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Habari za Dar es Salaam No.78   "Nyerere and Zanzibar" ― ニエレレとザンジバルとの連合の問題 ―

最終更新: 7月2日

根本 利通(ねもととしみち)


 今年6月、Issa G. Shivji著『Pan-Africanism or Pragmatizm?― Lessons of Tanganyika-Zanzibar Union』(Mkuki na Nyota Publishers)が刊行された。著者はインド系タンザニア人で元ダルエスサラーム大学法学部教授。社会主義化における農民の土地問題などの権威、論客である。過去に『タンザニアの階級闘争』(1975年)『連合の法的根拠』(1990年)など多くの著書、論文がある。インド人では数少ない研究者として、同僚のタンザニア人研究者からも敬愛されている存在である。ザンジバルとタンガニーカの連合の問題は、タンザニア政治の大きな謎というかタブーとして長く存在していたが、ニエレレの没後9年目にして、語られるようになったのかと感慨深い。私は新聞の書評で読んで、あわてて買いに走った。

 本書の構成は以下の通りである。   第1章 革命前夜の人種、階級、政治   第2章 革命   第3章 連合   第4章 ニエレレの暫定憲法とカルメの超法規   第5章 ニエレレの理念とジュンベの権力強化:本憲法の誕生(1972~77年)   第6章 憲政の開幕と閉幕:ジュンベの退陣(1979~85年)   結章 パンアフリカニズムの教訓 

   「East African」紙2008年6月30日~7月6日号に載ったFenerali Ulimwenguによる書評には次のように書かれている。  『ニエレレがいかにザンジバルをさばいたか…タンガニーカとザンジバルの連合の偶像破壊的な歴史は、いかに対外的な不統一と内部的な暴政の種がまかれたかを明らかにする。‥‥ 』  『ムワリム(ニエレレ)が果たした役割に対するシヴジの取り扱いは、一部の人びとからは偶像破壊のように見られるだろう。ニエレレが多少のためらいを見せながらも自己の政治目的を追求するマキャベリアンのように描かれているからである』  『我われはこの本で議論された様々な問題点を、ニエレレ自身の著作から読むことはできないし、またシヴジのようなレベルのアフリカ人ライターによる真剣なニエレレへのインタビューもなかった。またこの時代を生き抜いてきた第一次資料に当たる語りをできる人びとも消え去りつつある。しかし、シヴジは我われがすでに知っていることに何かを付け加える(あるいはシヴジが主張していることに反論する)ことができると考える人びとに、出発点を提示したのである』

  第1章では、「Zama za Siasa」(政治の季節)と呼ばれた、ザンジバルの1957~1964年の間、つまり独立運動から、独立、革命までの激しい政党対立の時代を振り返る。この間、独立に向けてザンジバルでは4回の総選挙が行われた。1957年、61年1月、61年6月、63年である。この間、アフリカ人の政党であるASP(アフロシラジ党)が常に得票では第一党でありながら、対立するZNP(ザンジバル国民党)ZPPP(ザンジバル・ペンバ人民党)の連合にしてやられ、議席では多数派になれぬまま、独立の際にも野党でとどまった経過を分析する。 この間の分析はAbdul Sheriffなどの歴史学者、政治学者の先行研究があるので、さほど目新しくはなく、分かりやすい解説になっている。

 シヴジは独立前の対立した潮流を、ザンジバル民族主義とアフリカ民族主義と理解する。つまり、ンクルマやケニヤッタの担ったパンアフリカニズム運動(1958年ムワンザで開かれた東中央部パンアフリカニズム解放運動)と接触していたZNPの担ったザンジバル民族主義と、抑圧されていた社会階級としてアフリカ人(黒人)を代表するASPの担ったアフリカ人民族主義との対立である。ZNPの中に、中国やキューバとの接触から社会主義化したバブ(AbdulRahman Babu)などの知識人階級が流入し、運動の急進化を目指すが失敗し、保守的な指導部と訣別し、1963年にUmma党を結成すること、ASPの中で、大陸本土から比較的近年に移住してきた(させられた)アフリカ人と、ザンジバル原住民を称するシラージの対立があり、ペンバ島のシラージがZPPPを1959年に結成し、ZNPと政治的な連合をを組んだことが、ことを複雑にした。アフリカ人=原住民=被抑圧者で、アラブ人=侵略者=抑圧者と単純化できない、2000年以上にわたり育まれてきたザンジバルの文化的なアイデンティティに触れている。


 第2章は革命の経過を時系列を追って明らかにしようとしている。殺した側、殺された側の縁戚者はなお存在するし、長い間タブーであったが、革命後40年以上経って少し口が軽くなったのか、あるいは今でないと生き証人を失ってしまうからか。革命側(ASPやUmma党)は自分たちの功績を輝かしく、虐殺・略奪を最小限にとどめたいと思う。殺された側は恨みは深いが、当然生き証人は少なく、残された縁戚者でも依然権力は革命側(CCM)に握られているから、口は重たい。

 シヴジは、印刷された記録(本、論文、新聞など)、イギリスの古文書館にある革命当時なおザンジバルの警察の指揮を握っていた英国人の証言の文書だけではなく、ASPやUmma党の生き証人にインタビューをした。具体的にいうとその後2代目大統領となったアブド・ジュンベ(Aboud Jumbe)やUmma党員だったシャーバニ・サリム(Shaabani Salim)である。そして、ザンジバル革命はバブの主張する「社会革命」でも、ニエレレのいう「民族主義革命」でもなく、きわめて政治的な革命だったとする。

 第3章は革命後の混乱から、連合の成立への動きを追う。ジュリアス・ニエレレはパンアフリカニストであったから、当初から「アフリカの統一」を志向し、独立以前からケニア、ウガンダ、タンガニーカ、ザンジバルの東アフリカ連邦を模索していたことは知られる。ただ、理想主義は抱きつつも、現実主義的な政治家でもあった。ザンジバル革命の直後に、東アフリカ三国で起こった軍の不服従を、旧宗主国であったイギリス軍の力を借りて鎮圧せざるを得ないという屈辱を経験し、新生国家の基盤の脆さを実感していた。ザンジバルという文化風土の違う島国を抱え込みたかったかどうか‥。

 1964年はキューバのミサイル危機で冷戦下の対立が最高点に達したときである。アフリカ大陸では既にコンゴの動乱が始まっており、パトリス・ルムンバ首相が拉致され、「社会主義者」としてCIAのエージェントに殺害されていた。アフリカに中国、キューバの影響が及ぶことを恐れたザンジバルのアメリカ領事が、ダルエスサラームの大使館を通じて、「バブがザンジバルの実権を握ったら、ザンジバルはインド洋のキューバと化し、ケニアからケープタウンまでが共産主義の支配下に陥る危機が迫っている」と打電していたことも知られる。ニエレレはこうした冷戦下の構造で、ザンジバルと連合したという解釈をアフリカ人に対する侮蔑であるとする。

 実際に連合の交渉過程をたどると、ほとんどはニエレレとザンジバル大統領であったアベイド・カルメとの個人的な秘密交渉で行われているから、真実は分からない。ただシヴジが行った周辺に対する綿密な検証から、やはりささやかれていた事実が浮かび上がる。つまり、ニエレレ(タンガニーカ側)からの押しつけという側面である。タンガニーカの司法長官(英国人)が草案をを用意した連合の合意書に対しては、ザンジバル側の司法長官は(意図的に)休暇中であり、法律的な検討をザンジバル側がした形跡はない。連合後の法律は、暫定的にタンガニーカの憲法、法律が適用され、ザンジバルは主権国家としての大きな部分を失う。タンガニーカの国会では4月25日に批准は行われたが、ザンジバルでは革命評議会での批准はおろか、議論された形跡すらない。もし議論されれば、過半数は連合に反対であったろうという傍証はある。連合後に暫定憲法がザンジバルで公布されたこともない。カルメに取っては権力保持のための手段だったと思われる。つまり、バブおよびASPの急進派分子を連合政府の閣僚として差し出すことにより、ザンジバルでの自己権力の確立を図ったということだ。


 第4章は連合後、カルメが1972年4月7日に暗殺されるまでの8年間を追う。連合直後の憲法は、タンガニーカ憲法を基本にして、その一部を修正した暫定憲法で、正式の憲法は後日制定するとされたが、速やかに制定しようとした形跡はタンガニーカ側にもザンジバル側にも見られない。制憲会議も開かれていない。タンガニーカ憲法では、1964年1月(連合前)に民主的一党制の採用を決め、TANU(タンガニーカ・アフリカ人民族会議)が唯一政党となっていた。ザンジバルでUmma党が解消され、ASPの一党制になったのも1965年5月であるが、TANUとASPの合同は1978年まで待たないとならなかった。だいたいカルメは「ザンジバルでは50年は選挙はない」と豪語していたのだから、民主的な法治国家を作る気はなかったのだ。

 憲法では、連合政府の所轄と、ザンジバル政府の所轄を分けたが、カルメはなかなか権力を連合政府に委譲しなかった。例えばザンジバルの中央銀行と外貨の管理。タンザニアの中央銀行であるタンザニア銀行に対し、ザンジバル人民銀行が2001年まで存在していたことはよく知られる。またザンジバルの市民権、在留許可、出国ビザにもザンジバル独自の厳しい規制を敷き、反革命側の動きを統制した。また裁判も特別法廷を設け、ほとんど恣意的に反革命側だけでなく、Umma党系列やASP内の反対派を弾圧した。革命評議会の主要メンバーであり、閣僚を歴任したカシム・ハンガ、オスマン・シャリフは処刑され、またそれ以外の「教育のある」メンバーも殺されたり、追放されたりした。教育にある人たち(教員、医者、弁護士など)35,000人が国外に亡命もしくは職を求めて流出したとされる。カルメの「教育嫌い」のため、ザンジバル人は高等教育を受ける機会を奪われ(歴史の授業は禁止された)、革命評議会で生き残った「教育のある」メンバーは、イエスマンだった第2代大統領になったジュンベだけであった。悪名高い、ペルシア人、アラブ人の少女たちを革命評議会のメンバーの第二第三夫人とした「強制結婚」や、カルメの息子の16日間の国家を挙げての結婚式典もこの時代のことである。カルメ政権の8年間は暗黒の独裁・暴政の時代であった。

 第5章では本憲法の成立過程とその手続きの欠陥を探る。カルメ暗殺後に、カルメ直系のセイフ・バカリなどの強硬派ではなく、ジュンベが後継者に選ばれたことをニエレレとの妥協の産物とみなす傾向の是非はともかく、ジュンベがザンジバル内で権力を強化する過程を追う。ジュンベは外貨準備を使った食糧の輸入や、海外渡航帰国の制限の緩和や、ダルエスサラーム大学進学の許可など、カルメの恐怖政治から緩やかな転換を図った。カルメ暗殺の反逆裁判で、多くの元Umma党員が投獄、拷問、処刑された。バブは本土の刑務所に入れられ、ニエレレがザンジバルに送還することを拒否したため、死刑は免れ、1978年イギリスに亡命することになる。つまりザンジバル内においてジュンベは着々と権力を強化したのだが、それは連合の強化と軌を一にしていたとする。

 1977年2月5日にTANUとASPは合同し、単一政党CCM(革命党)が成立する。それはニエレレの強い主導のもとで行われた。CCMは全国会議、全国執行委員会(NEC)、中央委員会(CC)が措かれ、NECが強力な執行権を握り、法案等の原案を審議するようになる。同じ1977年の4月に本憲法が制定されるが、連合議会ではきわめて短い時間(1日)しか審議されず、ザンジバル議会にいたっては審議されなかった。つまりCCMという党から出された憲法草案が、そのまま通過したわけで、党が議会より優先することが明白になる。シヴジはこの本憲法の成立過程は、タンガニーカ・ザンジバル連合の協定違反で、その正当性に疑義を示す。連合政府の管轄事項が、統合協定では11項目だったのが、本憲法では17項目に増えたこと、ザンジバル大統領が自動的に 連合政府の副大統領になる規定が削除されたことなど、後年の紛争の種がまかれた。ザンジバル政府の自治権は大幅に制限されることになった。


 第6章では本憲法の成立後、ジュンベの退陣までを追う。ジュンベはカルメ直系の強硬派を押さえて民主化を図る一方、連合に呑み込まれようとするザンジバルの独自性を保とうという両面作戦を採った。1979年にザンジバル憲法が改正される。その中で、ザンジバル大統領の直接選挙が決まり、1980年に選挙が行われ、ジュンベが94%という圧倒的な支持で当選する。革命以来17年ぶりの選挙であった。民主化の第一歩である。ジュンベがダルエスサラーム大学に送り込み、高等教育を受けたグループが次第に政府内で頭角を現し(フロントライナー)、革命以来のカルメ直系強硬派(リベレーター)との対立の狭間で、自己権力の保持に汲々することになる。

 そこで起こったのが1983~4年の連合の危機、通称「政治的空気の汚染」事件である。ジュンベが革命20周年の式典上で、連合への不満を表明し、列席していたニエレレが反駁する事件が起こった。CCMのCC次いで、NECがただちに開かれ、ジュンベの主張する連合協定の見直し、現行の連合政府、ザンジバル自治政府に加えて、タンガニーカ政府を設立する3つの政府案に対する議論が行われた。ザンジバル人の中でもセイフ・シャリフ・ハマド率いるフロントライナーはジュンベの提案に反対し、ニエレレと組んでジュンベを辞職に追い込んだ。ジュンベはその後ザンジバルに帰ることを許されず、ダルエスサラームの郊外で蟄居生活を送っている。この3つの政府案は、連合を脅かすものとしてニエレレは頑強に反対したが、その後も1992年のニャラリ調査団でも推奨され、また1993年にはタンザニア本土側からタンガニーカ政府を要求する議員決議が出たりして、常に伏流している案である。

 その後の展開は、ジュンベの後任にアリ・ハッサン・ムウィニが第3代ザンジバル大統領に選ばれ、ハマドがザンジバル政府の首相になり、1984年ザンジバル憲法を制定し、経済の自由化を進めた。しかし1985年のニエレレの大統領からの引退を受けて、ムウィニが連合政府の大統領になると、ザンジバル政府ではハマドを疎外する勢力によって、イドリス・ワキルが第4代大統領になり、その後ハマドのグループはCCMから追放されることになる。1992年の複数政党制への復帰の際、ハマドたちはCUF(市民統一戦線)という野党を結成する。CUFはタンザニア本土側ではイスラームに基盤をおいた小さな勢力だが、ザンジバル特に革命後虐げられてきたと自覚するペンバ島では強固な地盤を誇り、1995年、2000年、2005年と3回の総選挙でCCMと激戦を展開した。CUFにすれば毎回不当選挙で「勝利を奪われた」ことになり、2002年にはペンバ島でCUFの支持者が数十名警官隊の発砲で殺され、多くの若者たちがダウ船でケニアのモンバサに亡命するという事件も起こり、大きな亀裂が入っている。現在は初代のカルメの息子のアマニ・カルメが第6代大統領である。(第5代は1990~2000年の2期10年を務めたサルミン・アムール)

 結章では、ニエレレのパンアフリカニズムへの思い込みに触れる。パンアフリカ運動の主導者というとンクルマが有名であるが、アフリカ大陸的視点からアフリカの統一を主張し、社会主義的であったンクルマのそれと、地域ナショナリズム的視点からスタートし、反共産主義的であったニエレレのそれとの違いを対比する。ニエレレはその立脚点から東アフリカ(ケニア、ウガンダ、タンガニーカ、ザンジバル)の地域的統合に熱意を持ち、そのためならタンガニーカの独立を遅らせてもいいと言ったことはよく知られる。地域的統合が、最終的にアフリカの統合につながるという立場であった。1950~60年代のパンアフリカニズムは4つの原則を持っていたとする。1)アフリカのナショナリズムはパンアフリカニズムでないといけない。2)パンアフリカニズムは反帝国主義である。3)政治的なプロジェクトである。4)政治的統合は強制ではなく自主的でないといけない。という理想主義である。

 パンアフリカニズムという理想主義の旗手であったニエレレが、一見地域統合からアフリカの統一へ向かう第一歩と見られるタンガニーカとザンジバルとの統合に踏み出したのは当然のように見える。しかし、その背景には政治の現実主義が横たわっていた。バブは20年後に「連合はザンジバル人を犠牲にした帝国主義側の反革命だった」と述べたことは措くとしても、カルメに見られる反民主主義的な人種主義ナショナリズムを放任しなくてはならなかったし、1984年のジュンベに代表される地域的なナショナリズムも押さえ込まないといけなかった。連合の成立過程から秘密裏に行われ、法的にも多くの欠陥があり、また決して民意を問うたとは思われない。ニエレレは連合を維持することを、党(TANU~CCM)、そして自分個人の監督下に置き、決して民衆の議論に任せようとしなかった。つまり、タンザニアにとって「連合」の問題は、常に最大のタブーとして存在し続けたのである。

 ニエレレが1985年に大統領職を退いて、その後CCMの後継者たちは現実主義的政治主義を踏襲し、ニエレレの理想は忘れ去られたかに思える。ザンジバルでのCCMとCUFの泥沼の対立は先が見えず、タンザニア政府はドナーと呼ばれる国際金融機関による構造調整計画ー新自由主義政策を押し付けられ、グローバリゼーションという新しい帝国主義に押し流されようとしている。ンクルマやニエレレのようなパンアフリカニストは、今のような状況をどう読むだろうか?新しいパンアフリカニズムは下からの民主的な基盤がないといけないだろう、とシヴジは主張する。

 10月14日はニエレレの命日、タンザニアではニエレレ・デーという休日である。その日にペンバ島にいてみようかと思っている。ニエレレがおそらくもっとも人気のない場所で。

(2008年10月1日)


ダルエスサラーム物価情報(2008年10月)US$1=Tsh1,170シリング

・バス/1乗り/Tsh300~Tsh350・新聞(朝刊英字紙)/1部/Tsh500・ガソリン/1リットル/Tsh1,650・米/1kg/Tsh1,200・たまねぎ/1kg/Tsh1,000・砂糖/1kg/Tsh1,200・ウンガ/1kg/Tsh700・牛肉(ステーキ)/1kg/Tsh5,000・卵/トレイ/Tsh5,000・パン/1斤/Tsh800

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