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Habari za Dar es Salaam No.85   "Lake Nyasa" ― ニャサ湖 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 タンザニアの三大湖という言い方をすれば、ビクトリア湖、タンガニーカ湖、ニャサ湖であろう。ビクトリア湖畔にはムワンザ、ムソマ、ブコバと3つの州の州都があり、ケニア、ウガンダとの国境となっている。タンガニーカ湖畔では、キゴマがタンザニア側の中心都市(港町)だが、ブルンジ、コンゴ民主共和国、ザンビアとの国境となっている。ニャサ湖はモザンビーク、マラウィとの国境をなし、共に巨大な湖である。

📷 ニャサ湖マテマビーチ  ニャサ湖はマラウィ湖といった方が一般には通りはいいかも知れない(ただし、モザンビークでも呼称はニャサ湖である)。マラウィにとっては国のシンボルだし、マラウィで発行されている地図では、マラウィ湖に引かれている国境線は、モザンビークとの国境線は湖の中心線だが、タンザニアとの国境線になるといきなり湖水面は全部マラウィに取り込んでいる。これではタンザニアの湖畔の村の人たちは船で行き来できないではないか!こんな馬鹿なことはあるか!と思い、いくつかの地図を見てみてもマラウィで発行された地図のようなものの方が多数派のようだ。日本の帝国書院の中学(1986年版)、高校用(1993年版)の地図帳しかり、成美堂出版(2006年版)しかりである。でも帝国書院の中学校用地図帳(2006年版)になると、中心線になっているように見える。

 イギリスのBarthoromewの東アフリカ地図でもマラウィの全取りになっている。ただ、フランスのMichelinの東南部アフリカ地図の国境線は中心線になっている。ケニア発行の東アフリカも中心線。タンザニア地図では当然中心線かと思うと、発行が外国(ドイツなど)だとマラウィの主張に沿っている。タンザニア観光局(TTC)発行のタンザニア地図は、当然中心線になっているのだが、この地図の印刷はオーストリアの会社がやっている。そのオーストリアの会社が再発行した全く同じ地図では、なんとニャサ湖はマラウィ湖と表記され、国境はマラウィの主張に沿って変更されている。その昔、ニエレレ大統領(タンザニア)と、バンダ大統領(マラウィ)という、もう共に故人になってしまったが、両国の初代の大統領たちの時に対立し、あわや国境紛争かと思われたことは未解決のままのようだ。この原因は現在のタンザニアとマラウィの旧宗主国であったイギリスの統治政策にあるらしい。イギリスの植民地支配はさまざまな傷跡を各地に残している例の一つなのだ。

 さて、前置きが長くなったが、私はニャサ湖に行くのは実は初めてだった、遠い昔(1976年)にマラウィでマラウィ湖航行の汽船に乗って、ンコタコタからカロンガまで行ったことはあるが、その後ザンビア経由でタンザニアに入国したので、ニャサ湖部分は通っていないのだ。33年ぶりに念願を果たすような気分だった。

📷 大地溝帯をくっきり見せるニャサ湖  ニャサ湖はタンガニーカ湖と同じく、西部大地溝帯が造りだした湖であり、毎年裂けていっている。湖水面積は約30,000平方キロ。湖の広さとしては世界9番目。ただしこれは統計によって異説がたくさんある。アラル海やチャド湖のように乾燥化、無計画な灌漑計画のために大幅に縮小してしまった大湖や、温暖化による影響で湖水面が低下した湖などで統計がまちまちである(ニャサ湖も湖水面の低下が言われる))。アフリカでは3番目(1番はビクトリア湖、2番はタンガニーカ湖)の広さ。湖水面の標高は500m。湖の深さは706mとされる。深さでは世界4番目だ。

 ニャサ湖(マラウィ湖)が有名なのは、その魚の種類の多様性。特にシクリッド(カワスズメ)がタンガニーカ湖と並んで爆発的な進化をとげ、ニャサ湖固有の種類を800種以上もっているという、魚類分類学者や、進化学者には垂涎の場所である。またカンパンゴという大型なまずも有名である。従来マラウィ湖側で専ら研究が行われ、ニャサ湖側ではほとんど行われてこなかったようだ。

 ダルエスサラームから南西部(イリンガ、ムベヤ方面)には飛行機は飛んでいないので、車で行く。ザンビアに通じるタンザン・ハイウェイを850km走ると南西部の中心都市ムベヤ(Mbeya)であるが、その手前14kmのウヨレ(Uyole)という小さな町を左折し、トゥクユ(Tukuyu)を経由してキエラ(Kyela)の町まで下る。この間約120km。途中でマラウィ国境に向かう道と分岐する。キエラはニャサ湖に面した県の県庁所在地で、イトゥンギ(Itungi)という港があり、対岸のバンバベイ(Mbamba Bay)まで汽船が週1便出ている。

 私たちはキエラの町で手続きをした後、湖岸から少し入った道を北岸のマテマ(Matema)ビーチに向かう。宿泊予定先に電話すると、昨日は大雨だったので通行不能だったが、4輪駆動車なら今日は通れるだろうと言われる。この間43km、、未舗装道路で約1時間。道路の周辺は水田地帯で、タンザニアでは最も有名なブランド米である、キエラ米の産地である。その水田から溢れ出た水が道路を流れて湖に流れ込んでいる。橋の架かっている所でもかなり水位が上がっていて濁流が流れている。大雨が来たら流されてしまいそうな橋。またいくつかの潜り橋の箇所でも、かなりの急流が流れ、人々はズボンやスカートをたくし上げて濡れながら、あるいは流されないように自転車をしっかり押しながら渡っている。私たちが往復通過した日は雨が降っていなかったからよかったけど、大雨の時は恐いだろう。

📷 ニャサ湖畔まで迫る段々畑  ただこの43kmの沿道でビックリしたのは、人の多さである。子どもたちはもちろん、年配者、大人だけでなく、若者たちも非常に多い。沿道に植わっているのは稲以外にバナナ、マンゴー、トウモロコシなどだが、目一杯に開墾されて、稠密な人口を支えているのだろう。若者たちが多いのは、都会に出ないと生活できないわけではない、豊かさがあるように感じた。この奥地、辺境にと私なんかは思ってしまうのだが、それは単にダルエスサラームからの距離の遠さだけなのかもしれない。マテマの村では、サテライトテレビを導入したバーがあって、ビール1本もしくは入場料Tsh200(約20円)で、UFEAカップの中継を遅くまでやっていた。

 私たちはマテマビーチのルーテル派教会の経営しているリゾートに泊まった。ホステルではなく、リゾートを目指していて、ジェネレーターも持ち、観光学校出身の若いマネージャーは張り切っていたが、生憎「大雨による断水?」だそうで、水は出なかった。大雨季の最中は観光客は来れないだろうなと思ったが、私たち(7人)以外にも、白人3人のお客がいた。この教会は1888年創立と言っていた。ドイツの植民地時代の初期である。こんな辺境の地(?)に進出したキリスト教宣教師の情熱を思う。またこの南部地域を走ると、各地に教会、教会経営の病院、学校などが点在しているのに気が付く。 

 さて、私たちがボートに乗ってニャサ湖に出たのはたった1日であった。大雨季のさなかで、川からの濁流が多く流れ込み、湖の透明度を落としていたので、湖水下の撮影を断念したためである。同じ時期、タンガニーカ湖では村のそば(生活排水が流れ込む)や川が流れ込む地区を避ければ、湖面下数メートルが見えるほどの透明度はあったが、ニャサ湖のマテマから東の地域(州で言うとムベヤ州~イリンガ州)では残念であった。

 マテマから東の湖岸を選んだのは地形図で見ると、最も山並が湖水に近づいているから。つまり大地溝帯がそのまま湖面に落ち込む地形を撮りたいという目的のためである。湖畔のマテマから東南の山並はリビングストン山脈と呼ばれ、最高峰は2,962mとされている。地図で見るとこの地区は道がなく、人も住んでいないのではないかと思っていたが、湖上をボートで行くと間断なく人家が見られ、カトリック教会まであった。人家は急峻な山の斜面を開墾し、キャッサバなどを作っている。丸木舟の往来は頻繁で、途中陶器を焼いている村、運ぶ小舟、売っている市場も眺められた。辺境の辺境という先入観を改めないといけない。湖は隔てるものではなくつなぐものなのだ。

📷 大雨季のニャサ湖畔の村の畑  私たちが乗ったボートは教会の司祭の所有のもので15馬力のエンジンを搭載している。行きかう丸木舟、網を下ろしている漁師の舟の間を抜けていくから、早いように感じられるが、湖面が穏やかだからこそ、実際はのんびりしたスピードだ。湖のスピードでニャサ湖のタンザニア領の最南端であるバンバベイまでは2泊3日かかると言う。対岸のマラウィ領の方がよほど近い。狭いところでは幅は50km程度だと言う。船頭さんに、「マラウィまでよく行くの?」と尋ねたら、にやっと笑い「もちろん」という返事だった。

 湖水の撮影を諦めて、キエラを出て、ニャサ湖畔を登っていく。キエラからトゥクユまでわずか60km弱だが、この間標高は1,000mも上がる。大雨季なので沿道は緑一色なのだが、急勾配を登っていくと、植わっている栽培植物は変化する。稲、バナナ、トウモロコシからコーヒー、チャ、じゃがいもなどが見られる。私は気が付かなかったがカカオも比較的低地で栽培しているようだ。

 トゥクユは標高1,500m余り、ムベヤ州トゥクユ県の県庁所在地。ニャキュウサ人の地域で、勤勉な農耕民族である彼らの生活は、栗田和明編著『タンザニアを知るための60章』の第Ⅵ部に詳しい。主食としてはバナナで家の周りにバナナの樹が多く植わっている。マンゴーやその他の果物の樹も多い。換金作物は主食系でいえば米、次いでトウモロコシだろうか。そしてカカオ、コーヒー、チャといった純粋の換金作物も高度によって分布している。綺麗に手入れされた茶畑が目立つ。 

📷 ニャサ湖を見下ろすリビングストン山脈の山並  リビングストン山脈の中を走る。トゥクユから北上して40kmほど、イゴマ(Igoma)の村を分岐して右折し、ラフロードにはいる。どんどん高度が上がり、農耕地が少なくなり、疎林と放牧地が広がる。粘土質で濃霧が立ち込めていて、滑りやすい。大型のトラックが通った轍が道を大きくゆがめ、小型車は通りづらくなる。何とか通り抜けようといろいろな轍の跡が道一杯に広がり、それでも窪地は水が溜まり、抜けられなくなる。そうするとトラクターで岩を運び、穴を埋めて通過できるようにする。そのトラクターが底をすってスタックすると、4輪駆動車(ランドローバーやランクル)は出動し、ワイヤで牽引して脱出する。道路補修をしているのは、公共事業省ではなく、畜産開発水産省の車だった。畜産物が運び出せないと困るらしい。道路補修のリーダーは30年前に日本の協力隊員のカウンターパートだった人で、その人は私の知人であったので奇遇に驚く。

 イゴマからブロングワ(Bulongwa)を目指す。途中でキトゥロ(Kitulo)への分岐点を過ぎる。キトゥロは日本人の専門家の努力で国立公園に昇格した、高原樹木、花畑が売り物の国立公園で、他のほとんどの国立公園が野生動物をメインにしているのとは異なる。標高が2,000mを超え、最高地点は2,700mを超えた。パンクを3回、スタックを1回して日本からの乗客に不安を与えながら、運転手たちは余裕、「腹減った。疲れた」を繰り返していたが‥。

 その日はブロングワで情報収集し、県庁のマケテ(Makete)まで下る。下ったと言っても、標高2,140mある。タンザニア人の常識では「タンザニアで一番寒い町」らしいが、北部ハナン県の町(Katesh)はどうなのかとふと思う。マケテの町は未舗装の目抜き通りに片側に店が並んでいるだけ。道行くスーツを着た人にお勧めのホテルを訊いて行ったが、誰もいない。仕方がないので、その人の言うNo.2のホテル(ゲストハウス)に泊まったが、バストイレ付でTsh10,000(=約750円)、バストイレ共用でTsh5,000という安さ。電気はあるし、熱いお湯も出る。寒いと言えば、赤々と燃えた炭をコンロに入れて持ってきてくれる。暑いダルエスサラームから、なめて半袖しかもって行かなかった私も風邪を引かずに済んだ(運転手はジャンパージャケットも着ていた)。

📷 リビングストン山脈中の村  マケテを目指したのは、リビングストン山脈がニャサ湖に落ち込む断崖の風景を撮りたかったため。ブロングワの先の絶壁(?)から見られると言う。前日のブロングワでの情報収集に依れば、湖が山の上から見られるのは朝早いうち、10時には雲が下りてきて視界が閉ざされると言われた。7時にマケテを出て、ブロングワへ。気は急くものの、パンク1回。ブロングワの先、イドゥンダ(Idunda)村のさらに先、ウテングレ(Utengle)を目指す。尾根道を行くと片側には谷底、絶対に車がすれ違えない狭い道で、かつ粘土質がぬかるんで、人間が歩いても滑る道をそろそろと走る。スリップを繰り返しながら、歩いた方が速いようなスピードで、重たい機材を載せて車はよろよろと進む。目をつぶった地点が数箇所。途中、頭に荷物を積んだ女たちに「早く行かないと雲が‥」と脅され、気は急くものの‥。ウテングレに到着したのはちょうど9時ころ。教わった展望地点に急ぐものの、雲はしっかり下に見え、ニャサ湖は見えなかった。やはり、乾季(7~9月)でないと無理なのか。

 気落ちして来た道をマケテまで戻る。そのままンジョンベ(Njombe)まで走り、やや標高は低いものの、ルデワ(Ludewa)での眺望にトライすることになる。マケテ~ンジョンベ間の道は、昨日走った道と違い、砂利を敷いてあるので、極端に悪化した地点は少ない。高原地帯を走ると、小麦、ジャガイモの畑も見かけるが、圧倒的に多いのは針葉樹の植林地帯である。ここはもともとは森林限界で、外来種の針葉樹を導入したのかと思う。Black Wattleというアカシアの一種なのか、わたしには分からなかったが‥。ンジョンベに達して、ニャサ湖地帯から離れた。(ルデワには行かなかった)

 余談になるが、今回のニャサ湖への訪問は、「アフリカの古代湖」を取材するテレビ隊に同行したため、実現した。タンザニアの三大湖であるタンガニーカ湖、ビクトリア湖も訪問した。ビクトリア湖の撮影と言えば、3年前に話題となった『ダーウィンの悪夢』を思い出す。2006年に他のテレビ番組で撮影した時には、撮影許可を取るのが非常に大変だった。映画の冒頭に出てきた目のギョロっとした夜警はその職場を追われたし、他にも責任を問われた人はいたらしい。

 あれから3年、映画の公開からは5年経過しているので、もうその後遺症は薄らいでいると思っていたのだが‥。ところがどっこい‥。中央政府の情報省の撮影許可を取って、正規のルートで手続きしても、解雇された夜警のいた水産研究所の所長は撮影を拒み、水産局の役人も直属の上司から電話を貰わない限り、協力してくれなかった。ムワンザ州の治安担当官も然り、責任転嫁を図り、ウンとは言わない。それを小役人たちの保身本能とくさすのは簡単だが、いかに『悪夢』がムワンザの人々に傷跡を残しているか、まざまざと感じさせられた。わたしも外国人なので、あの映画に感じた怒りは、ほとんど忘れ去ろうとしているが、現地の人々には依然『悪夢』は悪夢なのだ。あの映画で賞をもらった監督、褒めそやした外国人の研究者、インテリたちにとっては、過去のことに過ぎないかもしれないが‥。外国人が描くドキュメンタリーと称するものに注意しないといけないという格好の事跡となったといえるだろう。

(2009年5月1日)

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