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Habari za Dar es Salaam No.92   "Dar es Salaam" ― 紹介 『ダルエスサラーム』 ―

最終更新: 7月30日

根本 利通(ねもととしみち)

 今回は、James R. Brennam,Andrew Burton & Yusuf Lawi 編 『Dar es Salaam - Histories from an Emerging African Metropolis』(Mkuki na Nyota, 2007)を紹介したい。副題はなんと訳したらいいのだろうか?「出現するアフリカ巨大都市の歴史物語」とでもいうのだろうか?ダルエスサラームという今どんどん成長していっている巨大都市を主人公とした歴史物語である。この本の存在を私はこの本の共著者(寄稿者)である鶴田格さんからいただくまで不覚にも知らなかった。ダルエスサラームにある出版社の発行なのにもかかわらずである。ダルエスサラームの一般書店の社会科学の棚でも見かけなかった。タンザニアの出版社の販売力の問題なのだろうか?

 ただこの本の起源はその序文に書いてあるように2002年行われたダルエスサラーム大学でのワークショップ(会議)である。私自身が鶴田さんに誘われて参加したことを思い出した。「20世紀のダルエスサラーム」と題したその会議は英国東アフリカ研究所(BIEA)とダルエスサラーム大学歴史学科の共催だったが、その時提出されたペーパー(報告)がこの本の根幹となっている。英語のネイティブスピーカーが多く、早口の議論について行けずに、居眠りしていたのを思い出す。


 本書の構成は以下の通りである。   第1章 出現する巨大都市-ダルエスサラームの歴史、1862ころ~2000年   第Ⅰ部 都市化を管理する-植民地ダルエスサラームの規制とその失敗   第2章 都市の燃料補給-ダルエスサラームと植民地森林政策の展開、1892~1960年   第3章 ダルエスサラームの人種、階級、住居-土地利用構造に対する植民地の影響、1891~1961年   第4章 隔離と土地保有階級化の間-アフリカ人とインド人、ダルエスサラームの住居を巡る闘い、1920~1950年   第5章 「昼間は兄弟」-植民地ダルエスサラームの都市民衆を警察する、1919~1961年   第6章 控えめな酒場-植民地ダルエスサラームにおける市当局の独占と独立酒造業者  第Ⅱ部 植民地、独立後のダルエスサラームの競い合う文化   第7章 Ngomaの衝動-ダルエスサラームのクラブからナイトクラブへ   第8章 SimbaかYangaか?-ダルエスサラームのサッカーと都市化   第9章 「ミニの時代」に-女性、仕事そして街中での男らしさ   第10章 「わたしゃ、半人前」-地方音楽の都会体験   第11章 「ちょっと何かいなかっぽい」-ダルエスサラームのヒップポップ音楽初期史

 編著者はそれぞれ、Brennam(ロンドン大学オリエント・アフリカ研究所アフリカ史講師)、Burton(BIEA名誉研究員)、Lawi(ダルエスサラーム大学歴史学科上級講師)という肩書きで紹介されている。この内、Burtonはダルエスサラーム通信第51回で紹介した『ダルエスサラームの都市化と犯罪』の著者である。

 この本の内容に沿いながら、ダルエスサラームという町の発展、歴史をたどってみよう。第1章に編者が略史を述べている。第3章と第4章に住宅地区の区分、時代による発展が記されているので、それを併せて記したい。この『通信』でも何回か触れたので、出来るだけ簡単に記したいのだが。

   ダルエスサラームという町が建設されたのは1860年代、おそらく1862年からザンジバルのスルタン・マジッドが夏の離宮の建設を始めた。マジッドは単なる離宮ではなく、ザンジバルの後背地の大陸側からの輸出港としての機能をダルエスサラームに期待したのだろう。ザンジバルのスルタンが町の建設を始める前は、ムジジマと呼ばれるションビ人などの漁民やザラモ人などの農民が住む小さな村だったと思われる。現在のザンジバル行きのフェリー乗り場の周辺から、南西側(駅の方向)に当時の建物が少し残っている。イスラーム風(ザンジバル風?)の町が作られようとしていたのだろう。1867年の推定人口は900人ほど。スルタン・マジッドが1870年に死に、後継のスルタン・バグラッシュがダルエスサラームの町にさほど興味を示さなかったためか、あるいはザンジバルそのものへのイギリスの圧力が強化され、それどころではなくなったためか(ザンジバルの奴隷市場の閉鎖は1873年)、ダルエスサラームの発展はゆっくりとしていた。

 1891年、ドイツ領東アフリカの首都がバガモヨからダルエスサラームへ移される。遠浅のダウ船用の港町であるバガモヨから、天然の良港であるダルエスサラームに移されたのだ。21世紀の現在、ダルエスサラーム港はキガンボーニ水道が浅く、大型船が通行できないので、港としての機能に限界があり、逆に新たにバガモヨ方面に大型港の建設計画が持ち上がっているが、ダルエスサラームが港町としての機能が重視されて発展してきたことがよく分かる。1894年の推定人口は10,000人ほど。

 ドイツの植民都市としてダルエスサラームは都市計画が作られる。現在の港沿いの地区にも当然アフリカ人が住んでいたわけで、彼らの財産であるココヤシの木や家があった。それをほとんど涙金のような補償金で追い出された1890年代のアフリカ人地主の記録が残っている。涙金でも補償金をもらえたのはいい方で、「その土地が自分たちのものである」ことを証明できなかった多くのアフリカ人たちは、ただ単に追い出されたのだろう。それどころか代わりに地主となった、ヨーロッパ人(あるいはインド人)に地代を払って住むようになった。例えば現在のカリアコー地区にあった213haのザンジバルのスルタンの農園を購入したあるドイツ人は、スルタン・プランテーション会社を作り、アフリカ人から地代を取って貸していたという。町中のアフリカ人の2,400世帯、24,000人の内、1,600世帯、15,000人がここに住んでいたとされる。


コロニアルな建物  ダルエスサラームの発展の中で、ドイツ、そしてその後を引き継いだイギリス植民地当局は都市計画を作成し、「公共の衛生のために(=ヨーロッパ人のために)」住居区は人種別に分けられる。ゾーン1はヨーロッパ人用行政区および住宅地で、現在の官庁街、シービュー地区、ウパンガ地区。ゾーン2がアジア人(インド系)用でバザールと呼ばれる商業地域で、現在の街中である。ゾーン3はアフリカ人居住区で現在のカリアコー、ゲレザニ地区であった。ゾーン2とゾーン3の間にオープンスペースが作られ(完成したのはイギリスの植民地時代の1930年代で、現在のムナジモジャ公園)、アフリカ人地区と隔離する思想が見える。南アのアパルトヘイトはそれを極端にしただけであって、西欧の作った植民地都市は基本的にそういう都市計画になっているものが多い。

 ゾーン1と2に住んでいたアフリカ人は、1920年代極めて少数の例外(ザラモ人の首長など)を除いて、ゾーン3へ追い立てられた。しかし、その一方でアフリカ人のためとなっていたゾーン3にアジア人が流入して行くようになる。それはアジア人の商業地区であるゾーン2の非衛生状態を改善するために、1年毎の土地の賃貸契約から、その土地に建てられる建物の価値によって、33年、50年、99年の土地の保有権を与えるという条例が施行されるに伴い、ゾーン2の建物が急速に改善され、それによって独身者だとか貧しい階層のアジア人たちがゾーン3であるカリアコー地区に流入してきた。また、それまで市場はゾーン2にあったが、1923年カリアコーに新たに中央市場が建設され、流通の中心として商業チャンスがカリアコーに生まれたことである。1927年、ゾーン3にある420ヶ所の取引所の内396はアジア人の保有となり、1931年には2,035軒の家の内142は正式のアジア人の所有となった。それ以外に、アフリカ人の大家が払いの悪いアフリカ人の店子を追い出し、アジア人の店子を入れる傾向が続いた。カリアコーの中心の通りであるムシンバジ通りでカリアコーを東西に分け、東は商業地区、西はアフリカ人のための住居地区としたりしたが、アジア人の流入、商業の支配は続いた。アフリカ人はカリアコーの西のイララという新たな住居地区に移住するものも増えた。第2次世界大戦が勃発し、1943年から人種別の食料配給が始まり、アジア人より低い配給レートとされたアフリカ人は、流通を握るアジア人との対立を深め、それは戦後の混乱期まで続いた。

 第2次大戦後の復興計画の中で、ダルエスサラームも拡大を始める。大戦中の1943年に推定45,100人だった人口は、戦後1948年の国勢調査で69,277人、独立前の1957年には128,742人に増えている。この人口の急増は専ら周辺の農村部からのアフリカ人の流入であるから、アフリカ人の住居区が整備されなくてはいけない。戦前から郊外の村が住居予備地域となっていたが、ムササニ、キノンドーニ、マゴメニ、キゴゴ、ケコ、チャゴンベ、ブグルニ、テメケといった区域である。これらの地域は植民地政府の手である程度整備されて分譲されたり、、ある程度の収入があるアフリカ人には住宅建設用のローンが与えられたりした、ダルエスサラームの中では比較的古く落ち着いた住居地域となっている所が多い。港沿いのクラシーニには一部ヨーロッパ人(港、教会関係者など)が住み、オイスターベイ地区はヨーロッパ人用住居区として整備された。

 しかし、1961年の独立後はダルエスサラームの発展にさらに拍車がかかる。独立後の最初の国勢調査の1967年には272,821人(現在の区域に直すと356,286人)、その次の1978年には843,090人、1988年には1,360,850人という具合である。当然アフリカ人の住居区域はさらに郊外へ伸びていく。北へはバガモヨ・ロードに沿ってミコロショーニ、キジトニャーマ、シンザ、ムウェンゲ、カウェといった区域。西へはモロゴロ・ロードに沿って、ムワナニャマラ、ウブンゴ、ムララクワ、マビボ、キマラ。南西へはプグ・ロードに沿って、タバタ、ヴィンググティ、ヨンボ、ゴンゴラボート。南へはキルワ・ロードに沿って、タンディカ、バガラ、そして水道の対岸にキガンボーニにもダルエスサラーム市街へ通勤する人たちの住居区域が広がっていった。

 2000年代に入ると(2002年の国勢調査では2,497,940人)、私がダルエスサラームに住みだした1984年にはまだ純然たる農村地域だった所にも、通勤者用の住居区が開かれ、郊外から、ウブンゴ、ムウェンゲ、テメケといった中継のターミナルでバスを乗り換えて、1時間以上かけて通勤してくる人が増えてきた、その中には、ブンジュ、キバンバ、キルビヤ、プグ、コンゴウェといったダルエスサラーム州とコースト州の境にまで広がり、いや実際にはキバハなどコースト州の町からダルエスサラームに通勤する人の数も少なからず存在しているのである。

 第6章の筆者は『Potent Brews』(2002年刊)という東アフリカの飲酒の歴史を調べた人だ。イギリスの植民地となった南東部アフリカでは、飲酒は常に「労働力の確保」との関連で政策づけられていた。特に南アのように大農園や鉱山のように安価な労働力を要求する所や、ケニアもある程度そうで、都市を「移民労働者のプール」とし、女性を締め出す傾向があった。ダルエスサラームではその規制は緩やかで、地酒製造販売者としての女性が存在していた。イギリス人(ヨーロッパ人)にとっては植民地における飲酒は「本来怠惰なアフリカ人を酔っ払わせ、ますます怠惰にし、あるいは凶暴にしかねないもの」として禁止、あるいは規制する対象である一方、行政当局としては酒類の製造・販売許可、さらには酒税による歳入の増加の対象でもあった。イスラームの影響の強かったダルエスサラームで、地酒としてのヤシ酒(Tembo)が、地方出身者には強すぎるとされ長く禁止されていたこと、より「衛生的な酒」を提供するために製造されたヨーロッパ人製造の地酒、市の酒場が不人気ですぐ閉鎖されたエピソードが書かれている。


サモラ・アヴェニュー  さて、この本の特色づけるのは実は第Ⅱ部の5つの章の方だろう。普通の学術書にはあまり出てこない、音楽とかサッカーの歴史あるいは近況である。ダルエスサラームという町を支配者の視点から描くのではなく、町の主人公である民衆の文化、遊びから眺めたいという編者たちの志向だろう。文化を生み出し、またそれを消費するのは民衆なのだ。

 第7章は音楽の通史になっている。最初に来た1975年ころは夜遊びをしなかったのでほとんど記憶ないが、1984年からの大学院留学時代にはよく夜のディスコにも行ったし、新婚時代にも妻と踊りに行った。そのころ全盛だったリンガラ音楽のバンド、ザイール人(当時)のスター、彼らが本拠地にしていたいくつかのナイトクラブの名前が懐かしい。また確かに当時全盛のザイール音楽なのだが、そのリズムの通称となっていたSikinde、Ndekuleや、Mdundikoといった踊りが実はダルエスサラームの地元のザラモ人のリズムの名前であるなど、新しい驚きだった。

 第8章の鶴田さんのヤンガとシンバのライバル話に少し触れておこう。実は私はヤンガ・シンバ戦を生で見たことはない。日本であえて例えれば大阪における阪神・巨人戦だろうが、それは大阪対東京という地域意識があるのに対し、ヤンガとシンバはどちらもダルエスサラームの下町カリアコーにあるクラブであり、地域性はない。元はといえば鶴田さんの書くように、ヤンガが行商人、漁師など教育のない労働者層でアフリカ人色が濃く、一方シンバが教育を受けたインテリ層、役人層で、アラブ人、インド人も参加しているという色合いの違いは、おそらく1980年代には残っていたようだが、今はそんな気配はないと思う。

 共に1930年代の末に起源を持ち、元々はダルエスサラームの原住民であるザラモ、デンゲレコといった人びとの社交クラブとしての性格を持ち、クラブのメンバーが死ぬと埋葬の互助組織となり、タアラブの楽団とも密接な関係をもっていた。ダルエスサラームの人気クラブとしてタンガニーカ全土に支持ファン層、友好クラブ網を築き上げて行く。1970年代の半ばに二つのクラブは分裂を経験する。シンバからはニョタニェクンドゥ、ヤンガからはパンアフリカンというクラブが分裂した。共に、巨大化全国化した人気クラブの経営の主導権、財政争いで、本来の創設メンバーの多くが争いに負けて出て行き、新しいクラブに創設した形になっている。私がダルエスサラームに住みだした1984年当時は、ニョタニェクンドゥもパンアフリカンも人気クラブで、1部リーグの優勝争いをしていたと思う。2000年代に入ってはとんとスポーツシーンでは名前は聞かない。ダルエスサラームの下町の社交クラブに戻っているようだ。

 10月末のヤンガ・シンバ戦はシンバが勝ったことは、翌日のダラダラが赤と白の旗を立てて走っていたので分かった(ヤンガが勝っていたら黄色と緑になる)。オフィスのスタッフに聞くと、入場料は最低で5,000シリング、スタンドで20,000シリングで、さらにVIP席など高い席があるという。そこそこ高いが目の玉が飛び出るような値段でもない。新装なった国立スタジアムでの次のヤンガ・シンバ戦を見に行ってみようかという気になっている。


再開発中のダルエスサラーム  第9章では1970年代初めに流行したミニスカートが、「ふしだらな服装」として取り締まられ、それに裁判で戦った女性のエピソードが記される。25歳独身の旅行会社のOLのポーリーンは1970年10月の土曜日の夜、知り合いの女性の家で開かれたパーティーの後、一緒に参加した女友だち数人と盛り上がり、街中のホテルに踊りに行く途中で警察に捕まった。11時ころである。彼女の着ていたひざ上15センチのミニスカートが「ふしだらな格好」ということで咎められたのだ。一緒に逮捕された女友だちが皆罪を認めて釈放されたのに対し、ポーリーンは罪を認めずに、4晩留置所に止まった後保釈金を払って釈放され、裁判に訴える道を選んだ。検察側の「ポーリーンの服装はタンザニアのものではなく、国の文化にとって恥である」とし、それに対し弁護側は「スチュワーデスが着ている服は国際水準であり、ふしだらとは言えない」としながらも「タンザニアに服装の丈を定めた法律はないから、これは国会の問題である」と一方で回避を図った。結局、ポーリーンは無罪になるのだが、この裁判は例えば当時の世界的なミニスカートの流行にタンザニアの女性も無関係ではなかったことを示すだけではない。1969年1月から開始された当時の支配政党TANU(タンガニーカ・アフリカ人民族同盟=現在のCCMの前身)の青年部による「若者作戦」といわれるキャンペーンが背景としてあった。「若者作戦」は地方からダルエスサラームに上京して職のない若者を農村に強制的に送り返したりしたのだが、女性のミニスカートやスラックス姿も取締りの対象となっていた。若者風俗の変化を、性風俗の退廃、売春と結びつける保守層、特にタンザニア女性同盟(UWT)からの批判が挙げられる。しかし、さらにこの背景としては独立後強まってきた都市(特にダルエスサラーム)への若い女性の流入、URAFIKI紡績工場などで女性工員が大量に採用された社会現象がある。1967年のアルーシャ宣言以降の社会主義政策の展開の中で、建前としての「性の平等」が少しずつにではあるが社会の中で現実に進行し、女性の給与所得者、ホワイトカラーも出現し、一方で依然として失業率が高いダルエスサラームの若い男が結婚難に陥り、街中では今までの「男らしさ」の威信が崩れていくという過程でもあったという。1970年代は十分に歴史の対象になっているということか。

 第10章はおもしろい。タンザニア南西部のマテンゴの人びとが、ダルエスサラームに出てきて小さな共同体を作っているのだが、その人びとの集まりで、民族の音楽が故郷を結ぶ絆になっているという話。マテンゴの人びとは、元々肥沃な土壌に豊富な降雨量があり、1950年代からのコーヒー生産も順調で、土地を離れて都市へ向かう移民数が比較的少なかった。ただ、ドイツの植民地時代からベネディクト派教会・修道院による教育の条件がよく、高学歴の人たちがダルエスサラームで政府、国際機関などのポストを得る比率も高かったという。そのマテンゴの人たちのダルエスサラームでの小さな共同体は、住居区が集中しているなどの特に強固な紐帯をもっているわけではないが、メンバーの子どもたちの洗礼祝い、結婚式などで、大勢集まった時に注目を浴びるのはLindekoという音楽だという。太鼓と鋤という二つの楽器からなる単純な音楽だが、参加者は情熱的に踊り、マデンゴ語で歌うという。マテンゴ高原での幼少の時代の生活を懐かしむ一世世代にとっては、「自分が都会でも田舎の人間でもないような中途半端な人間のように思える」瞬間なのだろう。そしてその子どもたちで、ダルエスサラームで生まれ育ち、田舎での生活を経験せず、マテンゴ語をほとんどしゃべれない若者たちにとってLindekoという音楽は、自分たちのアイデンティティに結びつくのか、今から30年後の次の世代につながるのか…コスモポリタンになりつつあるダルエスサラームのマテンゴの人びとを思うと共に、ふと自分たちの子どもたちのアイデンティティを思い浮かべた。

 さて、2009年の現在、ダルエスサラームは人口は350万人を超えていると思われる(400万人説もある)。人口面ではナイロビを凌駕して、東アフリカ最大の都市に成長した。(本書のデータに依れば1990年代に既に抜いていた) 社会主義の時代は土地への投資がほとんどなく、街中も植民地時代の建物が幅を利かせ、「古き良き時代」を髣髴とさせていた。それが1990年代の半ばから始まる自由化の流れの中で、再開発、古い建物の取り壊し、高いビルの建設ラッシュが始まった。今年は世界不況のせいで工事がストップしているものもあるが、街の再開発の流れは変わらないだろう。その流れの中で、古いコロニアルな建物がどれだけ生き残るか… ダルエスサラーム通信第62回、およびダルエスサラーム通信第74回で紹介したような建物群である。タンザニア政府の指定している「保存すべき建物28」であるが、それがどうなっていくのか、あるいは再開発されてしまうのか、また主人公であるダルエスサラームの住民はよりコスモポリタンになっていくのか、見守って行きたいと思っている。

(2009年12月1日)


ダルエスサラーム物価情報

(2009年12月)US$1=Tsh1,336シリング

・バス/1乗り/Tsh250~Tsh450・新聞(朝刊英字紙)/1部/Tsh500・ガソリン/1リットル/Tsh1,530・米/1kg/Tsh1,500・たまねぎ/1kg/Tsh1,000・砂糖/1kg/Tsh1,400・ウンガ/1kg/Tsh750・牛肉(ステーキ)/1kg/Tsh6,000・卵/トレイ/Tsh6,000・パン/1斤/Tsh800

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