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Habari za Dar es Salaam No.95   "Multilingualism in Africa" ― 紹介 『アフリカのことばと社会』 ―

根本 利通(ねもととしみち)

 今回は、梶茂樹+砂野幸稔編著『アフリカのことばと社会ー多言語状況を生きるということ』(三元社,2009)を紹介したい。この本の著者からいただいたのだが、この本の執筆者は16人に上る。そのうち、私が個人的に存じ上げている方々が8人、つまり半数もおられることに我ながらびっくりしてしまった。彼が(彼女が)どんなことを書いているのかなという興味で読み出したのだが、知っている執筆者の文章はもちろんのこと、知らない方の文章も思わず誘い込まれるようにして読んでしまった。正直、かなりおもしろかった。もちろん私は言語学には全くの門外漢であり、かつ中学生時代から英語はできなかったから、外国語学というものに一種の恐怖をもっており、その証拠にタンザニア滞在25年(四半世紀!)を超えた今も、スワヒリ語一つ依然半可解のままの状態である。従って批評ということではなく、素人の感想ということである。

 本書の構成は以下の通りである。   まえがき (砂野幸稔)  【総論】   第1章 アフリカにおける言語と社会 (梶茂樹)   第2章 アフリカの言語問題ー植民地支配からひきついだもの (砂野幸稔)  【西アフリカー旧イギリス領】   第3章 言語の命を支える民族のアイデンティティー言語大国・ナイジェリアのケース (塩田勝彦)   第4章 英語主義か多言語主義かーガーナの言語問題 (古閑恭子)  【西アフリカー旧フランス領】   第5章 拡大するウォロフ語と重層的多言語状況の海に浮かぶフランス語ーセネガル (砂野幸稔)   第6章 ストリートで生成するスラングーコート・ジボワール、アビジャンの都市言語 (鈴木裕之)  【西アフリカー旧ポルトガル領】   第7章 アフリカ諸語の有無が生む差異ーカボ・ベルデとギニア・ビサウの場合 (市之瀬敦)  【中部アフリカー旧ベルギー領】   第8章 多言語使用と教育用言語を巡ってーコンゴ民主共和国の言語問題 (梶茂樹)  【東アフリカーエチオピア】   第9章 文字は誰のものかーエチオピアにおける諸言語の文字化をめぐって (柘植洋一)   第10章 数百万人の「マイノリティ」-ウォライタ(エチオピア)の場合 (若狭基道)  【東アフリカー旧イギリス領】   第11章 言語的多様性とアイデンティティ、エスニシティ、そしてナショナリティーケニアの言語動態 (品川大輔)   第12章 多民族・多言語社会の諸相ーウガンダにおける言語政策と言語使用の実態 (宮崎久美子)   第13章 スワヒリ語の発展と民族語・英語との相克ータンザニアの言語政策と言語状況 (竹村景子・小森淳子)  【マダガスカル】   第14章 未完の「国語」ーマダガスカル語とフランス語の相克 (深澤秀夫)  【南部アフリカ】   第15章 動き続けるアフリカ諸語ーナミビアの言語事情 (米田信子)   第16章 11公用語政策の理想と現実ーアパルトヘイト後の南アフリカ共和国言語事情 (神谷俊郎)    【手話言語】   第17章 アメリカ手話とフランス語の接触が生んだ手話言語ーフランス語圏西・中部アフリカ (亀井伸孝)  あとがき (梶茂樹)

📷  まず第11~13章から始めよう。タンザニアを含む東アフリカ三国の状況から。私はほぼ100%皆がスワヒリ語をしゃべり、国中どこへ行っても通じるタンザニアに25年間暮らしてきた。英語が出来なくて困った場面は数少ない。一番困ったのはダルエスサラーム大学の大学院に留学していた時の授業。英語での授業、議論のスピード、宿題の量について行けず、教官も同級生も「英語すら出来ない東洋から来た劣等生」を困ったもんだと思いつつ、スワヒリ語で補足しながら丁寧に説明してくれた。それでも落第したけどね。

 タンザニアでは国会ではスワヒリ語で議論されている。大統領はじめ政治家の演説はスワヒリ語だし、テレビ放送もほとんどスワヒリ語だ(英語ニュースも少しある)。役所に行っても公文書はスワヒリ語が原則で、英語併記が普通だが、スワヒリ語だけの用紙もあって、慣れない外国人は途方に暮れたりする。電話公社が民営化される前の公社編集の電話帳には英語併記がなく、「こんなもの、どうやって使えばいいんだ!」と怒っていた日本人がいたことを思い出す。これだけ圧倒的にスワヒリ語が読み書きにも普及しているのもかかわらず、中学校以上の教育用語は英語になる。確かに小学校1年から英語は教科としてはやっているから、中学校で英語で授業できないことはないのだろうけど、物理や化学なんかいきなり英語で授業されても分からないだろうなと、文科系の自分は思う。大学生ですら、授業後のディスカッションはスワヒリ語でやっているから、科学技術用語は英語からそのまま借用したとしても、スワヒリ語で大学の授業まで出来ないことはないのだ。それを「中等教育以上の教育用語は英語」を維持するのは、「国際化する社会についていくために」という名目と、「英語が出来たから今の地位がある現在の支配層の特権維持」という目的以外に、今の指導者層の「英語なんてそんなに難しくなかったよ」という本音が隠れているように思える。

 同じようにスワヒリ語を国語・公用語とし、スワヒリ語の本家本元の一つ(モンバサ、ラムなど)を抱えているケニアの状況はだいぶタンザニアと異なるようだ。モンバサではもちろんナイロビでもかなりスワヒリ語は通じる。従って、スワヒリ語で旅行するに支障はない。ただ、それはかなり簡略化されたものであることが多い。つまりナイロビにいるケニア人の間の共通語であって、ホテルとかレストランとか異なる民族が一緒に働いている職場での簡単なやり取りのための言葉のように見える。ギクユ語なんかはよく街中で耳にしたし、それ以外の民族語も頻繁に話されているようだ。住居区とか家庭では当然民族語の比率が高まるのだろう。ナイロビのスワヒリ語はあくまでも三番手なのだ。だから、ダルエスサラームで生活にスワヒリ語を使っている私が、ナイロビで英語ではなくスワヒリ語を使って話しかけると、「外国人の癖に」と怪訝な顔をされたり、ちょっと軽く見られたり、好意的に言われれば「お前はスワヒリ語が上手だね」となる。それは(外国人にしては)という限定付の褒め言葉であることが多いのだが、ザンジバル人の友人との会話で使っているスワヒリ語をそのまま使った時なんかは、ナイロビのケニア人には通じなかったのかもしれない。もう10年以上も前のことだから、ナイロビのスワヒリ語の状況も変わっているかもしれないが、あまりスワヒリ語の地位は高くないと感じた。だから、昨年のような民族対立が起こるのだというのは牽強付会だろうか。

 古くからの東アフリカ三国(最近はルワンダ、ブルンジが東アフリカ共同体に加盟したから五カ国となっている)の一つであるウガンダはもっと状況が異なる。カンパラではスワヒリ語がなかなか通じないことは私も体験している。ナイロビではまず通じだが、カンパラでは分かってくれる人を探すのは大変だった。圧倒的にガンダ語が幅を利かせていた。第12章の言語の使用状況を見ると納得がいく。そのウガンダで2005年にスワヒリ語が「第2の公用語」であると定められたのは東アフリカ共同体の実質化が進んでいるからだろうか?ルワンダもブルンジも東アフリカ共同体に加盟し、フランス語離れ、英語化が進むと思われるが、スワヒリ語もかなり通じる。ルワンダには行ったことがあるが、フランス語が出来ない私と英語が出来ないルワンダ人との会話はスワヒリ語でなされた。それは首都のキガリだけではなく、キヴ湖畔の町へ行く途中の農村でも同じだった。ブルンジにはまだ行ったことがないが、スワヒリ語が良く通じるという。それはルワンダ、ブルンジの難民が多く、タンザニアに避難して来て、また帰って行ったことに起因するのだろうか?もっと以前からそうだったと思われるのだが。

 マダガスカル、そしておそらくソマリアとかボツワナ、レソト、スワジランド、ルワンダ、ブルンジ、カボ゙・ベルデなど、国民の大半が単一言語に近い状態の国は、もし為政者がその気であれば、タンザニアのように一つの民族語を国語と出来たかもしれないのだろう。ソマリアは成功しかけていたようだが、国自体がなくなってしまった。マダガスカルなんて簡単だろうと思っていたが、第14章を読むとそうではないのが分かる。フランス文明至上主義がもたらした結果の一つなのだろうし、独立後50年近く経つのにこの間の政権争いの結果、マダガスカル語が「未完の国語」の位置にとどまっていて、英語が第三の公用語に指名されるなど為政者の意思のなさを感じる。第13章に「タンザニアの言語状況が、120以上もの民族を抱えながらも独立以来政情が安定し、内紛を避ける要因になってきたと言われることがあるが、これは逆であり、タンザニアに目立った民族主義や地域主義、またそれらに起因する政治的対立や紛争がなかったからこそ、スワヒリ語の発展と普及がここまでの成果をおさめたのだと言えよう」(P.410)とあるが、首を傾げてしまう。単純な原因・結果論ではないが、タンザニアにも常に分裂しようとする民族主義・地域主義は内在しており、独立闘争を率いたニエレレ・TANUは現実主義と理想主義の狭間を生き抜いてきた。スワヒリ語の国語化は、様々な恵まれた条件があったとしても、為政者の強い意志があったのだと思う。

 西アフリカの多言語状況は、私の想像できる範囲を超えるようだ、特に、ナイジェリアの場合は、ハウサ語、ヨルバ語、イボ語といういわゆる三大言語+ピジンが地域共通語として機能しているようだが、1億5千万人もいる巨大国ゆえ、地方でも多層的な多言語状況があるようだ。もちろん公用語は断然英語である。中部アフリカの大国であるコンゴ(民)でも4つの国語(スワヒリ語、リンガラ語、コンゴ語、ルバ語)があるが、公用語としてのフランス語の地位はゆるぎない。ガーナではアカン語、セネガルではウォロフ語という有力民族の民族語が実質的な共通語として、その勢力を拡大しつつあるが、それは話し言葉としてであって、読み書きする言葉、学校で授業に使う言葉にはまだまだ萌芽段階であり、かつその将来に今のところ展望はない。セネガルでは有力な共通語であるウォロフ語が、なぜ国語になれないかに関しては砂野さんの別の著書『ポストコロニアル国家と言語ーフランス語公用語国セネガルの言語と社会』(三元社、2007)にさらに詳しい。ユネスコなどの「母語優先主義」「多言語主義」という理想的に見える少数派言語保護思想が、分断されたアフリカ諸国においては、結果として英語やフランス語という旧植民地宗主国の言語の公用語としての地位を維持させる「言語帝国主義」を支えることもあるのだという例示である。

 南部アフリカ(南ア、ナミビア)の状況も、アフリカ諸語の立場から言うと苦しいようだ。特に1996年の新憲法で、英語とアフリカーンス語以外の9つのアフリカ諸語に公用語の地位を与えた南アにしても然りである。もっとも話者人口の多い(1千万人を超える)ズールー語にしても、都市での共通語(話し言葉)としては機能しても、文章語、あるいは教育用語としては歓迎されない。これはほとんど全ての国において共通していて、英語(あるいはフランス語)が出来ないと、いい就職が出来ないから、親が子どもたちに英語を学ばせたがるという現実がある。

 アフリカの言葉を、自国民の言葉をもたないで、英語で(フランス語やポルトガル語でもそうだが)借り物の言葉で小学校から考えていては、どこまで行っても英米には勝てないじゃないかというのが、私の昔からの思い込みだ。日本人は日本語で考えてきたからこそ、独自の発明、発見ができたのだと思うのである。そういう立場からすると、アフリカ諸国の場合はタンザニアを除いてはなはだお寒いように見える。教育用言語に母語を、最低小学校低学年の3年間使用するということすら、かなり困難を伴うようだ。ガーナ、ナミビアなどの例を見ると良く分かる。タンザニアのようにスワヒリ語一本でいけず、母語教育と言っても地域の有力語だけでも5~10以上あるのだから、いくらUNESCOから支援を受けても教科書・教員の養成だけでも貧しい国家・国民はかなりの経済的負担になるし、手っ取り早くグローバル化につながる英語(フランス語も)を学んだ方が効率的だという考えは分かる。

📷  第16章に描かれているように、「数あるメディアのなかで、音のみを伝達手段とするラジオが突出して普及しているという事実は、歴史的に無文字社会であったアフリカの諸言語が今なお『文字社会に馴染んでいない』ことの表れともいえる」のだろう。文献志向である自分を振り返ってみる。日本語での発想に囚われていないか。アフリカの人たちは話し言葉と読み書き言葉の乖離にさほど悩んでいないのかもしれないと思う。サハラ以南のアフリカで例外的に文字をもち、植民地化されなかったエチオピアの例も紹介されている。長い歴史をもつエチオピア文字とそれを使用したアムハラ語の表記も、長い間ごく一部の階層の専有物にとどまり、一般化されて行ったのは20世紀に入ってからであり、それでも1970年の識字率は7%に留まっていたという。特権的な地位を与えられていたアムハラ語にしてそうであるから、他のオロモ語、ティグレ語といった有力言語の文字化も当然遅れ、さらに少数の言語にいたっては、21世紀の現在になって文字化が進められているものも多い。だが「誰のための何のための文字化か?」という問いが出てくる。

 言語政策は為政者の意思に左右されることが多いと私は述べた。為政者とてグローバル化の進む世界の中で国際資本の動向に左右されるであろう。理想だけでは政治家はやっていけない。しかい、タンザニアのようにスワヒリ語でほとんど全ての人間が読み書きし、新聞を読み、テレビやラジオを理解していると、単なる口コミだけの時代より、はるかに為政者の動向に敏感になり、為政者の腐敗・汚職に批判の声が上がる。もちろん、情報はまだまだ管理され、秘匿されているものも多いとは思うが、それでも確実に一般化・大衆化は進んでいるように思うのである。英語(あるいはフランス語)を過半数の人たちが自由に操るなんてことはありえないし(あってもほしくないが)、やはり民衆が自分たちの生活を自分で支配できるようになるためには、アフリカ諸語を選択して行くほかはないと思っている。もちろん、これはタンザニアにおけるスワヒリ語のような単一の国語が最高の選択肢だといっているのではない。多言語状況の社会のもつ弾力的な豊かさ、可能性を信じたいと思う。

 この本の内容は執筆者個々の考えを尊重してか統一されていない。それは「はじめに」で編者が書いているように、「部族・部族語」という言葉に関してもそうである。「民族語・XX人」7人、「民族語・XX族」3人、「部族語・XX族」2人、「その他不明」4人というのが混在している。それぞれの執筆者がフィールド調査された段階で、「部族共同体の言葉」という理解でおられたのか、そうでないかが判然としない文章もある。

 民族語、共通語、国語、公用語と旧植民地宗主国の言語(英語、フランス語、ポルトガル語)との相克の問題が大きなテーマであるが、将来フランス語やポルトガル語すらアフリカ大陸の中から消えて行く状況の予兆が既にあると思う。ルワンダの例を挙げるまでなく、英語一元化の動きが世界中に存在している。幸いに日本語だけで全て完結できる日本ですから、小学校に英語という教科が導入されるご時勢であるからして、確固たる文化政策をもつたなかったらアフリカ諸国の言語などひとたまりもないのではないかという気がする。 

 遠い過去の思い出を語ろう。1975~76年、私が初めてアフリカを旅した時のことである。その時はタンザニア(半年)を中心に、ケニア、ザンビア、ボツワナ、ローデシア(当時)、マラウィの6カ国を9ヶ月かけて回った。その時、22歳で何も分からず、そのくせ自負心だけは強かった私はいろいろな方々にお世話になったし、迷惑もかけただろう。その中に言語学者、当時は少壮の学者さん二人Yさん、Kさんがいた。ダルエスサラームで最初にYさんにお会いし、ザンビアのルサカではYさんのいた大学の教員宿舎に泊めていただき、ボツワナのハボロネでは町を歩いていて偶然に会った(当時は目抜き通りは1本しかないから可能性は高かったのだが)Kさんの借りている宿舎に転がり込んだ。

 その後、お二人とは長くお付き合いをさせていただいたのだが、お二人の考えておられたバントゥー諸語の比較研究から、その言語の近縁性を数量的に引き出し、カメルーン西部~ナイジェリア東部と推定されるバントゥー民族の故地から、どのような過程で現住地まで移動したかを推定し、歴史を構成するという雄大な構想に圧倒された記憶がある。Yさんの調査方法は、自分の宿舎にインフォーマントを呼び、朝から晩まで集中的に質問表をぶつけ、短期間に多くの言語数を仕上げる方法を採っていたように思う。のんびりと生活することに慣れていたアフリカの人たちにとっては、かなりきつい頭脳労働を長時間要求されているようで、傍目には拷問のように見えた。一方でKさんは、人類学者のように言葉がしゃべられているフィールドに出かけ、一つの言語に長い時間をかけておられたように思う。もちろんこれは門外漢の無責任な感想に過ぎない、念のため。お二人はもう退官され、タンザニアに見えることはなくなった。過去30年間以上にわたって収集された膨大な資料の分析にお忙しいことだろうと思う。悠々自適されるような性格ではないと思うので…。34年前に見せていただいた壮大な夢を目の当たりにすることが出来るだろうか、楽しみである。この本の編者、執筆者たちは、お二人の後輩、教え子に当たる人たちが多い。34年経ったのだなぁ…という個人的な感慨のおまけだった。

(2010年3月1日)

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