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Habari za Dar es Salaam No.90   "Swahili Coast-Mafia" ― スワヒリ海岸ーマフィア島 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 マフィア島。インド洋に浮かぶタンザニア領の島の中では、ウングジャ島、ペンバ島に次いで3番目に大きい。というか、この3つの島が三大島だろう。マフィア島はマフィア群島の主島で、群島には名前が付いている島、砂洲など小さなものは15くらいあるようだが、群島全体の面積は1,500km²くらい、その内、マフィア海洋公園(MIMP)に指定されている領域は約822km²で、マフィア主島は600km²くらいだろうか(正確な統計が見つからない)、日本でいうと淡路島くらいの大きさである。人口は40,801人(2002年国勢調査)。行政区分はタンザニア本土コースト州マフィア県で、島で一つの県をなしている。タンザニア本土にある119の県(2002年当時)で、最も人口が少ない。(ザンジバルを含めると129県の内、ザンジバル南部県に次ぎ下から2番目)

 インド洋に浮かぶ島であるのに、タンザニア本土に属していることに注目されたい。つまり、ザンジバルの側ではないのだ。この島も紀元前後から、インド洋西海域の季節風貿易の中で小さな都市国家を成長させ、イスラームを受け入れ、また19世紀にはザンジバルのスルタンの支配下に置かれていた点ではペンバ島、ウングジャ島と共通しているが、植民地支配の過程で歴史の歩みが変わってきた。

📷 海から見たマフィア島  マフィア島の歴史がまとまって書かれているものはよく知らない。古いものでは1941年に出たPiggott著『History of Mafia』、さらに最近の発掘の結果をまとめた1997年発行のWalley著『Chole History and Mafia in General』が出ているようだが、入手できていない。

 紀元前後の状況は『エリュトウラー海航海記』の中から想像される。紀元前からインド洋西海域では季節風貿易が行われていたが、その中ではっきりマフィア島と特定できる場所はないようだ。伝説の町ラプタ(Rhapta)の対岸にある島がマフィア島の候補だが、ラプタ自体が特定されていない。マフィア島の候補と思われるものは、Menouthias島と記載されているが、それがマフィア島なのか、ウングジャ島なのか、ペンバ島なのか、あるいは全部をひっくるめてなのかは結論が出ていないようだ。

 16世紀に書かれた『キルワ年代記』にもマフィアは登場する。『キルワ年代記』にはペルシアのシーラーズ出身の一族を運んだ7艘の船が、スワヒリ海岸のそれぞれの都市国家の始祖になったと記されているが、マフィア島はその内のキルワの始祖の子孫が始めたとされている。10~11世紀のことだ。この時代に最初作られた小規模な入植地は島の南西部のキシマニ(Kisimani)マフィアと呼ばれる土地だ。行きたかったが、7月は波浪が荒いこと、この遺跡はもう半分くらい水面下に没していて、見るのが難しいとガイドに言われ断念した。2番目の町であるクア(Kua)が建設されたのは13世紀ころだといわれる。

📷 チョーレ・ムジーニのヒンドゥー寺院跡  ポルトガル人による大航海時代(15世紀末~17世紀)の記録には、はっきりとマフィア島は登場する。ヴァスコ・ダ・ガマの1498年の第1回目の航海では、案内人の意図によりキルワ、マフィアを通リ過ぎてしまった。1505~12年の短いポルトガルによるキルワの占領期間中、ポルトガルに追われたキルワのスルタンの亡命地としてマフィアは登場し、またポルトガルに擁立された傀儡スルタンを呼び寄せて暗殺したという伝説がある。ポルトガルの東アフリカ支配が終了する1698年のモンバサのジーザス砦の陥落まで、マフィアはキルワのスルタンとモザンビークのポルトガル総督の二重支配を受けていたと思われる。この時代のマフィアの中心都市はキシマニであったろう。

18世紀にはオマーン・アラブの支配下に入ったザンジバルのその支配下に入ったと思われる。この時代、キルワ・キシワニには過去の栄光はなかったが、内陸部(現在のマラウィなど)から、キルワ・キビンジに運ばれた奴隷がフランス領の植民地となった現在ののモーリシャス、レユニオン島へさとうきび・プランテーションの労働力として輸出される中継地点としてマフィア島はそこそこの繁栄を示していたと思われる。

 1817年にマダガスカルのサカラファ人の攻撃略奪を受け、クアの町は荒廃する。その後、クアの町は復興することなく廃墟と化し、マフィアの当地の中心はチョーレ島にあるチョーレ・ムジーニ(Chole Mjini)に移った。そこにはザンジバルのスルタン政府の役人やインド人の商人が移り住み、ヒンドゥー寺院も建設されるなど繁栄を示した。本来、ザンジバルのスルタンの統治下だったので、1885年のベルリン会議による分割でも、ドイツ領東アフリカではなく、イギリスの保護領になるはずであったが、1890年ドイツとイギリスの協定により、現在のマラウィの一部の見返りとして、マフィア島はザンジバルのスルタン領から切り離され、ドイツ領になった(売り飛ばされた)という。従って、現在の行政区分はタンザニア本土(Mainland)に属することになってしまった。ヨーロッパ列強による恣意な分割がその後の歴史に影響を与えた一つの例である。

📷 クア遺跡金曜モスク  19世紀のオマーン・アラブ時代に大いに発展したのが奴隷労働によるココヤシのプランテーションである。当時、チョーレ島にある町がチョーレ・ムジーニ(町のチョーレ)と呼ばれ、マフィア島はチョーレ・シャンバ(畑のチョーレ)と呼ばれた。オマーン系のアラブ人や長年住み着いていたシラジ系と自称する人たちはチョーレ島の町に住み、マフィア島は奴隷労働によるココヤシ畑が広がっていた。当時(19世紀後半)のマフィア島の人口の半数は奴隷だったと推定される。ドイツの植民地時代、奴隷貿易は禁止され、奴隷解放は奨励されたが、奴隷制度は廃止されなかった。マフィア島を含む、南部の沿岸地帯(キルワ、リンディ、ムトワラでは奴隷を所有するアラブ人、シラジ系の大土地所有者は奴隷の所有者であり、その地方名望層とドイツ植民地当局は対立を避けるために、奴隷制廃止という強硬手段を避け、緩やかな解放を奨励するという妥協的な政策を採った。第1次世界大戦前夜の1912年、マフィア島の人口は約13,000人くらいだったが、その3分の1は奴隷だったと推定されている。

 ドイツの植民地時代の末期(1913年)にマフィア島の統治はキリンドーニ(Kilindoni)というマフィア島の西海岸の港に移った。ダウ船主体の貿易から、動力船主体に変わったということだが、キリンドーニが深水港であるというわけではない。対岸の本土側との連絡を考えたのだろう。ここが現在の県庁所在地である。第1次世界大戦が勃発し、マフィア島はイギリスに初期に占領され、ルフィジ河口に逃げたドイツの巡洋艦を攻撃する基地になった。

 第一次世界大戦後、植民地宗主国がドイツからイギリスに代わった。ザンジバルのスルタンはマフィア島の宗主権復活を狙ったようだが、1920年正式にタンガニーカ本土に組み込まれる。その後、奴隷制度は正式の廃止されるが、マフィア島はココナッツ、カシューナッツという商品作物が生産される他は、漁業に頼った経済的には遅れた地域として残される。マリーンリゾートとして脚光を浴びるのは、20世紀も末に近くなってからである。

📷 ココヤシのプランテーション  今年の7月にマフィア島に久しぶりに行ってきた。14年ぶりだと思う。マフィア島には1986年にダウ船の出入港記録を調べるため、キリンドーニの町のゲストハウスに泊まって港に通ったのが初めてで、その後2回マフィア・アイランド・ロッジという老舗(当時は唯一)のビーチリゾートに泊まったことがある。今回は通常はかなり高い料金のロッジが、7月半ばまで特別オファーをしていたので、それに乗って、少し贅沢な気分を味わってきた。と言っても、ビーチリゾートに泊まりながら、海には入らず、遺跡めぐりだったのだが。

 キリンドーニには港も空港もあり、マフィア島で唯一町といえる所である。23年前に初めて行った時には、まだウジャマー政策の名残が残っていた時代であり、町とすら呼べない感じだった。今回、ビーチとの行き帰りに少し覗き、港も歩いてみた。空港から歩いてすぐ町なのだが、町はそれなりに賑やかになっており、店も増えたようだし、宿屋(ゲストハウス)もそこそこ出来て、観光客相手のレストランもあるようだ。白人のバックパッカーらしい若者たちが歩いている。

 町から港へ下りてみる。23年前は毎日通った道だ(といっても数日のことだったが)。港にも活気が広がっている。かつては普通のダウ船しか見なかったと思うのだが、エンジン付きの漁船が多くなり、また近在の村に人を運ぶダウ船も増えているようだ。漁師が上がってくると、浜まで上がってくるのを待たず、仲買人たちは小舟でその漁船に乗り移り、買い取るようだ。浜に揚がった時には魚の値段はもう高くなっているというわけだ。マフィアの産業は漁業とココヤシだが、市場はダルエスサラーム。20年数年前は、ダウ船でダルエスサラームまで運ばれたようだが、今は対岸の本土(Kisijuなど)に渡されると、そこで待っているトラックによってダルエスサラームに運ばれる。

 キリンドーニから南東のビーチリゾートが並んでいる(といっても4軒だが)ウテンデ(Utende)に向かう。すぐに町は終わってしまい、ヤシのプランテーションが並ぶのどかな農村風景が広がる。途中で、マフィア海洋公園のゲートがあり、この7月1日から入園料が大人$20にアップされてしまったが、24時間制で入園料を徴収される。そのゲートの前の小さな集落には、ゲストハウスの看板が出ていた。欧米のバックパッカーはここら辺に泊まって、安く上げるのだろうか。

📷 ジュアニ島のマングローブの入り江   ウテンデから対岸のチョーレ島に渡る。エンジンを付けたダウ船で、わずか5分程。島に近づくと、ドイツ植民地時代の建物(税関?)がマフィア島からチョーレ島に渡る際の船着場に立っている。あたかもキルワ・キシワニ島のゲレザのような趣である。船を下りると小さなオフィスに連れて行かれ、一人$15なりの入島料を取られる。レシートを見るとChole Mjiniというホテルの名前が書いてあり、政府の代行をしているのか、あるいはこのホテルがチョーレ島の権利を持っているのか?その小さなオフィスでPCに向かっている白人の女性がいた。ムスリムの島なのに、ノースリーブで露出が多い。私たちのガイドに訊いたら、ホテルChole Mjiniのマネージャーだという。さもありなん。

 チョーレ島を歩くのが一種の文化観光とされているようだ。よく保存されている遺跡といっても19世紀の町の遺跡である。ザンジバルのスルタンの支配下だった時代には、マングローブ材を取引するインド商人も住んでいたらしく、ヒンドゥー寺院の廃墟もあった。島の中を歩く。キルワ・キシワニ島よりは人口密度は高く、畑もバナナ、ココヤシ、カシューナッツ、キャッサバ、マンゴーなどが植えられている。井戸もそこかしこにあり、ノルウェーの援助機関のオフィスもあった。コウモリがやたら多いのも目立った。昼間は大樹に大群がぶら下がっている。

 クア遺跡のあるジュアニ(Juani)島は小島だが、マフィア群島の中ではマフィア島に次いで大きい。チョーレ島を挟んでいる形になっている。ウテンデからダウ船で20分くらいかかっただろうか。入り江の中にボートをつけ、上陸して濃い緑の中を歩き出す。歩き出して10分ほど、かなり広い都市の遺跡が見えてくる。スルタンの住居や金曜モスク、一般の住居区、墓地などが草叢に点在している。保存状況もさほど悪くはない。13~15世紀、いわゆるキルワ・キシワニの最盛期と重なる時期が繁栄期だったとされるが、現在見られる遺構は18世紀のものだろうか。

 よく訊かれる質問だが、マフィアという名前の語源について。シチリア島とシカゴ、ニューヨークを結ぶシンジケートとは関係がない。アラビア語起源、ペルシア語起源、スワヒリ語起源などいくつか説があり、アラビア語起源説には複数の説がある。もっともポピュラーなのはアラビア語の「群島」を意味する言葉を起源とする説だが、初期の植民者であるアラビア半島のイェメン地方の氏族名から来ているという説もある。スワヒリ語起源「Mahali pa Afya(健康な場所)」説は分が悪いと思う。

 ☆参考文献:Justus Strandes『The Portuguese Period in East Africa』(East African Literature Bureau,1961)           James De Vere Allen 『Swahili Origin』 (East African Studies,1993)          Jan-Geroge Deutsch 『Emancipation without Abolition in German East Africa』(East African Studies,2006)

(2009年10月1日)

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