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Habari za Dar es Salaam No.74   "Colonial Dar es Salaam(2)" ― ダルエスサラーム20世紀前半の建物 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 ダルエスサラーム通信No.62に続き、ダルエスサラームの古い建造物の話。もう丸1年と時間が経ってしまった。最近、ダルエスサラームの街中をあまり歩いていないことに気がつく。

 ダルエスサラームの町は、通信No.62にも書いたように、1862年ころからザンジバルのスルタン・マジッドによって建設が始まった。1867年当時の人口は900人前後とされている。1891年ドイツ領東アフリカの首都になり、ドイツ人による都市建設が本格化する。1900年の推定人口は約2万人である。

📷 聖ジョセフ教会  1898年に建設が始まり、1902年創建のカトリックの聖ジョセフ教会。1898年創建のアザニア・ルーテル教会と並び、ダルエスサラーム港のランドマークである。聖ジョセフ教会の方はザンジバル行きのフェリーの発着所を見下ろすように立っている。最近、外側のお化粧をしたので、きれいに見える。ドイツの植民地時代の建物は、現在の大統領官邸の近くの政府高官の邸宅だった赤レンガの屋根の家などの残っていて、長年公務員住宅として使われていたが、補修維持が難しくなってきたか、最近取り壊されていく家が多いのは寂しい。

 1916年にダルエスサラームはイギリスに占領されるが、第一次世界大戦後のものといえば、建築ではないが、アスカリ・モニュメントが挙げられる。第一次世界大戦では、タンガニーカはイギリスとドイツの間の戦場になった。ケニアからタンガニーカにイギリス軍が攻め込んだのである。1914年から年まで戦闘は続いた。南部のセルー動物保護区北部に古戦場といわれる場所がある。劣勢のドイツ軍は焦土戦術を取った。セルー保護区がアフリカ最大の保護区になった遠因である。

 タンガニーカは戦場となり、人々は被害を蒙ったが、イギリス軍の輜重運搬のために動員されたアフリカ人たち(アスカリ)の記念碑がアスカリ・モニュメントである。ナイロビにもダルエスサラームにもカリアコーと呼ばれる下町(当初はアフリカ人地区)があるが、それはこの大戦に輜重兵として従軍したアフリカ人たち(Carry Corps)の駐屯地が語源とされる。アスカリ・モニュメントは1927年の建立。その場所には、アブシリの乱など植民地初期の反抗を抑え込み、ドイツの東アフリカ総督になったビスマンの銅像が建っていたらしい。

📷 アスカリ・モニュメント  銅像には表側には英文、裏側にはその翻訳のスワヒリ語とアラビア語が書かれている。英文には次のように書かれている。  「1914~18年の大戦の際、東アフリカで闘った原住アフリカ人の軍隊、軍隊の手足となった輜重兵、そして国王と祖国のために奉仕し、命を捧げた全ての人たちの記念として」と記されている。「国」とは何なのか?とアフリカに住んでいると考えてしまう。

  ダルエスサラームの官庁街の中、大統領官邸の近くに、カリムジー・ホールという広い敷地がある。比較的最近まで国会が開かれていた場所だ。カリムジー一族は19世紀初めにザンジバルににやってきて、巨大な財閥を築き上げたのボホラ派ムスリムである。ユスファリ・カリムジー(Yusufali Karimjee)は独立前、数回にわたってダルエスサラーム市長を務めた。現在国会はドドマに議事堂が建てられ、そこで行われている。ドドマが首都であるという非常に薄い根拠の代表である。

 ダルエスサラームの人口は、1931年には34,300人という推計がある。当時はイギリス人を主体としたヨーロッパ人(1,330人)地区、インド人を主体としたアジア人(9,000人)地区、そしてアフリカ人(24,000人)と大きく分かれていたようだ。ヨーロッパ人地区は官公庁のある地区から海岸沿いにシービュー地区に広がる。セレンダー橋(1920年代の建設)を越えて、オイスターベイ地区に伸びるのは、もう少し時代が下がる。アジア人地区は中央商業街で、後にウパンガ地区に広がった。中央商業街とムナジモジャ公園を隔ててカリアコー地区やイララ地区がアフリカ人地区で、さらにケコ地区、マゴメニ地区と広がっていく。

📷 カリムジー・ホール  20世紀前半の建造物というと、アジア人(インド系)の人々による物が多くなる。ダルエスサラームにインド系の人々が住み着きだしたのは19世紀の後半らしい。1873年には20家族のインド人の家族が住んでいたという記録がある。先ほど1900年のダルエスサラームの人口は推定2万人という記録があると書いたが、その内アジア人と呼ばれるインド系の人たちは、1,480人となっている。19世紀にザンジバルのスルタン国家の中で、商人とか徴税請負人、中間官僚としてグジャラート、カッチというインド西海岸から渡ってきた人たちが、ザンジバルからバガモヨからダルエスサラームに移住してきた。

 インド人系の人々はある程度の人数が揃うと、それぞれの共同体の宗派のモスク、寺院、学校などを建てだす。男性の比率の高かったヒンドゥー教徒は少し遅れたのだろう。例えばイスマイール派のアガカーンの最初の小学校は1905年に始まっている。イスマイール派のモスクはジャマートカーナと呼ばれ、現在ダルエスサラームに五つあるらしいが、その最古のダルカーナは、モスク通りに現存しており、1930年創建といわれる。このモスク通りには、他にもスンニー派やイバディー派、ボホラ派などのモスクが散在している。

 ダルエスサラームの中心街、特にアスカリ・モニュメントからクロック・タワー(1961年建立)の間の東西の幅で、現在のサモラ・アヴェニューとビビ・ティッティ・モハメッド通りを南北とする地区はインド人街であった雰囲気を濃厚に残していた。つまり通称下駄履き住宅という、1階が商店で、2~4階にインド人の商店主や家族、親戚の通勤者、居候が住むというパターンの街だ。私が1975年、初めてダルエスサラームに来た時、最初に下宿したのはインド系ムスリムの下駄履き住宅の2階だった。そのころは私は宗教の違いに無頓着な日本の大学生だったが、断食している主婦が私たち居候(日本人旅行者が2人いた)たちのための昼食を作ってくれ、自分は寝転がっているのを見たのが、最初のラマダン体験であった。

📷 イスマイール派のモスク  ダルエスサラームは基本的にスワヒリ、イスラームの雰囲気を濃く残した街だが、やはりドイツ人によって計画された都市でもあるから、教会も多い。19世紀のルーテル教会、20世紀初頭のカソリック教会以外にも、中央郵便局の傍の英国国教会、日本大使館の向かいのギリシャ正教会などが古い。ただ、そのギリシャ正教会は1952年創建というから、そんなに古いわけではない。

 ダルエスサラームは第二次大戦後の1948年には人口69,277人、独立直前の1957年には128,742人、独立後の1967年には272,515人というのが国勢調査の数字である。さらに国勢調査の数字を追うと、1978年には843,090人、1988年には1,360,850人、2002年には2,497,940人と急成長しているのが分かる。国勢調査で発表される人口というのは戸別訪問で把握された数字だから、ダルエスサラームに旅行しに来て一時的に親戚の家に滞在していたり、仕事を求めて長期間居候していたり、何かをやって逃げ込んでいたりといった若年層の数字が漏れることが多いだろうと想像される。従って、2002年の250万人という数字は私の感覚をかなり下回っていた。

 今のダルエスサラームの中心街は非常に狭く、東西南北、歩いて30分くらいしかかからない。当初の計画では、精々30万都市のサイズだったのではないか。それが郊外に住宅地は伸びたとはいえ、中心街(官庁街+商業街)は変わっておらず、中心街に向かう道路は、旧名で言えば、バガモヨ、モロゴロ、プグ、キルワという目的地を冠した4本の幹線道路だから、途中どう脇道を迂回してきても、最後はその4本の道路に入らないといけないから、朝夕の大渋滞となる。明らかに限界で、都市機能を一部郊外に移転する必要がある。

📷 ギリシャ正教会  ダルエスサラームの人口はもう350万人を超えているだろう、400万人かもしれない。タンザニアの人口の1割を占めている。ドドマに首都を移転するといいつつ、ダルエスサラームのタンザニアの総人口に占める割合は確実に増え、1割に達したと思われる。国の総人口の1割を占める大都会が現れると、機能の集中、偏在化と格差の拡大、スラムが登場するように感じている。アフリカの大都会がアジアのそれと違って、悲惨なスラム街はあまり見かけなかったとしたら、都市への集中が遅れたせいだろう。農村が支える力があったからだ。さて、キンシャサやラゴスという見知らぬ町はともかく、ダルエスサラームもナイロビ型の町を目指すのだろうか?

 この原稿を書きながら、調査が不足しているのを痛感した。本で読むだけではなく、自分の足で歩かないと分からないことがあるのだが、最近の怠慢、老齢化を自覚してしまう。

   参考文献『Dar es Salaam-City,Port and Region』(Tanzania Notes & Records No.71,1970)

(2008年6月1日)

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