと、ロワッサに対する強い批判はなかったのが共通している。「勇敢な辞職」「愛国心」といった褒め言葉も散見される。また「Daily News」は政府系の機関紙と言っていいが、「責任感の新たな章」というタイトルを掲げ、指導者の責任(Accountability)の取り方の過去の例を挙げている。その中で1978年当時内務大臣だったムウィニが、シニャンガ州で、秘密警察が呪術医容疑者を拷問で殺した際に、責任を取って辞任した例を挙げ、その後ムウィニがザンジバル大統領、そしてタンザニア大統領に復活したことを述べている。これはロワッサの復活の可能性を予想したものかとうがって読んでしまう。果たしてこれからロワッサおよびそれに加担した人々への追及が続くのか?

📷  その後、国会の論戦のテレビ中継なので、この疑惑の追及は行われた。国民の関心は高く、それを背景に国会議員たちの要求で、政府にこの疑惑の究明のための特別委員会を設立することが決まった。疑惑に絡んだ人間(前首相、前エネルギー相、元エネルギー相、エネルギー省次官、エネルギー委員会委員長、PCCB長官、司法長官府幹部など)の訴追を要求する動き、関係者の個人財産の没収の声ももあるが、果たしてどこまで行き着くか、注目される。

 さて、2月8日にキクウェッテ大統領に指名され、国会の承認を得て、第10代目首相に就任したのはピンダ(Mizengo Kayanda Peter Pinda)であった。それまでは首相府の地方自治担当大臣であり、政治家としてのキャリアも短く、下馬評には上がっていなかった(と思う)。私も名前を聞いたとき、全くイメージが沸かなかった。 

 まず、各新聞によるピンダ首相の略歴を紹介しよう。1948年現ルクワ州ムパンダ地方県に小農の長男として生まれる。苦学して1974年ダルエスサラーム大学法学部卒。卒業後、司法長官の役所、その後大統領府の公安担当、ニエレレ元大統領の私設秘書などを務める。1995年の総選挙に出馬するが落選。その後内閣の秘書などを務め、2000年の総選挙でムパンダ東選挙区から当選。そしてただちに第二期ムカパ政権で、大統領府地方自治担当副大臣に抜擢され、2006年第一期キクウェッテ政権で、今度は首相府の地方自治担当相に昇格した。正大臣となってまだわずか2年で、その経歴を見ると政治家よりは官僚であった時代が長い。テクノクラートであろう。少なくともキクウェッテの地位を脅かす、あるいは後継を狙うNo.2候補ではなく、つなぎの立場かと思える。

 さて、2月12日に新内閣が発表になった。下馬評では、ロワッサ関連の閣僚は全部外され、大幅改造になると予想されていた。前エネルギー相、元エネルギー相(前東アフリカ共同体相)は辞表を提出していたから、当然圏外であった。それ以外にも今回の疑惑とは関係なくても、古くからの閣僚が閣外に去ると言われていた。また64人(正副大統領、ザンジバル大統領、首相を含む)現在の内閣は多すぎるから半減されると噂されていた。

 新内閣は、省庁の一部が統合され、26大臣、21副大臣で、大統領以下51人になった。13人減ったが、それでもまだまだ多いという感じではある。前内閣の閣僚18人が閣外に去り、古顔の大臣ではメフジ前蔵相、ムランバ前通産相などが消えた。新蔵相には前副大臣だったムクロが昇格した。副大臣から正大臣への昇格は6人、全くの新顔の入閣は6人で、日本の感覚からいうと大幅改造とはいえないかもしれないが、前任の大統領の閣僚をほとんど引き継ぐのが普通のタンザニアとしてはかなりの大幅改造である。

 今回の省庁改編で、経済企画庁はほとんどは財務省に統合され、一部は大統領府へ移籍した。公共安全保障省は内務省と統合した。農業省の灌漑局は水省に移籍した。高等教育・科学技術省は廃止され、高等教育部門は教育省と統合し、科学技術ICTという新しい省が出来た。天然資源観光省の水産局は、畜産開発省に移籍した。

 省庁の改編が激しいので、私も到底覚えられないのだが、この際記録のために今回の省庁を列記してみよう。担当が分かりやすいように出来るだけ直訳にしてみる。☆印は副大臣がいる省庁である。

(1)大統領府公共事業担当 (2)大統領府良い統治担当 (3)副大統領府連合担当 (4)副大統領府環境担当 (5)首相府州統治および地方政府担当☆ (6)首相府政策および国会担当 📷 (7)外務および国際協力☆ (8)東アフリカ協力☆ (9)財政および計画☆☆ (10)工業および貿易☆ (11)農業および食料安全保障☆ (12)天然資源および観光☆ (13)水および灌漑☆ (14)エネルギーおよび鉱産物☆ (15)保健および社会福祉☆ (16)教育および職業訓練☆☆ (17)インフラ開発☆ (18)労働雇用および若者☆ (19)防衛およびナショナルサービス☆ (20)共同体発展、ジェンダーおよび子ども☆ (21)内務☆ (22)情報、文化およびスポーツ☆ (23)法務および憲法 (24)科学、技術およびICT☆ (25)土地、住宅および人間居住 (26)畜産および水産業開発☆

 さて、唐突の船出をしたピンダ内閣だが、抱える課題は大きい。このRichmond疑惑だけではなく、金額的にはもっと大きい中央銀行(Bank of Tanzania)疑惑があり、総裁が罷免されたままである。この疑惑の解明を進めると、さらに大物政治家の関与が浮かび上がる可能性がある。

 とりあえず、Richmond疑惑に絡んで、外国の火力発電所との契約の見直しを要求する声も強い。Richmondの後を受け継いだUAEの会社以外に3社あり、それぞれとの会社の契約過程を洗い直したら、何が出てくるか怖いものがある。国会議員たちはこの4社に支払う年間21億円(引用される数字は異なる)の支払いを直ちに止めることを要求しているが、それは非現実的だろう。しかし、電気料金の値下げは依然実現されていない。

 新たに任命されたムクロ蔵相は、税収アップのために、今まであった免税措置の見直しを図ると声明した。免税措置には不透明な部分が多く、汚職の温床になっていたと思われるので、原則歓迎である。ただ、ODAに関わる二国間の援助協定はそう簡単に変更できないだろうし、また民間企業による投資促進に関しても、優遇免除が廃止されれば、現在の脆弱なインフラを考えると、投資をためらう企業が増えるだろうと思う。

(2008年3月1日)

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