白川
Habari za Dar es Salaam No.80 "Swahili Coast-Zanzibar" ― スワヒリ海岸ーザンジバルのタウンと村 ―
根本 利通(ねもととしみち)
ザンジバルという場合、一般には3つの範囲が考えられる。広義には、タンザニア連合共和国の島嶼部(Tanzania Visiwani)と呼ばれていた、ウングジャ島とペンバ島の二大島で構成され、植民地時代はイギリスの保護領であり、1963年にはタンガニーカ共和国(現在のTanzania Bara)とは別の主権国家として独立したザンジバル共和国(1964年のザンジバル革命時にはザンジバル人民共和国)。ザンジバル共和国は国旗を持っている。2番目は、ペンバ島と並ぶウングジャ島をザンジバル島と通称している。外国人観光客はウングジャという呼称を知らない人が多い。3番目は狭義にユネスコの世界遺産に指定されているストーンタウンとその後背地であるムガンボ地区などを含めたザンジバル市。行政上の区分ではザンジバル共和国には5つの州(Mkoa)があり、その一つであるザンジバル都市西(Zanzibar Mjini & Magharibi)州の都市県に当たるザンジバル市である。
ザンジバル・タウンがいつごろから形成されたのか。1820年代にマスカット・オマーンのスルタンであったサイードがその海上帝国の王都をマスカットからザンジバルに移すような形で、ザンジバルのストーンタウンの建設を始めた。現在のストーンタウンはその時代に始まる。ただ、スルタン・サイード以前にももちろん、現在の場所に町は存在していた。
ザンジバルという名前が歴史の中に登場したのはいつか?そしてそのザンジバルは前述の2番目の範囲を指すのだが、その中で3番目のザンジバル市の原型はいつごろ現れたのだろうか?現在のザンジバル・タウンは完全に後背地とつながっているが、19世紀まではシャンガニ半島が南の(Mnazi Mmoja周辺)細い道で本島とつながっており、北の方(現在のFunguni)から入り江が大きく入り込んでいて、後背地とは舟で行き来していた。今Creek Roadという南北に一直線に走る道路が、ストーンタウンと郊外を仕切っているが、そこが入り江の名残である。入り江が完全に埋められたのは20世紀も半ばになってからである。
さて、ザンジバルというのはもとは「黒人たちの土地」といった意味だが、その呼称は紀元前後からあったようだ。ただ、それはいわゆるスワヒリ海岸一帯を指す呼称で、現在のザンジバル市あるいは島と特定されない。ペルシア人、アラブ人たちがスワヒリ海岸に居留区を作ったのは、キルワ、モンバサ、ラムのように本土から切り離された沖合いの島であることが多い。ウングジャ島自体が島であるが、その中でも入り江で大きく遮断されたシャンガニ半島を選んだのは、防衛上の理由だったのか。ともあれ、シャンガニに居住区が出来たのは12世紀といわれる。最初は漁村だったが、そのうち小さなスワヒリの町に成長する。当時(13~15世紀)、ウングジャ島全体を統一する王国はなかったが、シラジ系(起源をペルシアのシーラーズに求める)の首長たちが統治していたと思われる。15世紀末から16世紀初頭にかけて、ヴァスコ・ダ・ガマによる航海が行われるが、モザンビーク、キルワ、モンバサ、マリンディの町は注目され、寄航あるいは襲撃などを試みられているが、ザンジバルは通過する島として描かれている。ザンジバルの都市としての重要性は、この時点ではまだなかった。
1828年にオマーンのスルタン・サイードがザンジバルに寄航して、ストーンタウンの建設が始まる。1840年からスルタン・サイードは11年間ザンジバルにとどまって、実質王都がマスカットからザンジバルに移された形となった。アラブ人とインド人によって作られたこのストーンタウンは、赤道以南の最大のメディナ(城砦都市)といわれ、サハラ以南のアフリカでは数少ない連綿として続いた都市であり、町衆による都市文化が息づいていると言える。ザンジバルの文化を外来のアラブ的、インド的なものでアフリカ的ではないと思っては大きな間違いとなろう。
さて、ザンジバルのタウンの文化について触れるのは今回の目的ではない。タウンには19世紀支配階級としてのアラブ人地主貴族階級、インド人商人、そしてイギリス人やアメリカ人などの外国人(商人、外交官)が住み着く。が、それにサービスを提供する労働者も必要で、職人、港湾労働者、ポーター、家内労働者などで、その中で少なからぬ部分を奴隷が占めていた。その人たちは現在のタンザニア本土だけではなく、遠くマラウィやコンゴなどからも連れて来られていたアフリカ人である。さらに後背地として、タウンの食料を供給し、ザンジバルの輸出品のクローヴ、ココやしのプランテーションのある農村部にはさらに膨大な労働力としての奴隷人口がいた。
イギリスなどの圧力で、ザンジバルの奴隷市場は1873年閉鎖され、1890年にイギリスの保護領とされると、奴隷制そのものも1897年廃止される。奴隷制廃止後も、家内労働者は元の主人のもとに残った例が多く、また農村にいた奴隷がそのまま契約労働者になるのも主流だったようだが、農村に残るのを拒否して、都市に幸運を求めて流れた肉体労働者もいた。
奴隷制廃止後、町へ流れ込んだ人たちもムガンボ地区に住むことになる。1895年には15,000人の人口を抱え、ストーンタウンの人口を超えた。さらに1922年にはストーンタウンの人口の倍に達したと言われる。漁師、家内労働者、日雇い、ポーター、職人、家畜飼養、失業者(土地を失った農民)などが住み着き、またその出自も、アラブ人だけでなくいろいろなアジア出身者、イエメン、コモロ、マダガスカル、ソマリア、エチオピア、そして元奴隷であるマラウィ、コンゴ、モザンビーク、タンガニーカ出身者などなど。ストーンタウンがコスモポリタンな国際都市だったと言われるが、ムガンボ地区の住民の国籍も多様で、というか、当時は国籍という意識はなかったのではないか。
1928年にムガンボ地区で、大きな土地代反対のストライキが起こる。「ザンジバルは原住民のものだ。土地は最初からわれわれのものだ。なぜ土地代を払わないといけないのか!」というスローガンが語られる。タアラブの女王シティ・ビンティ・サアードがスワヒリ語でタアラブを歌い出だしたのもこのムガンボ地区であり、その歌声を窓の外で聴いて育った少女がビ・キドゥデが今なお住んでいるものこのムガンボ地区である。ザンジバルの独立闘争で、革命でアフリカ人の運動の発信地もここだった。
ストーンタウンとムガンボ地区を結んでいたのは最初は舟だったが、19世紀に最初は木製の、次いで石製の、そして20世紀に入って鉄製の橋が架けられた。1950年代までその橋は存在し、橋を渡って通勤したという古い世代もいる。今はその地区はダラジャーニ(Darajani)という随一のショッピングストリートになっている。ダラジャとは橋のことである。
ムゼー(Mzee)は1953年生まれで、ザンジバル政府公認のガイドであり、ふだんはタクシーの運転手をしているが、私たちのお客さんがやって来ればそれを受け入れて、ストーンタウンツアーやスパイスツアーのガイドをする。日本のテレビ局の撮影だとか、ダウ船のツアーのときなどにも、その豊富な人脈を活かして、大活躍する。いい加減な片言の日本語をしゃべる。
ムゼーの住んでいる地区はザンジバル市の中ではかなり郊外で、伝統的なムガンボ地区よりもさらに郊外のムペンダーエ(Mpendae)と呼ばれる新興住宅地区にある。ザンジバル空港にも近い。2002年の国勢調査では、住民は12,000人あまり。ザンジバルには珍しく区画整理され、道路もまっすぐ走っている分譲住宅地区である。ムゼーがここに家を建てて移り住んだのは19年前と言う。それ以前はムガンボ地区に住んでいた。19年かけて少しずつ家を建て増しし、家具を揃え、庭に果樹を植えてきた。まだゲートは出来ていない。次の目標だと言う。
ムゼーは敬虔なムスリムで、もちろん酒は飲まないし、断食もする。仕事の合間を縫って、街中のいたるところにあるモスクで礼拝をする。ラマダン中とか、祭日にはカンズを着て、コフィアを被る。ただ常にそういう格好をしているわけではなく、普段の仕事着はいわゆる洋装である。夫人も外出時はブイブイをまとうのだろうが、家庭内ではカンガを上下にまとっている。タンザニア本土でも農村には多い格好である。子どもは4人。19歳の長女から4歳の末っ子まで、皆学校に通っている。
ムゼー夫妻は、肌の色はかなり黒いからアフリカ人と言っても不思議ではないが、タンザニア本土の内陸部の純粋なアフリカ人(という表現が正しいとは思えないのだが)と比べると、やや浅い。どこかで血が混じっているのだろうと思う。ザンジバルの庶民は先祖代々云々というのをどこまで意識しているだろうか?ザンジバルの初代の大統領であったアベイド・カルメは親がマラウィ出身であったことは公然の秘密であったが、両親がザンジバル生まれであることをザンジバル国籍の根拠にすえようとした革命政権以降、ザンジバル人のアイデンティティはぎくしゃくしている。それは革命側というか、現政権与党を支持するかどうかという政治的判断にも関わるようだから、うかつには訊けない。
チュワカ村は東海岸ではあるが、湾になっていてかなり遠浅で、海草も多く、透明度が低いためか、観光リゾートとしては評価は低い。1ヶ所中級リゾートがあるあるが、イタリア人に貸しきられているとかで、一般人は予約できないという。ザンジバル人だが、ゴア系のクリスチャンの女性が受付をやっていた。チュワカ湾は湾になっているためか、マングローブ林がかなり残っていて、ジョザニ・チュワカ湾国立公園の一角を形成する。ジョザニ森は「炭を食う猿」として有名になった、ザンジバル・レッドコロブスが生きることでも有名だが、その南のペテ(Pete)の海岸線では、様々なマングローブの林を抜ける遊歩道がある。今回行ったチュワカ村ではあまり大きなマングローブ林は観られなかったが、湾をはさんだ対岸のミチャンヴィ(Michamvi)などではマングローブ・ツアーが行われているという。
チュワカ村にはその昔スルタンの離宮の一つがあった。暑い時期にはここに泊まり、タウンまで仕事に行ったという。暑い時期にスルタンが執務していたとはちょっと驚きだが、少し涼しいのだろうか。村は漁村で、ちょうど満潮に向かいつつある時刻だったので、舟がたくさん上がってきていた。舟はンガラワとマシュアという小型のダウ船である。海辺では網を繕う漁師たち、カニを持って売り込もうとする若者たちなどがいた。漁獲品はこの村で消費されるより、タウンへ運ばれるものが多いようで、仲買人のものらしい車が点在していた。またジャックフルーツやマンゴー、パパイヤ、バナナなどの果物も市場では売られていた。
ムゼーの母方の親戚の家は、浜辺からすぐの所にあった。そこの住人は今タウンに住んでいるということで無人だったが、近所の親戚が鍵を預かって、時々通風しているからだろうか、空気がよどんでいることはなかった。建物自体は典型的なスワヒリの家で、外にはバラザという座る場所があり、入り口ドア2ケ所には立派な彫刻が彫ってあった。いわゆるザンジバル・ドアである。中に入ると、今の両脇に寝室が2室。寝室には使ってない家具が放り込んであって乱雑だったが、天井は高く、ボリティという太いマングローブ材が差し渡してあり、しっかりと作られ、床の高いザンジバル・ベッドが置いてあった。裏庭(ウワニ)には台所、シャワー、便所があり、きれいだった。なかなか快適な海辺の民宿生活が楽しめそうだった。
村で出会う人々はたいてい知人、親戚が多く、挨拶を交わすことが頻繁だが、年配者にはロンドンで働いていたという人が2人もいた。60歳代。革命後、どういう経緯でイギリスに渡ったのかは知らないが、当然立派な英語を話す。今はカンズとコフィアという完全なムスリムの格好だが、若きころはどういう青春をイギリスで送ってきたのか。私は人類学者ではないので、ムゼーの一族の出自、経歴、動向をいちいち尋ねることはしていない。2009年からムゼーの家とチュワカの村に泊まる「ザンジバル・ホームステイ」という企画を始めようと思っている。極めて趣味的なツアーで、参加は1人か2人まで。ザンジバルの庶民の近現代史が見えてくるかも知れませんね。Karibu Unguja(ザンジバルへようこそ)!
☆参考文献:Abdul Sheriff「An Outline History of Zanzibar Stone Town」(1995) Garth Andrew Myers「The Early History of the 'Other Side’ of Zanzibar Town」(1995)
(2008年12月1日)