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Habari za Dar es Salaam No.72   "Alternative Tour Tanzania" ― オルタナティブツアー・タンザニア ―

根本 利通(ねもととしみち)

 1984年の年末のことであるから、もう23年も前のことになる。ラワテ(Liwati)の町からキリマンジャロ山に向かって登っていた。急勾配。九十九折が続き、周囲は緑、と言っても森林ではなく、よく耕された畑、バナナ、コーヒーなどが続いているから、キリマンジャロ山頂は見えない。(もっとも見晴らしがよくてもキリマンジャロ山頂は日中はめったに見られないのはその後すぐ知った)。たっぷり汗をかいて小1時間登り、ちょっと開けた場所に小学校があり、小さな商店があった。

 タンザニア北部キリマンジャロ州ハイ県のルカニ村。当時ダルエスサラーム大学大学院に留学していた私は、学校の休みを利用して、大学で働きながら学ぶAlex青年の故郷の村にやってきたのだ。ルカニ村の平均標高は1,500mを超えると思われる。起伏が激しく、ちょっと散歩と思っても、上り下りが頻繁なので、足腰は鍛えられるだろう。最近の調査によれば戸数約350、人口約1,500人のチャガ人の農村である。 

📷 ルカニ村とキリマンジャロ山  オルタナティブツアー(AT)「タンザニアの大地」を始めたのは1986年だった。当初、私の友人が経営していたヌーベルフロンティアという東京の旅行社が主催し、その後大阪の旅行社であるマイチケットが加わって共催となった。ヌーベルフロンティアはその後廃業したが、その後はマイチケットの単独主催となり「タンザニアの大地と民族音楽」と題して、ザウォセ一族(CHIBITE)の音楽公演を含めた形で続いている。途中2年ほど中断があったが、ほぼ20年くらい続いていることになる。

 私たちがこのATタンザニアの受け入れを始めたのは、次のようないきさつからである。自分が日本の社会を離れ、大学院生という形でタンザニアで生活を始め、当時(1984~85年)ニエレレ政権の末期で、ウジャマー社会主義の不振、ウガンダのアミン政権とのカゲラ戦争の負担で、タンザニア経済はどん底であった。ダルエスサラーム大学の寮で生活をしていた私も、停電、断水は日常茶飯事で、石鹸やバケツ、油、トイレットペーパーというような日常品でも、闇市場で探さないと見つからなかった。タンザニア人の学生たちも学問に集中するよりまず生活を維持することに汲々としていた。外国人である私などは、大学の寮で働いていたAlexさん、Ngubiさんの援助がなければ、生活を続けられなかっただろう。

 当時確かにタンザニアの生活は大変だった。でも周りの人々は、生活力のない外国人に救いの手を差し伸べてくれたし、彼らの生活に余裕や笑いがなかったわけではない。週末、まだ独身だったAlex青年、Ngubi青年の家に行って、おしゃべりをしたり、ディスコに行ったり、親しくなるにつれ、「今度の休みに故郷の村に帰るけど、一緒に行かないか」となるのは自然だった。 

 ルカニ村は、その流れで訪ねた村だ。タンザニア滞在半年経っていた。当時は健在だったAlexさんのご両親の家に泊めてもらった。Alexさんは10人姉弟の7番目。当時、1~4番目の姉は既に嫁いで、ダルエスサラームとモシの近くの村に住んでいて、5~6番目の兄はモシの町とダルエスサラームで学校に行っていた。8~10番目の妹弟も学校に行っていて、実家には誰もいなかった。誰一人義務教育である小学校で終わった子どもはなく、教育にご両親はかなりのエネルギーとお金を注ぎ込んでいた。

📷 ルカニ村のバナナとコーヒー畑   私は息子の大事な友だちで、完全にお客さんだった。朝から晩まで、3食以外に、ミルク、キャッサバ、焼きバナナなどを作っていただき、Alexさんと近所に散歩に行けば、また知り合いの家で何かしら振舞われて、飽食の滞在だった。Alexさんの家は裕福ではなかったから、電気はなく、水道も村の共同水道から汲んできていた。でも水はなにせキリマンジャロの雪解け水で美味しいし、夜は満天の星空で、南半球の星の勉強をして過ごした。ダルエスサラームの喧騒、生活の困難を忘れ、豊かな時間が流れていった。

 自分がこんなにいい思いをしている一方で、当時「アフリカは貧しい。飢餓状態」というイメージが広がり、ユニセフの親善大使だった黒柳徹子が、キリマンジャロの村でやせ細った孤児を抱いて、義援金を募ったことに大いなる違和感を持ったことが手伝って、ATタンザニアの受け入れを決めたのだった。つまり、「時間がゆったり流れる豊かなタンザニアの農村に滞在し、その時間の流れに身を任せ、日本での自分の日常を振り返ったら、豊かさの指標が少し変わりませんか?」という旅を創りたい、日本の人たちに経験してもらいたいと思ったのだ。

 日本人は忙しくてなかなか長期の休みが取れないから、催行時期は8月(年末や3月にも催行したことはある)。それでも会社員はなかなか2週間も休めないから、学校の先生や学生さんが主体になる。日本のどこが豊かなのだろう?と思うこともたびたび。それでも無理して休んできた会社員や自営業者の男性からは「根本さん、いい人生をやっているね」と言われたけど、魅力的なのはタンザニアの農村とそこに住む人たちで、私の人生ではない。一時期、このATタンザニアは「失業者を生み出す旅」と言われた。日本での仕事に行き詰まりを感じていて、何か方向転換を考えていた人たちが、タンザニアを体験して、次の一歩を踏み出して行ったのだろう。私自身、公立高校の教員を辞めて来たタンザニアだが、別に「環境」だとか「援助」だとか「ロハス」だとか、たいそうなお題目を掲げたツアーではない。タンザニアの農村の生活のリズムに身を任せ、自分の生活を省みる。それだけだ。  日本人だけがいい思いをして帰って行くのは、一方通行だから、受け入れたタンザニアの人たちも日本へ行って、「金持ちではない普通の」日本人の家庭に受け入れて欲しい、というのもこのATの開始当初からの条件だった。AT参加者の参加費の一部を、旅行社が積み立て、ある程度たまったら、タンザニア人を呼び、日本の自分たちの家庭でもてなすという相互交流だ。Alexさん、Ngubiさんは過去20年で2回ほど日本へ呼んでもらい、自分たちの日本人観を持って帰ってきている。 

 そうやって続いて来たATタンザニアで、その発展上として会社になったのが、私たちの会社Japan Tanzania Toursで、1998年登録、1999年営業開始で、来年は10周年になる。JATAツアーズに日本人の新人スタッフがやってくると、Alexさんに連れられて、会社の原点ルカニ村に研修に行く。あえて見栄を切れば、JATAツアーズは、ATタンザニアをやるために作った会社で、「商売」を続けながら、自分たちを考えていく運動の一環の上にある。ATでタンザニアを訪れた人は、過去20年間で250人くらいに上るだろう。

📷 ルカニ村のホストAlex一家    ただ、偉そうなことを言って、私はしばらく(おそらく12年ほど)ルカニ村には行っていない。Alexさんや辻村さんから近況を聞くばかりだ。昨年(2007年)のATの訪問者、西尾さんたちの報告はHPに掲載されている。ルカニ村を訪れて

 2007年末には娘が辻村さんに連れて行ってもらった。コーヒーとバナナの混作の様子を次のように見てきた。  「ルカニ村に行けば、バナナの木なんて掃いて捨てるほどあるよ」と、言ったのはコーヒー調査のためルカニ村に行く、日本から来た父の知人、辻村さんだ。  「掃いて捨てるほどある」と名高いルカニ村のバナナの木がどのくらいの量なのかを、ダルエスサラームから7時間かかるルカニ村へ行く道の途中、想像していた。  しかし、実際はわたしの想像を絶するものであった。文字通り「掃いて捨てるほど」あったのだ。どこでもいいが、ある場所に立ち、360度体を回転させれば、バナナの映らない景色などない。それくらい多いのだ。わたしが勝手にバナナ道路(ンディジ・ロード)と名づけた道もあるくらいだ。その道は、両脇からバナナ林に囲まれており、歩けばなかなか気分のいいものだった。  ルカニ村の畑に入ってみれば、バナナ、バナナ、バナナ、なのだが、コーヒーの木も少なからずあった。花が咲いているのもあれば、全く咲いてないのもあり、ごく少数だったが実がなっている木もあった。  辻村さんが言うには、わたしが行った2007年12月はルカニ村にバナナの木が通常より多く生えていたらしい。村の人曰く、今年は雨が多いせいで、コーヒーの木がダメになり、代わりにバナナの木が多い(これは、コーヒーの木は降水量が多いとダメになる代物で、反対にバナナの木は降水量が多いと盛んに生えるためである)。なので、村の人々は、コーヒーを売って生活をたてることを半ば諦め、バナナを売ることに専念している、とのことだった。  そのせいか、私の泊まっていた家でもバナナの料理がたくさん出た。調理用バナナを揚げたもの、調理用バナナのスープ(ムトーニ)、調理用バナナのシチュー。甘いバナナのデザートもある。バナナづくしである。

📷 キンゴルウィラ村の子どもたち  ATタンザニアの目的地、つまり農村滞在の村はルカニ村だけではない。過去20年間、キルワ・キビンジの漁村、ルショトの山村にも行ったが、ホスト家庭の都合でなくなった。ここ数年の目的地は、キンゴルウィラ村(モロゴロ州)、テマ村(キリマンジャロ州)、ブギリ村(ドドマ州)の合わせて4カ村である。テマ村はタンザニア・ポレポレクラブというNGOの植林などの村おこしの活動場所。ブギリ村は天才音楽家故フクウェ・ザウォセの生まれた村で、今年11月に来日するザウォセ一族の楽団CHIBITEの故郷である。テマ村はNGO活動、協力活動に興味ある人、ブギリ村は特に民族音楽に興味ある人にお勧めである。

 ただ、普通の農村という言い方がいいかどうかは分からないが、ルカニ村と並んでATタンザニア開始以来、絶えず日本からの訪問客を受け入れてきたのはキンゴルウィラ村である。この村はNgubiさんの故郷である。NgubiさんもAlexさんと同じく、私がダルエスサラーム大学に学んでいた際に、大学で勉強しながら働いていた青年である。その後、JATAツアーズを起こしてからも二人は私と行動を共にしてくれた、いわば24年来の同志である。

 ルカニ村がキリマンジャロ山麓で降水量も多く,豊かな農村であるのに対し、キンゴルウィラ村は、モロゴロの平坦地にあり、降水量はやや少ない。農村滞在でNgubiさんの家に泊まると、季節にも依るが8月の乾季の時は朝短い時間にしか水が出ない。水道から水が出ると女たちは急いで水をため、洗濯をし、煮炊きをする。だからバケツにためてもらった水で水浴びをするのは、やや申し訳ない気になる。

📷 キンゴルウィラ村のホストNgubiさん  キンゴルウィラ村は1970年代の後半のウジャマー運動の時代に、ウジャマー村化された。近在にそれぞれの畑とともに散在していた家が村の中心に集められたのだ。キリマンジャロ州のように豊かな農業先進州にはウジャマー村の適用は強制されなかったから、自然な散村であるルカニ村と、集村化されたキンゴルウィラ村との違いはよく分かる。キンゴルウィラ村はダルエスサラーム~モロゴロの幹線道路(国道1号線)の両脇に家や市場、小学校が並んでいる。Ngubiさんの家も国道のすぐ近く。ただNgubiさんの畑は家からかなり離れた所にあり、歩くと1時間はかかるから、農村滞在をする人たちはレンタル自転車で行く。Ngubiさんの畑は遠いけど、水場が近いから畑としては立地がよく、すぐ近くまで外国人(ドイツ人?)が買い占めた果樹園が広がってきて、Ngubiさんの畑も狙われているけど、Ngubiさんは頑として売っていない。

 ルカニ村へは辻村英之さん(京都大学教員)が1994年から長期継続的に調査に入っているので、詳しい報告を読むことが出来る。辻村さんはたくさんの著書、報告を出しているが、比較的入手しやすいものは以下の通り。  季刊「民族学」120(千里文化財団2007)、季刊「at」8号(太田出版2007)、季刊「at」3号(太田出版2006)、野田公夫編「生物資源問題と世界」(京都大学学術出版会2007)、「コーヒーと南北問題」(日本経済評論社2004)、「南部アフリカの農村協同組合」(日本経済評論社1999)

【追記】  ATタンザニア2008は、8月16日~27日催行予定です。Karibu Tanzania !(タンザニアへようこそ)。  お問い合わせは

 この文章は2008年4月2日発売の季刊「at」11号(太田出版)に寄稿した原稿をもとにしたものです。

(2008年4月1日)

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